すがやみつる――インベーダーゲーム全盛期に「ゲームセンターあらし」で一世を風靡し、その後「こんにちはマイコン」でプログラミングを漫画で分かりやすく解説した漫画家だ。
40代前後のIT業界周辺に身を置く読者の中には、彼の作品が自分の人生を決めた一因という人も多いはず。最近では漫画家から大学教員への転身が話題にもなった。
時代は違えど、技術革新の中、キャリアを構築して行くという意味では氏を取り巻いていた状況は現在に通じるものがある。漫画、そしてテクノロジーに向き合ったその歩みを振り返ってもらった。
あらしの大ヒットの中うまれた「こんにちはマイコン」
–すがや先生といえば、多くの人がまず思い浮かべるのが「ゲームセンターあらし」だと思います。まずは、あの作品を描いたきっかけを教えてください。
すがや:のむらしんぼさんの「コロコロ創刊伝説」でも取り上げてもらったのですが、ゲームセンターあらしは、1978年に編集部から「ゲーム漫画をやりませんか?」とタイトルも決まった状態で打診があったんですね。「表紙の入稿〆切は今日です」と言われてさすがにびっくりしましたが(笑)。1回読み切りで、インベーダーゲームが登場する前だったので、「ブロック崩し」を題材にしました。
僕はそれまで石ノ森章太郎先生に師事し、先生原作の「仮面ライダー」のコミカライズでデビューしたこともあり、二枚目キャラが活躍するSFを手がけていたのですが、もっと泥臭い、子どもに受けそうなキャラクターを、というリクエストを受けてああいうデザインになりました。
実は、最初の読み切りのときに最初に提案したあらしのキャラクターカットではもっと太っていたんです。まだインベーダーゲームが登場する前だったので、帽子にインベーダーのマークもありませんでした。
©すがやみつる
–この体型だと月面宙返り(ムーンサルト=もとは1972年のミュンヘンオリンピックで体操の塚原選手が発表した技)は厳しそうです(笑)
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すがや:結局編集者からのオーダーにそって後の形に落ち着きました。
キャラは決まったので、次はネタです。編集者が用意してきた1万円札を銀行で100円硬貨100個に両替して、歌舞伎町のゲーセンで1日中ブロック崩しをやったりしたんですが、結局、その時は読み切りで終わってしまったんですね。で、翌年、インベーダーゲームが登場し、あらしをコロコロコミックの増刊号で復活させたところ、アンケートでダントツ人気となって連載が始まりました。
連載当初はそれでもあまり手応えを感じなかったんですが、単行本が発売されたところ初版2万5000部が発売日の午前中で売り切れてしまい……緊急増刷が決まりました。その後1年で5巻まで刊行し100万部を超える大ヒットになったんです。
子どもたちにとっては、お小遣いに限りもあるし、風営法による規制強化もあってゲーセンには気軽には行けなかった。そんな中ゲームの情報をチェックしたり、疑似体験できる漫画として楽しんでもらえたんだと思います。
–でもそんな大ブームの中(1982年)に、「あらし」のキャラクターたちがそのまま登場する「こんにちはマイコン」も発売されてますよね。
すがや:そうなんです。実はそのころはもうマイコンに夢中で、MZ-80Kを買ってBASIC、そしてそれに飽き足りずマシン語にまで手を出していました。仕事が終わると寝る間を惜しんでのプログラミングでしたね(笑)
–当時わたしは小学生でマイコンを買ってもらえず、同梱されていたキーボードポスターとソースコードを眺めながら、ゲームが動く様子を想像していました(笑)
「秋葉原」は情報革命の原点だった
–ゲームセンターあらしにもプログラミングをテーマにしたエピソードが登場します。またeスポーツ的な世界観が早くも呈示されているのにも何十年ぶりに読み返して気付かされました。
©すがやみつる
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すがや:僕自身はゲームそのものよりも、実はマイコン・パソコンの方に興味の中心があったんですよね。アマチュア無線にハマっていたこともあり、70年代後半~80年代の秋葉原に頻繁に足を運んでいました。
–当時の秋葉原はアスキー創刊編集部があったり、現在のITスタートアップの熱気にも通じる場所でしたね。先生はアスキー創業者の西和彦さんを題材としたセミフィクションの作品も発表されています。(現在、この作品はnoteで読むことができる)
