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趣味の裏歴史・新羅関係1

  

田上村 逐電

    1

 古文書が豊富なのに、列島における日本国の成立事情が怪しいのは知ってのとおりである。未だにヤマタイ国の場所さえわからないだけでなく、倭国時代が全くの闇である。

 朝鮮半島で、その歴史が最も怪しいのは新羅である。日本国同様に異常に怪しい。

 後に統一新羅という超大国となるのに、それまでのいきさつが、実に怪しい。

 朝鮮半島の南東部にあった辰韓の一小国であった斯盧(しろ・サロ)国が、新羅(しらぎ・シルラ)に名を代えて発展していった。というのはまあ、間違いないだろうという、その安易さが、いけないのかもしれない。

 斯盧(しろ・サロ)国が、新羅(しらぎ・シルラ)に名を代えた理由も、きっかけも不明である。

斯盧国は6つの部落国家の集合体であったという。辰韓6国のことなのである。つまり、これは国名ではなくて地名なのである。

 新羅のもとの国名がはじめて中国の歴史書に現れるのは377年で、新羅は高句麗とともに五胡十六国時代の北朝である前秦に朝貢しているらしい。このときの王は、新羅国王楼寒(ろかん)と名乗った奈勿麻立干(なこつ(なむる)まりかん)だという。新羅国は未だ無い時代なのに。

 始祖は朴(ぼく)」、名を「赫居世(ホコセ)」国名を「徐羅伐」という。これが国名なのである。読んで字のごとく、羅を伐って除く。

 斯盧にあった徐羅伐国は、後に「鶏林」になおされ、三度目に初めて「新羅」となる。この鶏林というのも、実は広い地域の地名である。

 王の姓も、朴、昔、金と変わっていく。この地域のそれぞれの王であった、という程度のモノとしてみるべきだろうというのが一般的だが、支配者の姓がそれほど簡単に変わっていいものか。

 別の民族、別の国の歴史を、それぞれ後の王朝が自国の歴史だと主張して取り込んだと、みなしたい。

 

 377年、高句麗とともに五胡十六国時代の北朝である前秦に朝貢した。とあるように、6国を統合する王国といっても、高句麗に緩やかに従属する辺境地域でもあったようである。徐羅伐が、その中の親高句麗派だったと考えるべきだろう。

三国史記新羅本紀という、ずっと後の文書がもとになっているので、割り引いて見ていく必要がある。

 新羅というのは、もともと秦韓六部の地名、つまり六国の土地名なのである。王国名ではない。6国を統合する王国ではなくて、高句麗に従属する新羅地域の王の一人が朝貢したと考えるべきなのである。

 

 

 

 

 

2

 その辺境地域が、やがて激動の時代を迎える。

 399年、新羅から高句麗の広開土王へ使者。これは徐羅伐からの使者なのだろうか?サロ国からの使者なのだろうか?それとも秦韓諸国からの使者だったのか。

 「倭軍が国土を占領して王を家臣としてしまった。王は、倭の家臣となるくらいなら高句麗に仕えたいので、ぜひ救援を送ってほしい。」

 送り主は、では、誰なんだ? 王ではない。

 実は、この表現は、おかしいのである。

 秦韓諸国も、倭人12国連合の一部、つまり倭国の一部なのである。徐羅伐が反倭だったとしても、新羅地域の国すべてがそうだったわけではない。この地域を根城にする秦人は、もともと倭国建国の壱與の時代から、倭人と一心同体である。

    

 このとき、高句麗の広開土王は、自国の勢力下にあると思っていた百済が倭と結んで反旗をひるがえしたので、平壌城まで出陣していた。倭を攻めずに先に百済を攻めた。

 こっちが大事だったのであろう。あるいは、これは百済・倭国連合の陽動作戦だったのかもしれない。

 400年、高句麗の広開土王は、改めて5万人の大軍を新羅地域に送り、新羅の王城を占領。加羅(現在の慶尚南道金海邑)まで進撃したが、安羅(現在の慶尚南道安邑)軍が再び新羅の王城を占拠したので、高句麗軍は新羅まで撤退して王城を取り戻した。これにより、新羅王は高句麗の家臣として朝貢したとある。

 この部分に注目する限り、倭国というのは安羅や加羅のことである。

安羅は安邪国のことらしい。咸安という記述もあり、現在の咸安あたりのことらしい。

 古寧伽耶(慶尚北道尚州市咸昌)、星山伽耶(慶尚北道星州郡)、小伽耶(慶尚南道固城郡)などは六伽耶・五伽耶とまとめて呼ばれる。

 この中で別格の勢力が金官伽耶で、駕洛国、もしくは金官加羅・任那加羅ともいい、現在の韓国の慶尚南道金海市に有ったとされる。狗邪韓国のことであると考えられている。前期伽耶連盟の盟主的な立場にあった。つまり古い時代の12国連合の主であったのかもしれない。

 別に、非火伽耶というのもある。

 状況証拠を見る限り、この時代の倭国というのは、この弁韓諸国伽耶連合、つまり弁韓6カ国のことである。一見、小勢力ではあるが、鉄を産し、高度な武器技術を持つ、軍事的にも文化的にも極めて強力なグループなのである。民族文化も違っていた。

 但し、倭国というのは出てこない。海の向こうの国だから、ではないと思う。

 それは実は、もともと、新羅の旧領域も含めた弁秦12国グループの総称だったからではないのか。

 歴代の倭王、つまり辰王はいたし倭軍はあったが、倭国という大きい国があったわけではない。秦人と倭人がいて、彼らはともに韓人であった。

 これは新羅という大きい国があったわけではないのと、同じ事情なのである。そして新羅6ヶ国は、もともと、その倭国の一部だったのである。

 

 

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 倭国というのは、倭人たちの国という漠然とした意味しかない。

 地域や国名をあらわすものではなくて、辰王を擁立する倭人12国連合の、人のグループを表現しているのではあるまいか。

 いつのまにか、これが列島を意味するものに変わっていったのだ。

 高句麗は12国連合の倭人たちと争い、その中の秦韓地域、つまり新羅地域の領有権を争って勝ったのである。

 それがあの、ほとんど満州地域にある碑文である。勝って6ヶ国を倭国から切り取り、鶏林国として昔氏に柵封した。

 この結果、実体の無い倭国と弁韓の6カ国連合は衰退し、新羅地域の方が逆に大きい勢力となってくる。

 新羅地域は高句麗の援助が無くても、独自に百済とも管山城(忠清北道沃川)で戦う(554年)ほどの大国になっていく。

 この戦いに勝利した新羅は勢いを得て「大伽耶」を併合し(562年)、伽耶は滅亡したのだという。

 これに先立ち、新羅は「金官伽耶」を併合して(532年)、王族を新羅の都(慶州)に移して優遇したという。このあたりが最も怪しいのである。この新羅というのは鶏林国だからである。

 536年に初めて新羅という国号を立て建元元年としたという。この年が、本当の新羅建国元年なのである。

 新羅が金官伽耶を滅ぼした、ということになるのだが、その金官伽耶の子孫が、統一新羅の大王金春秋であり、実力者キム・ユシンなのである。

 キム・ユシンは、新羅軍の大将軍として倭国を滅ぼし、百済を滅ぼしたとされる立役者なのである。

 金官伽耶の主である彼らの先祖が、金官伽耶国を滅ぼしたという、おかしなことになっている。半島の倭国滅亡については、これだけでなくおかしな点がいっぱいある。

 百済の滅亡については詳細で悲惨な話があるのに、倭国滅亡については、ロクな話が無い。すぐに日本という、遠く離れた別の国の建国説話にとって変わる。

 新羅という国が、高句麗という宗主国と袂をわかった頃についで、このあたりが最も怪しいということである。

 新羅は「金官伽耶」を併合した(532年)のではなく、弁秦12国の実質盟主としてふるまうべく、鶏林国が、それまで仕えていた主人を、高句麗ではなく、弁秦12国である倭国に、名目だけ生き長らえていた辰王に、ひそかに変更したのではあるまいか。

 つまり金官伽耶の主が持つ隠された意味を悟り、高句麗や百済に対抗すべく、その辰王を自国に取込んだのではあるまいか。

 

 

 

     趣味の裏歴史・新羅 4

 663年白村江の戦い。

 古代には稀に見る、大規模な世界大戦であるとされている。

 実際には、この戦いは百済との660年の大戦争勝利後、倭国12国連合の息の根をとめるための小海戦で、小国倭国は、これで滅んだことになっている。唐に戦果報告する必要があって、お膳立てされたのだと思う。

 この後、高句麗という大国も後に滅亡するのだが、白村江のこの戦いは、実に怪しげ極まりない戦なのである。

 100年も前に、すでに倭国は新羅に併呑され、ことごとく滅んでいる。なのに、その倭国軍と戦ったというのである。実に、おかしいではないか。

 当然、倭国は列島に比定するしかなくなる。

 しかもその倭国軍の総大将は百済の王子、扶余豊璋。

 彼が敗残の百済軍を集めていたのかも知れないが、実際に戦った相手は、たぶん九州出の小勢力だけである。

 それもずっと後の時代の話なのかも知れない。九州で。イワイという勢力との戦争が、これにあたるのかもしれないということである。

 これに先立つ642年8月に、新羅は百済に大耶城(慶尚南道陜川郡)を奪われ、旧伽耶諸国地域を占領される。

 大耶城に居住していた新羅の下級王族金春秋の長女が百済の兵士らによって殺害されるという事態が起こる。

 つまり倭国をそれまで占拠していたのは、新羅なのである。

 それに対し、倭国の(辰王の)後ろ盾を任ずる百済が、倭国の領域を奪い返したのである。

 新羅側にしてみれば、占拠というより、のちに大王となる金春秋の長女がそこにいたことでわかるように、重要な中核地盤なのである。

 国が弱体化していたため中核地盤を失った新羅は危機感を強める。

 下級王族の金春秋、王族ではないが隠然たる勢力をもつ金ユ申の二人が、二人三脚で、国の中枢に立って活躍する。二人を中心にクーデターを起こし、新羅の実権を掌握できる素地が生まれたのである。

 二度の女帝を立てて、二人は迅速に動く。

 実は同時期の大和朝廷(倭国とされている)も二度の女帝である。

 高句麗への救援要請が失敗した後、647年、金春秋は軍も連れずに百済占領下の倭国に入り説得工作をして回る。弟も連れていたらしい。

 これは列島へ来たのではないと思う。大耶城のある地域に来たのだと理解する。

 もともと、そこに住んでいたのだし、金ユ申とは堅固な姻戚関係にあるので、新羅王族とはいえ、倭の諸国の主とは旧知である。ほとんど身内のようなものだったのである。

 

 

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 百済の勢力下に落ちた旧倭国諸豪族と交渉し、勢力奪回計画を練り、後々の約束を交わして回ったのだろうと思う。後の時代の列島で、新羅の調として知られる事になる、膨大な兵糧の約束である。

 更に唐に対する軍事援助の願い出。

「高句麗が攻めてくるので、助けてほしい。」

これにも自分の息子を伴い、唐の軍営に入れている。人質だろう。

 高句麗と百済の連携が、本当にあったのかも知れない。

 これは金春秋が絵を書き、倭国の主辰王の名を使って呼びかけた策略であった可能性もあるし、高句麗の主体的な行動があったのかも知れない。

 いずれにせよ、小国の新羅では両面からの攻撃にはとても対処できないのである。新羅は唐の勢力下に入るしかなくなる。とても金春秋の策略とは思えない。

 しかし、金春秋、金ユ申、蘇定方三者の結託した策略であればどうだろう。唐の大将軍蘇定方は、すでに一度新羅救援に来ているので、旧知だし、事前相談もできる関係にある。しかも金春秋は女王を挿げ替えてまで、唐の機嫌を取るのである。

 陰謀で殺されたので、別の女帝を立てたことになっているが、殺された女王善徳は反唐、親高句麗派。一方、次の真徳女王と金春秋は親唐の反高句麗派。わけがわからん、のである。ヒドンの陰謀というのも金春秋一派の仕組んだワナかもしれない。

 654年に金春秋は三度辞退したあと、推されて新羅武烈王として即位。かなりの悪(ワル)と見た。

 状況を察知し、好機と見た唐は、左武衛大将軍蘇定方を大軍勢とともに派遣。同時に新羅王も大将軍として認定する。つまり、小国を同盟認定したのである。派遣したこれは海軍であった可能性が高い。

 そして古い時代の倭国領域そのものである新羅は挙兵し、伽耶諸国6カ国も新羅軍の中核戦力として出兵した。反倭国勢力、親唐の日本軍としてである。

 百済と高句麗は、列島という未知の領域が倭国の背後にあることを知っている。そこを地盤に展開する、辰王を中心にまとまった列島本拠の倭国という、強大な勢力を味方に付けていると勘違いをし、はめられたのであると思う。

 過去には確かに12国連合の軍事力は強大で、高句麗も手を焼くほどであった。だから高句麗は、まんまとはまってしまった。だが、この時代には、倭国には実体が無く、もはや完璧に新羅の一部だったのである。それを知らなかった、いや、新羅が騙していたのではあるまいか。

 白村江の戦い自体が、壮大な、でっち上げであったことになる。

 唐に膨大な歳費負担と人的拠出をさせ、金春秋が新羅王として即位するため、そして金ユ申の一族が再び辰王を復活させるための、とんでもない規模のでっちあげである。

 唐の大将軍も、このとんでもない陰謀に加担していたと、みなしたい。しかも同じ倭人であったと。

 これにはめられて、百済も高句麗も滅んだ。唐も国が傾くほどの膨大な軍事費を拠出した。高句麗は滅びたが、渤海が生まれ、強大化した新羅も離反し、唐にとってはロクなことがなかったのである。

 そして失われて久しい12国連合のあった弁辰地方、つまり倭国の跡地の新羅地域にではなく、海を隔てた列島の地に、美馬那と秦の遺民たち、更には百済の亡国の民と唐の軍民までが上陸してくることとなる。

 イツセの神々、八百万の神々とともに。

 これは倭軍ではない。新羅の軍勢、つまり日本軍なのである。

 これが新しい国を作る契機となるのである。天智天皇の身元も生涯も、これでは極めて怪しくなる。

 しかし、不審な点はいっぱい、あるのである。特に天智帝以前の天皇は完璧に怪しい。 天智天皇陵界隈に新羅の森があるあたりなんぞ、もっと怪しい。

 

 

   趣味の裏歴史・新羅 6

 倭国(わこく)とは、古代の中国の諸王朝やその周辺諸国が、当時日本列島にあった政治勢力、国家を指して用いた呼称であるとされるのが普通である。確かに、そう思い込んでいたのだろうとも思える資料も、出てくる。

しかし、本当にそうだろうか? 彼らは東夷の倭人を名指してはいるが、倭国というのは、ちゃんと出てくるのだろうか。

 旧唐書では倭国伝と日本国伝に分かれている。別の国なのである。

 旧唐書以降の史書では倭国は倭奴国だったと書かれている。所在を明確に、あえて列島に比定した、ということである。

 しかもこの北九州臭い倭奴国というのは、イトコクだろうか、ワドコクだろうか。

 少なくとも吉備やヤマトではないことは確かである。

 九州に倭国の一部があったとする説には賛成である。しかし、それが列島を統一する大勢力であったとは思えない。ましてや朝鮮半島へ大軍を送り込むような、そんな力があったとは、とても思えない。

 むしろ北九州の倭奴国は、弁秦12国連合の一部だったとみなしたい。そこにあった、イ族、ワイ族の国だと。

 今でも混乱の真っ只中にあるのだから、昔の中国や朝鮮半島の、しかもずっと後の時代に書かれた史書が正しいとは限らない。

 比較的位置が特定されそうなのと、王権の所在が確認できそうなのは、中国や朝鮮半島の大国だけで、領域は怪しい。そこでも小国は位置すら怪しい。

 ましてや列島は扶桑、蓬莱の地であって、当時の中国からは、どうでもいい辺境の土地なのである。

 常識の列島の歴史は、こういう筋書きだろう

 列島の過去に倭人が住み、大乱の末に女王を出してヤマタイ国となり、いつのまにかそれが倭国となり、さらにいつのまにかそれが日本となった。今日も過去も、中国人が名指す東洋人は倭人であり、日本人である。

 小生が迷い込んでいる趣味の裏歴史では、こうなる。

 ヤマタイ国=所在不明、

 倭国=所在も実在も不明、

 日本=発祥の地も種族も不明、但し700年ころ、突然に列島の近畿に出現。文字通り、沸いたように出現。

 倭人=種族不明。極東域全域から満州にまで広がる、海人の巨大一族、

 日本人=現代の列島に居る雑多な人々。過去一切不明。民族も文化もまちまちだが、大和族が圧倒的に多い。

 不思議なのは、かなりの率で由緒正しい秦系種族や扶余族、つまり秦人や百済の王族が大和族には含まれているのだが、ほとんど区別できないという点。

 大和族が倭人の一派であったことは間違いないだろう。但し大和族だけが倭人だったのではない。韓人も百済人も、そして昔の燕に属する地域にも、膨大な数の倭人(海人)諸族が居たのである。そして日本人は、倭人だけで構成されてはいない。また、その中核部族も倭人ではない。

 

 

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 あえて迷わねばならない理由は、不審な点がいっぱいあるからである。

 後の王朝が書いた中国の歴代歴史のような文書ではなく、世界最古の官選史書とか長編小説とか、随筆、博物誌まで、わが国には存在する。しかしその史書に書かれていることも、それ以降研究されてきた歴史も、実に実に、怪しいのである。

 そしてむしろ、語呂合わせの歴史を辿ったほうが、良く見えてくるモノがあるのだ。

 たとえば、クシフル、クジボンの問題。

 古事記に迩迩芸命(ニニギノミコト)が降り立った所。

 伽那国を開いたと伝えられる金首露王(キムスロワン)は、天上から亀旨峯(クジボン)に降臨した6つの卵から・・・の伝承である。

 語源操作をしたり、伝承の中身を粗筋化したりすると、この両者はおなじものである。 更に、大国だけ見ていてもわからない問題がいっぱいある。

 たとえば、金官加羅国と新羅の関係。任那日本府と日本の関係。

 これが完璧に解けたら歴史になる。

金官加羅国と新羅の関係は特に、後の統一新羅時代、さらに後の時代にも誤魔化されているふしがある。国内から主人筋の跡を消さねばならないのでは、本当に大変だからである。

 任那日本府と日本の関係も、後の時代に誤魔化されている。任那日本府はあくまで列島の大和の出先機関で、本庁であっては困るのである。

 そして新羅と日本の関係が、これまた全く見えないように両国の側からそれぞれに偽装されてしまっている。

 しかし後々まで毎年ちゃんと届いていた新羅の調などは、内容以外は誤魔化しようがない。だからもっと大昔から新羅は列島に朝貢していた、などというおかしげな話をでっちあげるしかない。

 膨大な兵糧であったものを、些細な貢物に換える程度は可能だが。新羅側の事情も変わり、実際に、そうなっていったのだろう。

 ここにあげた4つの国は、実はおなじものであるといったら、気が狂ったと思われそうである。それほどまでに、完璧に偽装されてきたのだとしたら、どうだろう。

 状況証拠はある。清小納言が述べるアリナレ川だけではない。

 最大の状況証拠が、倭国滅亡の物語が無い、という点にある。

 百済滅亡の影に消されてしまっている。そしてその倭国の本拠が列島にあったとすることで、日本の主も、後の時代の新羅の主も、お互いに安泰だったのである。

 

 

 

 

 

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 斯蘆国はもともと辰韓12国から出た国である。その辰韓12国とは、倭王である辰王を擁立する弁秦12国のことである。つまり、斯蘆国も、もと倭国の一部なのである。

 6世紀中頃に新羅が半島中南部の伽耶諸国を滅ぼして配下に組み入れた、とあるが、これがミソの部分だろう。

 新羅地方には朴氏・昔氏・金氏の3姓の王系があり、いわば3つの王朝があったのである。新羅六部という地域母体もある。これが過去の秦韓6国である。

 

 377年頃にはすでに新羅と名乗っていたらしく記述されてはいるが、それなのに、もと斯蘆国のことだと別の名前がでてくる。あとの時代に新羅を被せた証拠だろう。

 532年に金官国の王である金仇亥を降し、536年に初めて国号を立て建元元年とし、545年には初めての国史を編纂とある。この辺が、やはり最もあやしい。

実は鶏林国が仇敵を降参させて自国に取り込んだときに、初めて新羅という国が出来たというのである。

 こんなことがありうるだろうか。しかも、安羅や加羅といった、正面からの敵対諸国と類似の、新羅という地域名が国名となる。普通は、こういうことは起こりえない。

 しかしこの仇敵なるものが辰王の一族であったならば、ありうることなのである。

 554年には百済の聖王を管山の戦いで殺し、562年に加耶国を征服して任那を完全に併合した。制夷大将軍となる資格は出来たのである。

 その2年後の564年に金真興(真興王、チヌン王)が現れるので、金姓は金官国の王家の姓を百済との絶縁の象徴として採用され、金氏の系図もこの頃造られたものであろうと言われる。だが、そんな無理を押さなくても、全く別の読み方ができる。