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すがや:当時マイコンにハマった人たちはアマチュア無線から流れてきた人がほとんどでしたね。1976年にTK-80Kというワンボードのマイコンが出て、NECがBit-INNというショールームをラジオ会館に開設します。
アナログからこの世界に入った僕は、最初デジタルがまるでわからず、ロジックICを使った論理回路から改めてデジタルというものを勉強して、そのネタをラジコン漫画で活かしたりしていました。パソコン通信もまだありませんから、情報交換はアマチュア無線仲間を通じて、という感じで。原稿を書きながら眠気覚ましを兼ねて無線をやってましたね(笑)。
–現代の漫画家が作業中にTwitterをやるのに似ているかもしれませんね(笑)。しかし、当時はITという言葉はありませんでしたが、デジタル技術が社会を変えていく起点であったことは間違いありません。
すがや:アルビン・トフラーが産業革命に次ぐ情報革命を説いた「第三の波」が刊行されたのが1980年です。ゲームのようなエンターテインメントの分野だけでなく、ビジネスパーソンにとってもコンピューターを扱えることが必須と喧伝されるようになったのもこの頃でしたね。「BASICができないビジネスマンは失格だ」という特集が週刊誌に組まれたりね。それは少し大げさすぎたと思いますが(笑)。
–プログラム教育の必要性が叫ばれる今にも通じるものがありますね。歴史は繰り返します(笑)。
学習漫画という新ジャンルへの挑戦
すがや:僕自身は「あらし」は頼まれ仕事という意識が強かったのですが、パソコンは本当に好きで好きでしょうがなかったんです。あらしの連載や仮面ライダーのコミカライズなど、月200~300ページの作業の合間に、寝る間を惜しんでプログラミングをするものだから、30歳なのに体重は落ちるは、目はかすんで見えなくなるわで……。
妻と母親が心配してパソコンを隠してしまったことさえありました。「粗大ゴミに出した!」って。数カ月後に押し入れの奥底に隠してあるのを見つけましたが(笑)。
–そんなにハマッていたんですね……。
すがや:「趣味は仕事にしない」というのが20代のころのポリシーだったんですが、ラジコン漫画でその禁を破ってからは、手応えを感じたんです。漫画なんだけど、理系というか、事細かに解説を加えるという手法は、ゲームセンターあらしでもかなり取り入れています。
–ストーリー展開を楽しむと同時に知識も学べる。
すがや:はい。そういう手法そのものは僕が確立したわけではなく、白土三平さんが「忍者武芸帳」や「サスケ」で忍術解説を行っていたのにも影響を受けています。
©すがやみつる
いま日本財団が「これも学習漫画だ」というプロジェクトを進めており、私も学習マンガ的な作品を色々調べてシンポジウムで発表もさせてもらっているのですが、矢口高雄先生の釣り漫画なんかも、これでもかというくらい詳しく、リアルに釣りの技術を描いてますよね。
–そういった系譜を引きながら、「こんにちはマイコン」が生まれたわけですね。
すがや:直接のきっかけは朝日新聞の読書欄で「イギリスで子ども向けのコンピュータ解説書が大人向けにも売れている」という記事を読んだことでした。
すぐに企画書を書いて小学館に持ち込んだんですが、反応は芳しくなくて。お蔵入りになりそうだったので、「アスキーに持っていきますね」と連絡したら「ちょっと待ってくれ」って(笑)。慌てて類書を調べると、実はNHK教育テレビのテキストが30万部前後売れていることが分かり、Goサインが灯りました。
–なんと!「こんにちはマイコン」がアスキーから出ていたかも知れなかった。
すがや:そうなんです。でも小学館から出たことでより幅広い読者に手に取ってもらうことができたのかもしれません。その結果「新しい学習漫画」として82年度の第28回小学館漫画賞も頂くことができました。その後、ビジネス誌での連載や、漫画によるパソコンソフト解説書や株式投資解説書を手がけることになり、累計100万部を超えたシリーズも生まれました。
–そのころは私もロータス1-2-3の漫画解説書(すがや氏が構成を担当・このシリーズはマンガ図書館Zで無料閲覧可能)にはお世話になりました。すごく分かりやすくて助かったのを覚えています。
すがや:あれも1冊かけて請求書一枚作るだけなんですけどね(笑)。
–そんな簡単なことができない人が当時いかに多かったかを物語りますね……。
すがや:あの頃パソコンブームを受けて入門書はたくさん登場しましたが、どれも教科書的というか、「あれもこれも」となっていたので、僕は逆に絞り込むようにしていました。MS-DOSの解説漫画も紹介するコマンドは12個に厳選していますし。「入門書の入門書」と位置づけていました。
–なるほど。漫画だから分かりやすいという以前に、必要な情報がギュッと凝縮されているわけですね。
100万部大ヒットよりも10万部を10年続けたい
すがや:それが出来たのも僕がマイコンにせよ、株式投資にせよ自分でやって理解してから企画・構成を手がけるようにしていたからだと思います。自分でやると「痛い思い」をしますから、そこが活きてくると思うんですよね。電源コードに躓いて抜いてしまったり、フロッピーディスクを逆さにいれてしまったり、とかね(笑)。
当時「ニュー・ジャーナリズム」というムーブメントがありました。分かりやすいところでは沢木耕太郎さんが例に挙げられますが、取材対象と積極的に関わり合う取材手法が特徴です。僕も「実際にやってみる・生の現場に行く」という面で強く影響を受けたと思いますね。
こういうことができるようになったのも、仮面ライダーのコミカライズに際しての石ノ森章太郎先生の方針が大きかったと思います。
原作もののコミカライズは、テレビのシナリオをそのまま絵にすることが通常なのですが、先生は「そんなことしてたら勉強にならないだろう」とゼロからストーリーから作ることを許してくれました。途中からは先生の監修もなくなって、本当に自由にやらせてもらえるようになりましたね。
–絵の巧さだけで勝負する、ということではなかったわけですね。
すがや:石ノ森先生からは「お前は絵は下手だけど、アイディアは面白い。それで行け」って言われてました。だから自分の会社を作るときも「すがやプロ」ではなくて「オレンジ企画」という正体不明な名前を付けています(笑)。漫画だけでなく、企画でもビジネスをしたかったからです。
–それは児童漫画・学習漫画ではこの先も食っていくのは難しい、と思ったから?
すがや:そういう風には思いませんでしたが、何よりもまず自分が面白い、と思えることをやり続けたかった、というのが第一ですね。
あとは「あらし」もそうですが、一過性のブームが終われば、スタッフを食わせていくだけのベースラインの稼ぎが必要になります。100万部が一度に売れるよりも、10万部が10年続くような「地味な」企画を追求できるチームにしようと考えてのことですね。
「細く長く」売れる秘訣
–普通「あらし」のような大ヒットが出ると、2匹目のドジョウを狙おうという風になりがちですが、すがや先生がそうならなかったのは何故なんでしょう?
すがや:編プロや編集部で編集の仕事も経験していたのが大きいでしょうね。厳しい言い方をすれば、漫画家はいくら売れても、結局は使い捨てだという現実を見てきたからだと思います。
また少年漫画以上の大人向けの漫画は作者にファンが付くけれど、児童漫画は作品とかキャラにしかファンが付かないんですね。
だからどうしても一本一本が勝負で、二番煎じを続けてもジリ貧にしかならないことが多くて……。だから、アニメ化されて漫画賞をもらったときには「もうこれは終わりだな」と。次に向けて走っていこうと思いましたね。
–先生は現在大学教員でもあるわけですが、そもそも漫画一本でというわけでもなかったんですね。
すがや:もともといずれ小説を書きたい、という希望を持っていたので、そこに向けて漫画を足がかりにできればと思っていました。実際、「あらし」や「こんにちはマイコン」のヒットで新しい企画を持ち込んでも通りやすくなりましたし。
–わたしは最新のITの話題を記事や本にすることが多いものですから、世の中の関心が移ろいやすく、それ自体が長く読まれる・売れるということがあまりありません。とても考えさせられるお話しでもあります。
すがや:先ほどの「入門書の入門書」あるいは「教科書」のように基礎の基礎を押さえるというのが、一番「細く長く」売れるコツかも知れませんね。
–あえて絞り込むというのは、一見シンプルに見えて、その実、綿密な取材や体当たりの取材があってこそ少ない情報量でも価値が高まるわけで、実は高い技術が求められますよね。
そして、小説家・教員・統計学へ–探究心の源泉とは?