 鶏林国は高句麗を利用して、辰韓弁韓12国のうち6国を支配する大勢力となっていたが、辰王の権威とそのしつこさには常に手を焼いていた。もともと倭国の勢力圏にできた高句麗傀儡政権だから、当然である。辰韓6国の国内統治も、ままならない。

 しかし金官加羅国を征服したとき、事情が変わったのである。

 いつ離反するかわからないような自国6州の安泰のために、辰王の血筋を虜囚としてではなく、姻戚として取り込むことにしたのである。

 そして辰王を背後で支える百済王にも勝利して、辰王と同じ血筋の真興王が即位し、鶏林の王統は、めでたく金姓となったのである。新羅の成立である。このとき、残り6国も、名実ともに新羅の一部とならざるをえなくなったのである。

 つまり、倭国側から見れば、鶏林国に半分取られて抗争を続けていたが、時は味方せず、1国ずつ併合されていき、やがて宗主国が滅んだとき、新羅と名を変えた鶏林国が金姓の王を出すことを認め、その体制に組み込まれたのである。

 だとすると、新羅王統は同時に倭の王統であり、辰王の外戚だということにもなる。

 認めなかったのは、常に倭国の後ろ盾を任じ、もと秦韓の地を秦人たちに割いて与えた百済と、そしてもともと自国の主であった辰王の去ったあとも、辰王と敵対しつつ、高句麗五族の団結に支えられて王国を維持してきた高句麗政権である。

 

 

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 碑文や動かせぬものとして残った証拠も、多々ある。

 中原で出土した曹操時代の上奏文に出てくる倭人軍(あるいはタイ人軍)。

 公開土王碑文に出てくる倭の大軍。

 中国の文書に出てくる倭国王。特に、使持節都督、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事などの大げさな称号。

 倭国という実態の所在が全く不明なのに、中国はこの倭国王に対して438年に安東大将軍として遇しているが、これで見ると倭国は新羅より大国なのである。

 だから列島という安易な説が出てくるのだろう。

 ところが当時の列島は、倭の海人系王権とは全く別の、もっと過去に侵入した騎馬民族系の征服王朝の人々が割拠し、クルガンを築きあう辺境の地である。

 仁徳天皇陵など秦始皇帝陵と世界1、2を争うような大規模クルガンもあるくらいだから、強大な王権は出たはずである。だが、列島統一王権ではなかったのだと思う。

 しかもこの時期、新羅は未だ無い。新羅地域の鶏林国であったはずである。

 使者は倭国王という、国土の実体が無い、王統のみの名前を告げているのである。

 そして倭から慕韓まで、6地域の国土を示している。この倭は、まさしく列島のことだろうと思うしかない。わからない地域であることをいいことに、そこに巨大な母体があるかのように装っているのである。それが目的の上奏文だということである。

 だからといって、列島の倭王が派遣したとは限らない。

 馬韓、弁韓、秦韓 という区分がある。

 バカンもしくは慕韓は後の大国百済、楽浪、帯方といった、もと漢など中国領土の一部も含む、本当の大国である。秦韓は、亡命秦人たちが立てた6国、鶏林国の母体である斯蘆国も、そこに含まれる。そして弁韓というのが、伽耶地方6国のことである。

 三韓の中では、伽耶地方が最も遅れた地域だったとされることが多いようだ。

 海から倭国(つまり列島)の圧迫を受けて国家形成が遅れたという説があるようである。

 しかし全く逆の見方も出来る。

 ある時期に居住者がどっと出て行けば、当然、閑散とした地域になる。しかも統一新羅の時代には、有力者は全て広大な領土を得て、伽耶兵を伴い、各地に支配者として出向いた。国を出た者が郷里に仕送りするので、豊かではあっても、弁韓地域そのものは人口希薄な後進地域に落ちていただろう。

 これを言葉で読み解くと、やはり逆になるのである。

 バカンはもとマカンの水軍が主力となった倭人たちの国、王族は高句麗と同じ、扶余族である。

 秦韓はもと秦人が亡命して領土を分けてもらい、作った国。

 そしてベン韓は倭人たちの長子の国と読める。

 ハー族の長子、ベン・ハーという映画があったが、あれと同じ韓族の長子である。実は種族もベン・ハーと全く同じ種族だと思う。イスラエル12部族の長子を名乗っているのである。

 駕洛国、金官国、大伽耶国、斯蘆国などといった、これら弁韓と秦韓こそが、倭国の実体であると思う。

 そして弁韓に居た辰王を取り込んで強大化した後の新羅、つまり新羅が倭国を滅ぼして取り込んだ「統一イスラエルの中核部分」が、もとの弁韓地域ではないだろうか。

 新羅が起こる、まだ前の時代、高句麗から逃げた辰王を伴い、半島南端で部族を再興しえた10支族は、秦帝国滅亡後のユダ、ベニヤミン2支族の遺民をも招き、ここに太古の12支族が揃ったのである。

 それが韓人たちの国、倭国である。小さな小さな国土であっても、栄光の過去を持つ統一帝国だと名乗っているのである。

 その倭国の同じ領域に、それを併呑して新羅が成立しているのである。

 

 もちろん権威ある歴史学では、倭国とイスラエルに何の関係も見出せない。

 北九州の一部の国々を倭国とみなし、弁韓諸国をその属国とみなすような傾向にある。 倭国と書いて、ヤマトと読ませるような人も多い。

 だが、文化の高さや生産力、人口など、いずれも弁韓の方が上だっただろうと容易に推測できる。人々が大移動して、後に逆転したのである。

 列島における倭国の幻想は、半島や中国大陸に、過去の権力の望みを夢見る、後の時代の日本人特有の幻なのである。列島にも出先や重要な国(たとえばイズモとかコシとか)はあったかもしれないが、あくまで、ごく一部だったと思う。

 そして、もと小国だという日本が問題として残る。

 

 

 

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 その日本は、7世紀に突然、列島に降って沸いた。

 現代のグローバル世界の基準でいくと、日本は小国だが、この時代では世界基準で見ても稀に見る大国となっていた。

 日本もと小国と唐の伝承にある。そのように、小国であった特異なグループが、倭国ではなく日本と名乗り、天皇とともに列島に上陸してきたと、みなすべきである。

 その昔、高句麗から逃れ出、公孫氏の燕国の支援で秦城を建てた辰王と、その一派の末裔は12国連合の倭国である。

 しかし、日本は、どうやら、ちょっと違うのだ。同じ倭の12国から出ていても、イスラエルの12国とは全く別のグループだということである。

 この倭の12国グループは、確かに過去にも、列島に本拠を構えていたことがある。

 しかしその女王、ヤマタイの卑弥呼は高句麗系のクニとの戦いに敗れて殺され、大乱を収めるために跡を継いで辰王に擁立された女王は、事情はわからないが、再び半島の秦城に逃れたのである。そしてそこで倭国が生まれた。

 この女王、壱與(イヨ)の伝承が、後の大和政権の記述にも残されているのはどうしてだろう。

 列島で、伝承が生き延びたということも確かにありえることである。

 しかし、滅ぼした倭の王権を、なぜ後世の日本の王権が自らの先祖だとして祀らねばならぬのか。

 それはかって、気長足姫尊(オキナガタラシヒメノミコト)が辰王として擁立された土地に、気長足姫尊が逃れた土地から、日本軍が征服者としてやってきたからである。

 われら日本軍の祖先は、おまえたち列島の倭人の祖先が擁立した辰王、気長足姫尊(オキナガタラシヒメノミコト)であると。

 これが武装した小規模の諸族が割拠し、うじゃうじゃといた列島の統一を、いとも簡単に成し遂げさせた理由の一つだろう。

 日本軍は、強大な唐の海軍や、武装した秦人たちとともにやってきたのである。伽耶の地からの支配層の移民者も、おおぜいいいた。

 更に国を亡くした百済人の技術者や、生き残りの王族さえも連れていた。大規模な入植者だったのである。

 さらにグループは新羅王から毎年膨大な軍事兵糧を確実に受け取り、列島の完全占領と支配を目指した。

 そしてごく短期間で、エミシ、エゾ領域を除く、列島のほとんどを制圧するのである。 それまで列島で祭礼に使われていた青銅の剣や矛は、用途不明な銅鐸などとともに、消える。武器も剣や矛は消え、日本軍がもって来た槍や鉄製の内ぞりの刀に圧倒され、摩り替わる。

 つまり、倭国に緩やかに服属していた辺境の諸国や雑多な諸民族が、日本という国とその文化に急激に統一されていく。

 

 

 

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 列島にはもともと秦系のクニや高句麗系のクニ、あるいは弁韓系や百済系のクニもあったはずである。当然、古い倭国に属するクニもあったのだと思う。

 これらが全部、日本化されていく。つまり、新羅化されていくのである。

 しかし、その昔、新羅が建国した時と全く同じ現象が起こった。

 今度は金姓の王ではなく、姓の無い天皇が立つのである。国名も新羅ではなく、日本と変わった。もとの新羅領域にあった小国の名を採って、である。

 どう見ても新羅の属国であるはずなのに、日本は新羅の上級国として立ち振る舞う。しかもそれを、統一新羅という超大国の大王が、とがめだてした様子は無い。

 そして最初の都は、上陸地点(若狭)に近い近江の地に造営された。

 というより、もともと新羅系の植民地があった地域に造営されたのだと思う。

 軍の出発地点は明らかに新羅であり、しかも渡りやすい場所であるはずの列島の倭国の拠点があった九州地域は避けたのである。

 橋頭堡を築いた後、日本は軍を進め、イ・ワイ族との小競り合いののち九州も制圧する。そして、建国である。最初に庭が造営された。これは墓ではない。仮山、つまり国の象徴なのである。百済様式でも、新羅様式でも、唐様式でもない。

 やがて墓も作られる。全域では大きな山程度はあるが、それまで列島で作られていたような大規模なクルガンではない。

 その後の天皇陵は、むりやり後の世に比定されてきた、古い歴代の天皇陵とは違うのである。由緒正しさが違う。埋葬されている人物と墓の主が、この後は一致していく、ということである。

 ところが初代の天智天皇の天智天皇陵(京都山科)御陵の記述はない、という事実がある。

 天智天皇は神話の天皇ではなくて、近江の地に都を築いた日本国最初の由緒正しい実在の天皇であるが、実は列島には一度も上陸していないからである。後の世に作られたその墓は、からっぽだろう。