–先生のお名前をはじめてTwitterで拝見したときに、早稲田で改めて、それも統計学を勉強されていると知って驚いた記憶があります。児童漫画、学習漫画、小説家としての歩みがあって、アカデミックな方向に向かわれたのは何故なんですか?
すがや:1996年に小説家として活動をはじめてからは、実用書も含めほとんど活字の方に軸足が移ってしまったんです。でも2000年頃に京都精華大学がマンガ学科を開設し、学生の人気を集めたことから、色々な大学からお声が掛かるようになりました。
面白そうだなと思いつつ、僕は高卒でもあり、自分の経験だけでは狭い領域しか教えられない、という心配があったんですね。だから、もっと理論に基づいたメソッドを自分の中に入れていく、つまり学問をしないと教えることになる学生に失礼だろう、と思ったんです。理論がないと何かを教えるときにブレてしまうだろうと。
そんな時にたまたま早稲田のEスクール(人間科学部eスクール)で「教育工学」という専攻を見つけたんです。それで、「あー、漫画工学という学問もあって良いはずだ」と思って、受験を決めました。当時、竹熊健太郎先生がこの言葉を使いはじめていたことも影響したと思います。
–なるほど。しかし、そこから統計学へ、というのはちょっと想像が付かなかったのではないですか?いまは先生は、自らのサイトで「こんにちは統計学」というコーナーも設けておられるくらいですが。
すがや:漫画の表現–たとえばコマ送りやページ送りをどうするか?ということを学術的に考える際に、心理学が欠かせないわけです。
そして、入ってはじめて分かったのですが、心理学には統計学が必修なんです。面食らいましたね(笑)。で、慌てて「漫画で分かる統計学」を読み漁りました。Σ記号を見て「このMが横になった奴はなんだっけ?」というところからです。
–(笑)
すがや:実際、大学での漫画の講義は、自分の経験談・自慢話に終始する例も多いと聞きます。僕はやはりエビデンス(根拠)に基づいて、解説を加えていきたいと思ったんです。
だから、学部の4年では足りないと感じて、結局大学院に進み、60歳で修士号を頂きました。その後大学で教えるようになってからも、他の仕事はできるだけ減らして取り組みました。まあ、アマチュア無線やマイコンと同じように今度は「勉強にハマった」ということかも知れませんが(笑)
ホントは博士をそのまま目指しても良かったのですが、さすがに大学教員としての定年も目前という年齢だったので、いったん修士で打ち止めにして、京都精華大学で教壇に立つことにしました。
–一見、漫画家・小説家からの転身という風に見えてしまいますが、先ほどお話しにあった、情報を伝えるための土台をまずは自分のものにしてはじめて価値を提供できる、というすがや先生の流儀に従った取り組みであったわけですね。実はとても自然なことであったと。
すがや:実は漫画についても、早稲田で学んだ統計学をテーマにした新作の構想は既に固めてあります。でも、専任教員になってしまって、絵を描くどころか、ネームを描く時間も全く無くなってしまって。週に11~12コマ担当していますので。出せば、まさに教科書的に毎年売れる本になるはずなんですけどね(笑)。
–それだけコマ数があると授業の準備や評価を考えてもたしかに時間がないですね。でも先生の新作は楽しみです。これからの先生のご活躍にも期待しています。