 この、日本に一度も上陸しなかった、しかも神話でない実在の日本国初代の天皇、すめらみことは、誰か。

 もちろん、最も疑わしいのは金春秋と、そしてキム・ユシンである。

 和風諡号は天命開別尊(あめみことひらかすわけのみこと / あまつみことさきわけのみこと)。第38代天皇であると、されている。没年からのみ見れば、キム・ユシンであることになる。

 そして日本史最大のナゾとされる壬申の乱が、この後、起きるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

  趣味の裏歴史・新羅 12

 まるっきりの作り話は、比較的尻尾を出しにくいものである。つじつまを考えてから、語られるからである。しかし真実が含まれる出来事を改変するのは大変な作業なのだ。

 その大変な作業だったと思われる、この壬申の乱を整理してみよう。

 672年に、吉野に隠棲していたはずの天智天皇の弟、大海人皇子が挙兵。

 近江朝廷の天智天皇の子、大友皇子を倒し、天武天皇として即位する。このクーデター行為によって、起こった大乱であるとされている。

 近江朝廷を継いでいた大友皇子は、天武天皇の兄である天智天皇の子とされている。争った二人は叔父と甥の関係だと。

 中心的な活躍をするのは、大和方面の軍を率いた大伴吹負。しかし彼は功臣とされていない。逆に、自殺した大友皇子に最期まで付き従った物部連麻呂が、のち石上麻呂として左大臣にまで昇進している。

 こんなわけのわからん政権奪取物語は、書いている本人が困ったはずである。

 大伴吹負が褒章されていないのは、彼が日本軍の中核貴族だったからだろう。中央の貴族を付け上がらせるとロクなことがない。物部連麻呂が信任を得たのは、彼が外部の貴族で、しかも列島生え抜きの豪族で、更に大海人皇子側に忠実なスパイ役だったからではあるまいか。

 根も葉もない状況証拠のみの仮説であるが、この戦争は統一新羅との後々の争いの種を消し、更に辰王の伝承を消して、天皇の制度を列島に根付かせるための戦争だったのではあるまいか、と小生は考える。

 新羅では倭国が併呑されたときに辰王は消えた。

 だが、実際にはキム・ユシンの一族が密かにそれを継いでいた。

 キム・ユシンは辰王の伝統を復活させるために優秀な王族を選んで金春秋に近づき、下級王族金春秋は、武力を背景に名目だけ12国を継承していた新羅王統が、国難にあたって弁辰12国の本当の全ての力を結集できるように、キム・ユシンに近づいたのである。

 両者は蹴鞠の席で知り合い、やがて一心同体の姻戚となり、変わらぬ仲を誓い合った。

 そして新羅は強大な国家となり、やがて統一新羅という超大国となる。

 しかしその新羅軍が日本軍として制圧し終えた列島では、事情が異なったのである。

 金春秋の弟、金多遂が大海人皇子ではないかと疑っている人は大勢いるようである。小生も、臭いとにらんでいる。列島制圧の実績もあったと思う。

 キム・ユシンの息子の、後に諡号を贈られ弘文天皇とされる大友皇子とは親族であり、家族同然の間柄である。

 どういういきさつがあったのかはわからないが、大友皇子とは、そりが合わなかったのだろう。そして辰王の系譜に終止符を打ち、倭国の幻を消し去って天皇の制度を根付かせるために、大海人皇子は挙兵し、旧倭国グループに守られた大友皇子は、追い詰められて自殺したのである。

 しかし、その旧倭国グループの豪族は追い詰めずに優遇し、逆に忠臣として取り込んでいった。物部連麻呂は、大海人皇子側のスパイとして大友皇子陣営に入り込んでいたのかも知れない。

 その結果、百済系の王族や旧倭国系の人々が大勢復権できたのである。

 そのかわり辰王は消え、天皇が根付いた。

 

 

 

 

   13

 ナゾを作ってしまったのは、3つの重要な点が認識されていなかったためであると思う。

1:彼ら天皇を争った二人が、ともに渡来人であることを理解していないこと。

2:親密な親族であることさえ疑ってきたこと。

3:そしてその渡来人が、二人とも新羅人で、しかも同時に新羅が新たな段階に移行すべく、自らの皮を剥いて蘇った日本人であると認識していないからである。

 だから、天智帝の存在や、その死去自体がナゾのまま残ったのである。宇治界隈で殺されただの、大海人皇子が犯人だの、いろいろ面白い説があるらしい。

 天智帝の死去の謎の真相は、「列島に上陸していない。半島で死んだ」、である。

 壬申の乱も倭人の内部抗争と見たり、百済系新羅系の争いと見たり、さらには倭人と百済系との争いと見たりしていた。

 そして最大のナゾが残ってしまったのは、二つの家系の支配者が仲良くしていたという点が認識されていないからである。辰王と新羅王とは、この時代一心同体であったと。

 天智天皇は、この二つの権威の二人三脚の合作で、いいわけである。

 しかし、いくら相互に嫁を交換して一心同体化しても、息子の代は異なる。ましてや叔父と息子では。

 そして倭国暮らしの長い叔父は、旧倭国勢力内に顔が利くが、別名倭国王でもある辰王の息子は経験も浅いわけである。

 金春秋は、天皇を大友の皇子が継ぐことに、なんら異存はなかっただろう。

 しかし金春秋は661年に死去。662年に天智天皇が即位し、672に崩御したことになっている。新羅ではすでに次の文武王の時代であるが、最高実力者キム・ユシンが未だ生きて采配を振るっている。

 統一新羅と列島を、ともに支配する日本の主、天智天皇としてである。

 新羅大王文武王の母は、キム・ユシンの妹なのである。つまり、最高実力者が天皇と名乗れば、統一新羅の大王は、当然、その配下なのである。

 辰王を天皇として復興させた最高実力者キム・ユシンは、673年に病没。

 天智天皇は、このとき残り半分の影も失ったのである。

 こうなると、列島に居て、各地の豪族を手なづけつつあった金春秋の弟、金多遂に怖いものなしである。しかも天皇と名乗れば、新羅でも日本でも、今度は彼が第一人者だからである。

 そしてクーデターでキム・ユシンの息子を殺した金多遂が、天武天皇として列島の地で即位する。新羅大王文武王とも、叔父と甥の、しかも親しい間柄なのである。

 列島では中臣金らキム・ユシン系8人は死罪に、唐軍系の蘇氏も没落。ついでに時代も遡って話をデッチあげられ、悪者にされてしまった。

 

 大伴氏は冷遇されたのではなく復権という説もある。

 そして藤原姓のナゾが残る。

 ナカトミノカマタリという、モデルはあるが列島では架空の人物をデッチあげて、しかもその一門が天皇の外戚として権勢を振るうきっかけも、この時代にある。

 史実はキム・ユシンであったはずのナカトミノカマタリは、列島で、別の家系の人が、時代を遡って、話と家系を受け継いだのである。つまり、でっち上げられた。

 この人物は、唐軍系の軍人を束ねる人望の厚い人で、中臣氏つまり大友側にではなく、大海人皇子側に付いたのだろう。

 後の藤原氏である。歴史ではナカトミノカマタリ直系の子孫であることになっている。もともと中臣氏なのに、若すぎて官位も低かったので、殺されずに生き延びたと無理な注釈にしてある。

 蘇氏の一族は追放したが、唐軍の力はなお強大で無視できない。自国を欺く陰謀に加担した彼らが祖国を棄てて日本に帰化したとしても、放置するわけにはいかなかった。

 だから後々の藤原一門として、唐軍の末裔たちは皇室を凌ぐほどの権勢に浴したのである。さらにもしかしたら中臣氏は殺したことにして、キム・ユシンの一門も姓を変えさせ、これまでの功績を称えたのかもしれない。

 

 

 

 

    14

 見えてきた裏歴史の仮説は、統一新羅を形成した金春秋系の王族が脱皮したのが日本であり、辰王を持つ倭人、つまり統一イスラエルとは別系統の、どちらかといえば騎馬民族系の山幸彦だと告げている。

 扶余族と近似の、高句麗に近い、しかも任那系の種族であると。 

 金春秋の母は第26代真平王の長女であるとされた天明姫(チョンミョン姫。後に文貞太后と追封)。後の善徳女王の妹にあたる。

 父は第25代真智王の子の金龍春(龍樹とも記される。後に文興葛文王と追封)。旧唐書、新唐書、には金春秋が真徳女王の弟と記されているが、三国史記新羅本紀・太宗武烈王紀の分注では、これを誤りと指摘しているという。

 下級王族ではあったが、倭の王権とは常に争ってきた、根っからの新羅王族である。そしてこのガチガチの新羅王族とその一門こそが、遠い過去に高天原をさすらい出た美馬那日本府の主であり、そして皇室の直系の先祖だと思う。

 百済と倭の、ほとんど一心同体のような関係がだんだんとわかってきて、不審がりながらも、韓国や日本の研究者たちも、百済と日本の断ち切りがたい関係を語り始めてきた。両者は実は同じ者であると。

 平成天皇ですら、韓国訪問のさいに、百済と日本の血縁関係を採り上げられた。百済武寧王の血筋は、桓武天皇の母の血筋となったのであると。

 しかし、もっと決定的かつ衝撃の事実がある。

 桓武天皇の父白壁王(のちの光仁天皇)は、天智天皇の第7皇子・施基親王(志貴皇子)の第6子なのである。金多遂の子孫ではない。

 キム・ユシンの一門は半島では権勢者として生き残ったとしても、列島では殺されたはずなので、たぶん金春秋直系の、ガチガチの新羅の王族だ、ということである。

 天皇家には意図的に姓が無くなっているからピンとこない。だが当時の日本人の中核は、倭人ではなくて新羅人なのである。

 わずか1300年の時代の移り変わりが、統一新羅と日本の関係さえも見えなくさせてしまった。

 海峡を隔てるだけで、同じ種族、同じ国であったものが、敵愾心を燃やすほどになってしまってさえいる。日韓併合の時にも、無知が災いし、新羅が列島を制圧した時の様な、読みの深い天命の通知ではなくて、浅知恵の理不尽な暴力が横行した。

 そしてその結果、今や文字も、言葉も、全く通じなくなってしまった。

 異民族の中国人とは今でも筆談で、そこそこの意思疎通は誰でもできる。小生も某窓口で数年間やってきた。簡体字も、なんとか読めるし、学の無い向こうの人も、こちらの書く怪しげな当用漢字をなんとか理解してくれる。庶民どうしの低レベルでのやりとりができる、ということである。

 しかし韓国人とは、意思疎通の手段はカタコトの英語に頼るしかないのである。

 この傾向も、しかし韓流ドラマや映画の流行で変わりつつある。

 ドラマに出てくるキム・ユシンや善徳女王の背後に居る大勢の郎徒兵士(ナンド)が、どことなく異国の物語を感じさせないひたむきさで登場する。

 彼らは列島の倭人ではない。だが、当時の半島の新羅人、つまり、生粋の日本人なのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 趣味の裏歴史 新羅関係 2

 状況証拠による宝姫近辺(連載)

    1

 皇極ではなく斉明天皇が、列島日本での最初の天皇である状況証拠を集め始めている。これまで天智帝が列島初代の本物の天皇だと思っていたが、どうやら天智帝は列島に一度も上陸していない。近畿の新羅の森に、まちがいなく本人のものとして現存する墓は、もぬけの空だと思う。

 文化遺産や遺跡は状況証拠である。

 4世紀から6世紀にかけて、半島南端中央の弁韓地域には独特の文化が栄え、やがて衰えていったことがわかっている。

 鉄を産し強力な武器を産する、独特の文化は伽耶文化と総称される。12国の連合した勢力による個別文化である。特に金官加羅と大伽耶、多羅、などが有名である。

 彼ら伽耶文化を担っていた人々は倭人である。

 列島と類似の古墳や王冠なども出てくるので、日本国が出来るまえの倭国が、彼らの緩やかな連合王国であったことは状況から推測できる。倭の五王というのは、これらの国家のどれかの王なのであろうと。

 そして倭国というのは、彼らを中心として北九州の勢力をも含めた、総称なのだろうと。

 壱与と思われる、半島に遠征した神話時代の皇后の話も残されている。

 その壱与の後、列島でヤマタイ国は衰え、倭国に変わっていくので、これは遠征ではなくて逃げたのである。秦城を目指して逃げた。

 壱与は秦人の出で、しかもその時には諸族に擁立された辰王の後継者なのである。倭人かどうかはわからない。しかし船旅には慣れた種族なのである。

 倭人もまた倭国だけでなく、百済にも、大勢の倭人がいた。

 倭人というのは主として馬に乗る人々ではなくて、船に乗る人々である。

 百済の王族であるフヨ族は、それに対し馬に乗る人々である。

 もともとは高句麗から別れた王族臭くて、南韓に逃れた高句麗の辰王が、この地域に拠ったことも、また彼らが秦人亡命者を多数迎え入れていたことも間違いなさそうである。

 ありありと見えてくる倭国と倭人の伽耶地方、弁韓地域であるが、皆目見えてこないのが秦人と新羅である。資料も少ない。ほとんどすべてが、ずっと後の時代のものなのである。

 直近の時代のものとしては、古事記と日本書記がある。

 しかしそこに記載されている新羅は、よそよそしい遠い異国で、しかも朝貢してくる属国にすぎないのである。

 とても倭国、高句麗、百済を滅ぼした大戦争の主人国とは思えない。日本書記にも、倭国であった自分が新羅に負けたとは書いていない。

 列島を確保して統一王権を建てたんだから、過去のことはもういいんだ、そんな雰囲気である。

 これも状況証拠だろう。

 

 

 

   2

 新羅の状況が半島で見えてこないのは、次々と実権が変わった3つの家系が、後の世の思惑で一つにまとめられてしまっているから、である。

 統一新羅という超大国が立った。

 だから、過去の王統を、たどれる所までたどった、のである。うそも交えて。

 天皇家の家系を、高天原のアラメア(アマテラス)まで辿ったようなものである。

 超大国を立てたのは金氏一族で、直接には金春秋という大王である。

 しかし彼はもともと聖骨ではなく、真骨だった。

 直接の王位継承者ではない下級王族だったが、実力者の大将軍金ユシンと組むことでクーデターを起こし、新羅の実権を握ったのである。

 彼自身の地盤も徐羅伐(新羅の首都があった中枢地域)ではなかったようで、百済が侵攻してきたとき、長女が大耶城にいて殺されている。これが一連の行動のきっかけだと思う。

 そして金ユシンもまた怪しげな人物ではあるが、彼が伽耶出身の倭人であったことは、ほぼまちがいないだろう。

 善徳女王の時代に、この二人がつるんでクーデターを起こし、徐羅伐の実権を握った。 それだけではなくて、初めて弁韓、辰韓地域の倭人・秦人・エ人の全勢力を自分たちのものにしたのである。金ユシンは単に下級武士団ファランの頭目であったのみならず、旧倭国地域を代表する、最大の大物であったと推測できる。

 百済がこの地域を襲ったのは倭王である辰王の権威を守るという名目であったのだが、新羅に併呑されて以降、辰王は地下にもぐっていた。

 徐羅伐の支配に抵抗する復耶会という地下組織ができていて、これのトップが辰王だっただろう。

 金ユシン本人が、その辰王であった可能性は極めて大きい。

  

   3

 その徐羅伐は、といえば、倭国(金官加羅)を併呑して以降は地域の名桂林や、理念としての徐羅伐(ソラボル)ではなく、新羅(シルラ)と名乗っていた。

 羅を伐って徐くべき主が、新しい羅だと、主張していたわけである。すでに変節していた。

 辰国という権威ある国の新しい継承者だと、主張していたわけである。

 大国百済(ペクチェ)がクダラだと、旧多羅だと、倭国内の小国を名指し、辰王の守護者だと主張していたようなものである。

 百済が辰王の擁立者として振舞うのは、その人民に大勢の倭人が居たためで、今の中国遼東地域をも含む広大な全土を掌握して支配権を確立するのに、古い時代の権威を無視できなかったためでもある。

 そして北九州地域に倭国生き残りの群小諸国の小海軍と諮って、旧倭国地域弁韓、つまり任那日本府を新羅から奪い返した、わけである。日本を奪い返した、のである。

 ところが、それが、新羅に取り込まれていた倭人の新羅との結束を、逆に強めてしまった。

 自分の地盤を失った金春秋と金ユシンはともに危機感を抱き、百済配下の伽耶地域は、逆に徐羅伐で、つまり新羅での団結を固めてしまうことになったのである。

 新羅王族金春秋も積極的に、敵地となった倭国に入って工作して回っている。

 紆余曲折はあっただろう。

 ただ、金春秋と親しかった旧倭国豪族の多くは、横暴な新しい支配者より、古い親しい旧支配者を支持する方に動いた。

 それは復耶会の主が、やがて金春秋と姻戚関係になったからだと思う。

 旧倭国豪族の多くは、善徳女王の時代に新羅に全面的な臣従を決めることで、新しい希望の光を得たのである。

 その予感は、実を結ぶ。彼らはやがて、安住の地を得るのである。

 

 

    4

 この姻戚関係を使って、新羅は形成されてきたのであろう。

 単に武力で辰国を切り取っていくだけではない。

 初期に桂林の王を名乗ったのは朴氏で、高句麗の代官から身を立てる。

 

 ところが倭国が攻め込んできて王城は陥落し、臣下であった昔氏が高句麗へ救援を求めて走る。

 昔氏は、臣下というより、王族と姻戚の実力者だったのだろう。

 高句麗の時の王、広開土王はこのとき、倭国、百済両面の戦争をやってのけて、多羅や安羅、といった伽耶の倭人軍、つまり12国の倭人連合軍を大敗させ、あの有名な記念碑を立てたのである。

 そして桂林を復興させるにとどまらず、広大な徐羅伐(ソラボル)の領土を倭国から切り取り、昔氏に柵封したのである。

 昔氏、つまり騎馬の民サカ族だと考えていいと思う。秦人かもしれないし、そうでないかも知れない。とにかく倭人ではない、のである。コリア(高霊)族でもない。もちろん日本人でもない。

 フヨ族(高句麗、百済、辰の王族)ではないが、親戚のようなものである。

 その徐羅伐は、倭国連合の包囲を受けながらも高句麗の支援をもとに、逆に倭の12国を1国、また1国と併呑していく。羅を伐って、徐いていく。

 列島でも、この時期は高句麗の植民地と秦や倭の植民地がしのぎを削る、血なまぐさい時期だったのだと思う。

 単に武力で相手国を奴隷化し、支配下におさめていくだけではダメだっただろう。

 馴染みの種族を取り立てたり、倭の王族と姻戚関係を築いたりしながら、徐羅伐が強大化していったのである。

 

 そして倭国の権威中枢とも言える金官加羅を徐羅伐が併呑したとき、たまたま、男の後継ぎがいなかった。そこに徐羅伐の転機が訪れるのである。

 王の権力が弱く、たまたま宰相が権力を握っていたのかも知れない。またその宰相は、金姓だったのかも知れない。

 なんと、金官加羅の王族を時の徐羅伐王の弟扱いし、娘の養子に迎える。

 新羅という名称が定着するのも、この王の時代だ、という意見もあるらしい。

 やがて生まれたその子が、若干7歳にして昔氏ではなく、キム・スロ・ワンの末裔、金氏を名乗って徐羅伐の王となったのである。

 この真興王はチヌン大帝534-576として辰国の王を名乗る。すでに辰韓のみならず弁韓も、あらかた徐羅伐の軍門に下っていた。

 徐羅伐第24代の大王とされている、金官加羅の王族の血をも受け継ぐ、この人物が、事実上の新羅を立てたのである。

 一時期は百済と同盟して高句麗をたたき、百済とも戦争をやって領土を切り取り、極めつけは大伽耶を陥落させて、ここに半島の倭国は事実上滅亡した、のである。

 海を隔てた九州の勢力など、この当時は微細なモノだったのだと推測する。

 この新羅の大王は辰国全域の主となったのである。しかし並外れて優れたこの男、チヌン大帝は辰王を名乗れない。血筋は倭人であっても、資格がない。

 

 

    5

 当時の列島の状況は、詳細な歴史書はあるのに全くの闇である。話が、ことごとく、いかがわしいのである。

 天皇で言うと安閑・宣化・欽明天皇の時代である。

 その三人の親が、問題の継体天皇である。

 この天皇は養子ではなく、大伴金村という実力者が、応神天皇という394頃の天皇の子孫を、遠方から勝手に連れてきて据えたことになっている。新羅と同じような話になっている。

 この時代はまた、任那での、きな臭い匂いが漂う時代なのである。

 国書にあるいきさつは、こうである。すでにありもしない倭国連合政権の側の話としてではなく、倭の中枢政権の立場から書かれているように読める。金官加羅はあったが、大和政権などという、そんなものは、ありもしなかったのであると小生は考えている。

 宰相の大伴金村が百済の要求に応じて任那の4県を割譲した。

 すると任那は素直に百済に帰属せず、新羅方に寝返ってしまった。そこで継体21年に6万の兵を任那に派遣した。

 ところがこの軍は筑紫の国磐井の反乱で、そこから先へ進めなくなった。それで急っ居、物部氏の軍を派遣して乱を平定した。

 6万の任那派遣軍については、結局、立ち消えである。これで任那を失ったのだとしているわけである。

 この話は筑紫の国磐井の反乱だけが本物で、任那派遣軍というのはウソだと思う。動員時期も、乱の時期も全然違うと思う。

 欽明天皇の時代にも、仏教伝来と任那への出兵が述べられている。任那の滅亡についても、である。

 まさにこの時、新羅に仏教の伝来があり、チヌン大帝が大伽耶を併合したのである。

 しかし百済軍の任那侵入によって、逆に任那全域が、心底新羅に寝返ってしまったという事情は、ずっと後の出来事、なのである。しかもそのころの任那はすべて、新羅の一部であった。

 新羅の歴史書が怪しいのだろうか?

 双方とも、怪しいと思う。同じことが何度も起こっている。但し新羅文書と中国文書が一致する場合は、そこそこ真実があるとと思う。日本書記についても同様である。 

 北斉書に金真興として出てくるチヌン大帝が倭国を滅亡させたのであり、この時代は明らかに欽明天皇の時代である。しかし大和に政権があったのだろうか?

 しかしその7歳にして即位した金真興、立宗葛文王の実の息子こそは、倭国で最も権威のある金氏の血を継ぐものであった。つまり倭人の血を、である。但し諸国に擁立されているわけではないので倭王(辰王)ではない、のである。

 桂林やシロの、昔氏の王統は、この時代に絶えたのである。

 つまり、チヌン大帝の父である立宗葛文王は、継体である。しかも秦人や穢族ではなく、倭人だった、ということである。

 聖骨が絶え、立宗葛文王もまた臣下が勝手に敵国の権威ある王を先王の弟にしてつれて来た。真骨でさえ、ない、人物なのである。歴史書にはないが、たぶん女帝が立ったはずである。

 大和の話では、この大伴氏という臣下が金文字を持っている。そんなところなんぞ、特に怪しい。

 双方の話は同じ話で、しかも都合よく、うそだらけ、なのである。

 

 

    6

 512年に任那4県を百済が併合。

 これは国書にあるように倭国が領土を割譲したのではなく、衰退した倭国の一部を百済が勝手に切り取ったのである。

 この結果、532年には倭国12国の代表格であった南部の金官加羅国が、新羅に寝返ることになる。

 長く倭国の後ろ盾であったはずの大国百済は分限を超えた。直接倭国へ手を出すことで、滅亡への一歩を、これで踏み出してしまったのである。

 法興王514-540(チヌン大帝の母方の祖父)の時代に、徐羅伐が金官加羅国を併呑する。

 この併呑は武力でむりやり、ではなく、百済の圧力に屈して時流われにあらずと悟った金官加羅国の方が、これまで敵方であった新羅に擦り寄ったのである。

 新羅は金官加羅国と姻戚関係を結び、その王族を臣下として、とくに娘の婿とした立宗葛文王(権力のない娘むこ、ご養子さんだと思う)を立て、弟として遇したのである。

 この時代に伽耶の地で花朗(ファラン)が生まれる。源花とも言う。

 旧倭国の領域で、である。関連があるのだろうと思う。鹿島がいうとおり、後の源氏だと思う。

 宗教色を伴った下級武士集団であり、その頭目として、やがて金ユシンが出るのである。

 早い話が、金官加羅国や任那の王族も兵士集団も、ともに徐羅伐の中枢へと入り込み、やがて徐羅伐を乗っ取って、そこを新羅と変えてしまうのである。羅を伐って徐くはずの、高句麗の出先機関が、いつしか羅の頭目になっていってしまうのである。

 かくして昔・法興の継体として金・真興大王、チヌン大帝が出た。

 産鉄集団や伽耶の花朗集団を手中にした大帝は大伽耶をも併合し、倭12国は、ことごとく新羅の一部となった。百済も高句麗も、大きく後退せざるを得ない状況に追い込まれた一時期だったのである。

 次の時代には、失った領土回復とともに、伽耶に横槍を入れて、多羅への利権を要求したのが旧多羅出身の百済であり、過去に高句麗から逃げ出した辰の民の正当な所有権を主張したのが高句麗の王権である。

 大帝なきあと、新羅も内部の権力闘争で弱体化する。

 大帝のあと二代続いたという金氏の王権は、いずれも後手後手に回り、大帝が確保した広大な領土は削り取られて減ってゆく。

 そして三代目の時代に、百済の無思慮な侵入が、またしても百済自らの危機を招いてしまう。

 下級王族金春秋と花郎(ファラン)の頭目、金ユシンの危機感を煽ってしまうのである。

 伽耶に地盤を持つ彼らが結束して、徐羅伐の実権を握っていたピダムという一族をはめ殺し、新羅の全権を掌握するきっかけとなる。

 時の王は、女王トンマンである。

 王はクーデターを知っていて好きにさせた、のである。横槍を入れたら、伽耶諸国は百済側に寝返ってしまいそうだった、からである。かなり賢かった。

 しかも、女王は親高句麗政策をとっていたのに、その高句麗が百済と組んで姑息な動きを見せる。背後の支えだと思っていた高句麗に金春秋を援軍要請で送り込んだのに、高句麗は使者の金春秋を人質に取るという暴挙に出る。

 徐羅伐はそこで、本当の危機に直面する。

 

 

    7

 新羅の歴史では、善徳女王トンマンはピダムの乱で殺されたことになっている。

 しかし列島ではチヌ王の子、半島ではユシンの妹として系譜を書き換え、自分が居ては都合の悪い半島の地、徐羅伐を逃れて、列島の今来の地へと、次の支配者となる甥(ユシンの子らしい)を連れて、亡命者同然の支配者として赴任してくるのであると思う。

 これは鹿島が言ったことではなくて、小生独自に主張する、まるっきりの想像である。しかし調べたら、同じような結論に至っている人が、結構大勢いる様子がある。

 後継ぎの真徳女王が亡くなってのち再度即位する、国書では二度目の女帝、第37代 斉明天皇としてである。

 しかしこれが、天皇を名乗った初めての例だと思う。新羅王では、ないのである。

 すでに列島の各地を掌握済みのこのときはむしろ、倭王なのである。

 この土地の言葉もしゃべれないまま、わが子のように慈しんだ幼い甥は病で亡くした。そして斉明本人も、筑紫へ兵を伴い遠征途上に、そこで死んだ。その葬式を鬼が覗いていた。

 ピダムの乱で、ではなく、反乱倭軍との抗争の最中に死んだのであると思う。

 新羅風のファランの装束で、ずっと付き添ってきた徐羅伐の近衛兵士たちが、その葬式を覗いていた。彼らの装束は、列島出の日本軍の人々には、鬼のように見えた。

 あるいは、別の意味も、あるのである。後の方で述べようと思う。

 国書では、斉明は倭王の扱いなので、百済への復興軍司令官、扶余豊璋を送っていって、そこで死んだことになっている。

 しかしこれが遠い過去に起こったとされている磐井の乱の正体だと思う。倭国ー百済枢軸の一部、九州倭国と、列島に権力固めをやっている日本との戦争である。

 

 倭国ー百済枢軸とはまるで正反対の、新羅ー唐軍側の日本軍として、極東の大乱に参戦すべく、斉明は渡航地点の筑紫まで進軍したのである。あるいは本拠が、もともとここにあったのかも知れない。

 だが、旧倭国の一部で、配下勢力であったはずの筑紫磐井が百済側に寝返って戦闘になり、そこで死んだのである。

 これが先に出てきた6万の軍の正体であると思う。

 筑紫が半島へ派遣した海軍実質は数千だったのではないだろうか。

 ピダムは過去に半島でクーデターにあってはめ殺され、消えた女王殺しの汚名を着せられた。

 その女王は、ずっと後に筑紫反乱軍への出兵で心労が積み重なり、今度は本当に死ぬのである。

 そして扶余豊璋の率いる百済復興倭軍と唐海軍の戦闘も、極めて怪しげなものとなる。

 

 

   8

 そもそも、661年のこの時代にはすでに、倭国の母体となる政権が無いのである。

 日本書記に書かれているとおり倭国の中枢が列島にあったのであれば、6万もの派遣海軍は筑紫磐井が反乱を起こしたために、そこで動けなくなり、さらに物部氏という列島豪族の援軍まで必要だったということになる。筑紫磐井が新羅側だったということになる。

 しかし日本書記が述べる527年の過去の、このときは、532年に新羅の圧力に抗しきれず、金官加羅の仇衝王(金仇亥)が国を挙げて新羅に降伏しているこの事件の前哨となる出来事である。百済による倭国への侵攻なのである。

 倭国連合に力はない。6万どころか、数千の兵もそろえられなかった惨めな時代なのである。

 国書にあるとおり、扶余豊璋が半島へ渡った661年という時代だったのであれば、わざわざ筑紫まで扶余豊璋を送っていったというのは、もっとおかしいのである。

 直後の倭軍大敗という事実があるからである。

 当然、戦勝側は迅速に、戦争した理由を確保する。

 間髪を入れずに敗軍を徹底追求し、敵地を破壊し尽くすか占領支配する必要がある。

 事実、新羅は百済領域を同盟主力、主人側であった唐と戦争してまで確保したし、高句麗も解体併呑した。列島九州をほっておくはずはない。

 ところがこの後新羅は、列島には派遣軍どころか、逆に朝貢してきた。

 徹底して打ち負かしたはずの敵の中枢国家に対して、超大国新羅が恐れて朝貢してきたというのである。

 かろうじて勝った会戦だった、余力もない、というのならありうることである。

 しかし新羅側は唐軍と正面対立できるほど強大化しており、対百済戦はボロ勝ちだったのである。全然、おかしいでしょうが。

 扶余豊璋という、怪しげな人物の動向も気になる。

 新羅側・唐側の資料では高句麗に逃げ込んだとか、行方不明になったとか、あるらしい。唐に捕縛されて流罪というのもあった。

 国難にさいして、北九州に派遣されていた百済の王子扶余豊璋は帰国できないまま、百済は滅びた。

 百済の佐平・鬼室福信らが百済を復興すべく反乱を起こしたとの報告を受け、扶余豊璋はあわただしく帰国する。その後を追って、九州地域から兵5000と軍船170艘程度の軍勢が大将を追いかけた。

 しかも百済で挙兵した鬼室福信は、合流した扶余豊璋にハメ殺されるのである。

 百済の王子扶余豊璋と、百済復興勢力の実力者鬼室福信の関係は、まるで鎌足や中大兄皇子と蘇我氏の関係のようでさえある。豊璋は鎌足だという説もあるらしい。

 後の話で大きくなってしまうが、実際に白村江での戦いは小競り合いで、扶余豊璋側5千、唐ー新羅側も7千人程度の規模だったのではあるまいか。

 反乱軍鎮圧の、それも鎮圧に送り込まれたスパイが活躍する話だったのではと思えるフシもある。

 

 

   9 

 唐軍の司令官は、話を異常に大きくして国の中枢に大戦果を報告しただろうし、陰謀づくめで国を作ってきた新羅としては、これで百済・倭国を滅亡させた最後の反乱鎮圧であることを内外に宣伝する必要があった。

 先のピダムの乱などは上大等という最高の官職にある王位継承者を暗殺したわけで、地方の反乱鎮圧などではない。下級王族と大将軍が組んだ、新羅中央でのクーデターだった。

 それがどうして筑紫磐井の反乱や乙巳の変(大化の改新)と似ているか、というと、人の関係や勢力関係が似ているのである。皇極と斉明は、同一人物、宝姫である。

    ピダムの乱     乙巳の変     磐井の乱

 敵  新羅上大等ピダム  蘇我入鹿     倭国筑紫磐井

 王  善徳        皇極       継体

 王子 金春秋       中大兄      *

 忠臣 金ユシン      中臣鎌足     *

 国  新羅        倭国(近畿?)  倭国(九州王朝?)

 

 新羅政権でのピダムの乱は、どう見ても親唐勢力と親高句麗勢力の内部争いで、親高句麗勢力のピダムと女王は殺され、その後、唐から派遣されてきた大将軍蘇定方と新羅王族金春秋、大将軍金ユシンの三者で、この地域が仕切られていく。

 伽耶を地盤にした王族と、伽耶出身の大将軍と、そして派遣唐海軍を束ねる最高実力者蘇氏によって、である。蘇我氏を髣髴とさせるこの人物も、どこか倭人(海人)臭い。唐海軍自体が漢人ではなく、もちろん王族の唐人(色目人=白人)でもなく、シウシン系で編成されていたと言われているようだ。

 女王は、この乱の中でピダム派に、殺されたことになっているようである。

 国書にある磐井の乱は、倭国による新羅に寝返った任那を回復する軍の派遣と、それを阻止せんとする倭国内部の反乱軍筑紫磐井、という話である。これは極めておかしいのである。

 過去に6万もの軍を送れるような、そんな力があったのなら、百済に任那割譲など必要なかったわけだし、後ろ盾もなく筑紫磐井が新羅がわに加担する無謀さも必要もない。

 継体の時代の話ではなく、斉明の時代の話であれば、つじつまが合う。

 斉明が大軍を率いて九州へ出兵する理由も、筑紫磐井がその圧倒的な軍を足止めして戦うべき理由も出てくる。

 半島でその百済復興軍を率いていた鬼室福信というのは百済の王族である。彼が半島の百済の地、現地で復興軍を立ち上げたのである。

 その鬼室福信は、倭国からの復興軍を連れず単独潜入してきた百済王を名乗る扶余豊璋と対立して、殺されてしまう。(その子孫鬼室集斯は、のちに日本に亡命して天智天皇から官位を受けている。)

 扶余豊璋は、鬼室福信を殺して得た復興軍のほうは一度見捨てて解散させ、倭の援軍と合流し、この部隊が唐の海軍と戦ってボロ負けに負けたわけである。実態は5千ほどだろう。

 そして逃げた先が高句麗。もうわけがわからん、のである。

 しかしヒントはある。

 扶余豊璋は、親高句麗派、だということである。列島には逃げ帰れないことをすでに知っていた。

 

 

    10

 当時の旧倭国領域では親高句麗派が権力を握っていたのだろう。

 列島には、この倭国に属する地域のほか、高句麗系、百済系、新羅系、蝦夷系さらに秦系とまちまちな諸国があり、そこへ最近急激に勢力を伸ばしてきたのが新羅系の斉明だった。

 その葬儀を鬼が覗いていた、という女帝である。彼女は親高句麗派だった。この時点では変節して違っていたのかも知れないが。

 その女帝は遠征先の九州で死ぬ。

 来年のことを言うと鬼が笑う、というが、鬼が覗くというのはどういう意味か。

 鬼というのは冥界のはっきりしない生き物や魑魅魍魎の例えだと言われるが、その連中が興味を抱くほどの、実に怪しげな葬式だった、ということである。

 棺おけに、今度は本当に入っているんだろうか。だろうよね。

 という話である。鬼室氏との関係も匂わせたかったのかもしれない。

 来年の話をすると鬼が笑うが、過去の前例があったのである。

 鬼室氏は筑紫磐井にも高句麗にも援軍を要請してから、唐・新羅連合軍に占領された百済の地で挙兵したのだ、と考えたい。

 筑紫磐井に派遣されていた扶余豊璋は援軍動員の手はずを整え、少数の先鋒軍とともに半島に渡る。生き残り倭国の海軍主力(九州勢力)もこれを追う。

 軍事力がら空きとなった、そこへ、背後の近畿圏から6万という大軍を率いて殴りこんできたのが斉明帝である。これが、金官加羅を始めとする旧倭国の兵で構成された日本軍なのである。

 予定の作戦だったのだろうと思う。練りに練った筋書き通りの。

 しかし筑紫磐井は、官軍という相手の主張にも大軍の包囲にも惑わされずに、百済と築き上げてきた関係の方を重視した。

 6万も動員すれば十分だという斉明の読みは外れ、戦線はこう着状態となり、斉明帝がそこで倒れる。

 筑紫磐井の国は奥が深く、平定には、さらに物部氏の援軍まで必要だった。地元の、つまり列島の豪族たちの力も借りねばならなかった。

 倭国最後の砦を攻めた総大将は、古くから列島に派遣されていた金春秋の弟、金多遂だったと思う。斉明帝の子として、これも系譜を書き換えて、である。

 扶余豊璋は、半島で筑紫の倭軍5千余を待ち続ける。

 170隻、そのあたりが列島九州の海軍の総力限界でもあったと思う。

 話のあわない鬼室氏を殺したため、その軍を弱体化させてしまう。これでは戦えないと思ったのだろう。その軍を見捨てて、30年以上暮らして馴染みの、筑紫の倭軍5千余と合流する。

 本国が包囲されて滅亡したことを知らない遠征軍である。彼らが白村江の戦いの倭軍主力だと思う。

 会戦直前に、倭国すべての諸国の滅亡を意図的に知らされ、戦意喪失して崩壊したのだと思う。

 扶余豊璋はその後、祖先の地、高句麗に逃げ込むのである。

 

  

   11

 その高句麗も、やがて内部分裂して新羅の軍門に下る。

 こうなると、まるで扶余豊璋は007のようにも見えてくる。

 まあ、滅びかかっている王族の末裔という人たちは、誰もがそんな境遇に陥るのである。未だ生存説がある愛新覺羅家の王女、川島芳子のような境遇である。

 

 鬼が興味を持って葬式を覗いていた斉明帝は、半島から逃げ出したのではあるが惨めな境遇にあったのではない。

 自分の政治的な立場のまずさを、支配地拡大の転機に変えたのだと思う。

 その結果、新羅大王の座は真徳女王に譲ったが、系譜をごまかして金ュ申の妹を名乗ることにした。

 そのことで、旧倭国勢力の全てに君臨できる権限をも得たので、天皇と名乗ったのである。あるいは自ら倭国の盟主をも、すでに名乗っていたのかも知れない。

 真徳女王亡き後は、新羅と列島を、ともに支配する日本という国の大帝として君臨する。過去に半島へ逃げた壱与と同じ、辰王を名乗ったのである。海を渡って逃げた方向はそれぞれ、まるで違うのだが。

 ピダムの乱はクーデターなので、ほとんど事実。どっちが、より悪(ワル)だったのか、という問題だけ。

 磐井の乱は、時代は全然違うが、そこそこ史実で、私どもが教科書で学んできた乙巳の変が、後に作り上げられた虚構の物語だろうと思う。

 特にこれで、倭国の地盤に日本が立った事情を、新羅抜きにして徹底して作り上げていった。

 かって、ソラボルの伝統を挿げ替えて、金海金氏の王朝が継承していったように、である。

 考え方によれば、ピダムも磐井も、反乱を起こすべき正当な理由があった。

 徐羅伐の主が辰王(倭王)を名乗れば、徐羅伐の理念そのものが雲散霧消したことになる。存在理由がなくなる。

 次の徐羅伐王を約束されていると思っていたピダムは、足元をすくわれた、のである。さらに蚊帳(伽耶)の外に置かれて、女王殺しの汚名をも着せられた。

 磐井にしてみれば、百済王までが人質を立てて遇してくるほどの、いわば倭国12国連合の盟主に踊り出たのに、新羅から来た怪しげな勢力に倭王(辰王)を名乗られて、黙っておられるはずがない。

 百済の勢力や高句麗の勢力がそのままの姿で列島に生き残ったのは、それらの勢力がヤマト朝廷に、やむおえず参加していったからである。

 鬼室氏をはじめとする百済の王族でさえ、生き残りは帰順した。帰順しない蝦夷(えみし)やハヤト(古い時代の高句麗系騎馬民族だと思う)、ハイ族(扶余族)などは討たれた。討たれたとされる実力者蘇我氏が蝦夷や入鹿といった名を持たされたのは偶然ではないと思う。

 新羅の名が、列島の至る所に残っているのに、その文化の痕跡が消えているのは意図的に消していったため。百済が同様に、その文化とともに残っているのは消す必要がなかったため。

 秦人と倭人と唐(藤原)氏が、権力中枢に仲良く居座ったのは、日本軍の中枢が金氏(倭人)による秦韓・弁韓地域の新羅王権と唐の連合軍であったため。

 そして倭国12国連合の姿や、その王朝文化が全く表層から消滅してしまったのは、それらが敗者だったからである。古い天皇の系図に出てくる、古い文化である。

 日本はスムーズに大和へ入ったのではないが、任那伽耶の倭人文化は日本という新しい国の基層文化として定着した。

 倭の12国は全て消えたが、倭人は大勢の武人や支配階層者として、そのまま残った。そもそも新羅王族の金氏自体が、チヌン大帝以降は倭人、なのである。

 金多遂(天武)が金ユ申(天智)の息子(大友の皇子)を退けて天皇と名乗った壬申の乱のために、天皇の意味も、決定的に、そこで変わった。

 天皇は倭王(辰王)の意味を失い、列島だけの権威となって、統一新羅と列島日本の大和政権は、おいと叔父、別々の国となった。

 天武のおいが大王となって、ソラボルの伝統を受け継ぐ統一新羅は、任那伽耶(日本府)をその領土の一部としたのに、過去に金春秋が約束して回った貢物を列島の日本に対して続けたのである。任那伽耶の豪族たちが、国ぐるみで列島に移住した証拠である。

 任那の調というのは任那が負担する、という意味ではないのである。

 まるで逆で、新羅王権が任那の豪族たちと約束した兵糧なのである。

 百済占領下にあった任那に入って、金春秋が過去に約束してきた。それを後々まで守っていたのである。これも時代を書き換えられてごまかされた形跡がある。

 双方とも特に親しい親族関係にあったので、疑心暗鬼は何もなかった。

 当時、唐も新羅も、列島の新日本に対し、なんら危惧を抱かず友好国扱いしている。

 だが、新羅と日本の、お互いの気まずい関係は意図的に、双方とも内部で消していったのである。

 

 

    12

 根も葉もない状況証拠に頼る空想とは言え、まったく、とんでもないハレンチな歴史が見えてきたものである。

 これらの状況証拠の核となるのは、「鬼が覗いていた」、である。

 そして半島と列島、双方で同時期に出てくる二人の女帝と宝姫、である。

 チヌ王を親に持つ女帝と、チヌン大帝を先祖に持つ女帝。

 そして三つの大乱や変である。実際にはピダムをはめ殺したクーデターと、筑紫倭国との大戦争の二つしかなく、イルカ殺しは創作だと思う。出雲征伐は消されて、古事記にしか無い。

 そして今二つ、万葉、そして日本庭園という「決定的状況証拠」が出てくるのである。 万葉から述べていこう。

 山常庭 村山有等 取與呂布 天乃香具山 騰立 國見乎為者 國原波 煙立龍 海原波 加萬目立多都 怜*國曽 蜻嶋 八間跡能國者

 大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は 鴎立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島(あきづしま) 大和の国は

 宝姫の最後のダンナは第34代舒明天皇(じょめいてんのう593~641年)とされている。

 万葉集の中で、初めて存在感をもって出てくる天皇でもある。

 但し、その歌が怪しい。山常庭 、このどこがヤマトニハ、なのか。クニバラハ、ケムリタチタツ、ウミバラハ、カモメタチタツ、こんな風景が眺望できる天乃香具山は大和には、ない、という説がある。

 おおかた、どこかの海沿いの都から大和に越してきた人たちが、故郷の山の名を周りの山々に名づけていき、あの低いぱっとしない小さな丘が、天の香具山となったのだろう。大和にある小さな丘は、登ってもロクに周りが見えやしないほど、低いのである。

 このあと出てくるいろんな人の多くの歌も、どうやら宝姫の作、くさい。舒明天皇のこれも、もしかしたら、である。

 万葉は諸般の状況証拠から、759年以降にできたものらしいが、その下地を作ったのは明らかに宝姫なのである。

 この万葉という歌はまた、朝鮮半島新羅地域の古い言葉で、そのまま別の意味に読めるという説も、半島の学者によって報告されている。古い新羅の郷歌(ヒャンガ)であると。

 韓国の歌、なんぞではない。古い新羅地域の、ほとんど残っていない郷歌であり、宝姫とともに日本軍として列島に侵攻してきた人々、つまり日本人貴族が列島に持ち込んだ時代のものなのである。新羅ではこれが廃れ、漢詩に変わっていったようだ。

 万葉の時代の列島貴族の多くはバイリンガルで暮らす人々であったことも、わかっている。私どもの今の日本語にも、その痕跡は残っている。おなじものに必ず二つの言葉がある。ひい、ふう、イチ、ニイと。文字さえ二種類ある。漢字を入れたら三種類。こんな国は世界の中では異常である。

 そのためか、ことばの文化が異様に発達した社会だったのである。

 これが世界最古の随筆集や、世界最古の大河メロドラマ小説を生む母体とも、なっていった。

 アリナレ川についても、下級貴族の女官までが知っていたのである。それらの事情については鹿島昇が詳しく述べている。

 

 

  13

 庭園については、飛鳥に残されている古いものは、新羅様式のそれであるという、動かしがたい事実がある。

 方形のプールを持つ百済様式のものもあったらしいが、残っていない。消されている。

 破壊されずに残された日本の古い庭園は、池の底に独特の構造物を持つこの新羅様式のそれと、須彌山を中心に、滝や唐風の回廊や石を立てた独特のものである。海と石組みは特に日本独特のものだろう。

 蘇我馬子が邸宅敷地に方形の池を持っていた、とされている。

 最古の時代のものは百済様式の影響が大きいのである。池の底には石が敷き詰められている。それが曲線の池に変わっていく。作り直されたのだと思う。

 新羅の勢力が後から、倒していった百済系の豪族の屋敷を、新しい様式で作り変えていった様子が伺える。

 当時の庭園は、貴族の遊びやこころのゆとり、といったものではないのである。

 国家をたてるさいには、まず庭を立てた。

 こころの拠り所や権威を示す、などといった理念的なことではなくて、捌きの庭があって初めて国家が立てられる、そういった切実なものだと考えるべきである。こころの拠り所なのではなくて、こころそのものなのである。(此処-露)

 飛鳥の板葺きの宮(にわか作りの掘っ立て小屋という意味だろう)にも急造の庭が立てられたはずである。

 飛鳥浄御原宮に付属した最古の庭園遺構が見つかっている。

 それは新羅様式だった。池の形や出土した用途不明の石槽などは、新羅の宮殿に付属した庭園・雁鴨池そっくりと言われている。

 そして日本庭園のルーツとされる後の平城宮・東院庭園などの原型となったという意見もある。

 日本という国の根幹に新羅がいた、動かしがたい状況証拠である。

 

 

 

   14

 ところで、列島の宝姫は何度も結婚しているが、半島のトンマンにも4回旦那を変えたという説があるようである。3人の夫を持てる法律を作ったという説もある。英雄色を好むというのは女性にも当てはまるのだろうか。

 舒明(じょめい)天皇の時代、政治の実権は蘇我蝦夷にあったとされている。この舒明を探っているうち、舒弦という人物に半島で出会った。

 なんと金ユシンのお父さんである。

 どこで、どうしていたのかはわからないが、仇衡王(たぶん、本物の倭王=辰王)直系の子孫である。

 欽明天皇は金官伽耶の仇衡王という説が、すでにちゃんとあることもわかった。そうすると、この舒弦という人物が舒明天皇ということになる。もちろん、ユシンが天智天皇を名乗って後に、遡って作ったのである。

 チヌン大帝から善徳女王に至る二代の新羅王も、実は、かなり怪しいのである。

 百済との抗争で国を次々と失っていく過程の、ぱっとしない王たちである。

 真興王(チヌン大帝)の太子の銅輪が早く亡くなり、次男である舎輪王ともいう影の薄い王が即位したはずであるが、死んでから真智王名が送られている。

 善徳女王の父とされている真平王は阿莫城(全羅北道南原市)での会戦では百済を大敗させ、603年8月に高句麗が北漢山城(ソウル特別市)に侵入した際には、親征して高句麗を撃退したとされている。

 その割には、領土の復興がない。国内も対外的にも、たぶんガタガタになっていった、落ち目の時代なのである。今の日本のような時代である。

 国内ではソラボル派と伽耶派がしのぎを削り、下級武士貴族子弟を宗教色でまとめた旧金官伽耶の勢力が、軍事力を握りつつあった。

 高句麗も百済も、そして唐も、さかんに独自のロビー活動をやっていた。

 その中で、大耶城に侵入して王族を殺したという百済の失策が、すべての発端だと思う。

 女王は男漁りをしておればよかっただろうし、大将軍の位について、すでに新羅最高の実力者だった金ユシンは、復耶会を自分の権威で押さえ込んでおけば、それでよかった。 金春秋は、自分の支配地である伽耶の諸勢力をどうやっててなづけるか、そればかり考えていたのだろうと思う。

 新羅の頂点に立つピダムはたぶん、韓国ドラマ同様、気の多い女王をどうやって陥落させるか、こころを砕いていたのである。

 

 

   15

 列島の宝姫も、もしかしたら、一度も結婚しなかった可能性はある。

 性的には大らかな時代なので、儒教的制約などは何もない。

 系譜を作るために、金官伽耶の先代の王族と婚姻関係にあったというような、架空の天皇を仕立てたのかもしれないのである。

 若狭に渡る途中立ち寄った金官伽耶で舒弦本人と会い、「あら、いいおじいちゃんだわ」と思ったのかも知れない。

 すでに金ユシンの息子を伴っており、しかも甥として、その子を溺愛していた。

 この子はもちろん、王が人質として大将軍から預かったのである。

 同行者の中には、金春秋の弟、多遂も居た。彼もまた人質である。

 ユシンの息子を甥として、次の大王にすえるつもりだった。多遂は、自分の子として扱ったのである。

 645-647年ころ、トンマンは新羅から姿を消す。

 ピダムを、はめ殺し、同時に唐帝国の援軍を招聘するためである。国書の皇極は645年に、天皇を降りたことになっている。

 逃避行に同行した軍勢の主力は、当然倭(金官伽耶)の海軍である。

 647年はまた、金春秋が、百済に切り取られた倭国部分への説得工作に駆けずり回った時期でもある。

 唐にも出かけて息子を人質に唐の軍営に入れているので、倭国列島の状況偵察も、その一部であったのだろう。列島まで同行した可能性も一抹あるが、動乱の時期である。可能性は低いと思う。

 彼が来た倭、というのは百済支配下に置かれた倭の諸国、金春秋の過去の支配地のことだと思う。

 金春秋がなんとか脱出した高句麗には失望したので、残された手段は唐と同盟することだった。そのためには、親高句麗派だったトンマン女王は、新羅から必ず姿を隠す必要があった。

 そのため死んだと偽り、倭の海軍を伴って、遠い列島の植民地へと威力偵察に出たのである。新羅へ帰るつもりはなかった。

 渡航地点は当然、北九州にあったであろう。そこに歌にある今来の地(渡来人の植民地)があった可能性もある。

 孝徳天皇の即位が645年。諱は軽(かる)。

 難波宮を立てた天皇で、茅渟王の長男。母は欽明天皇の孫吉備姫王で、この天皇は斉明の兄弟なのである。しかしトンマンには男兄弟はいないはず。

 しかも明らかに実権のない、名ばかりの天皇で、国書においても中大兄皇子の傀儡である。

 金官伽耶の王族の誰かが仕立てられたか、架空の人物か、だと思う。

 653年、皇祖母尊は中大兄皇子と共に、孝徳天皇を捨てて倭飛鳥河辺行宮に遷幸。

 新羅の森が近畿圏にあり、天智天皇の墓もまた近畿圏にある。

 斉明の母が吉備姫とされているのを見ても、上陸してわずか6年後、近畿圏のそのあたりに、新羅系の一大地盤が、すでにできていたのである。

 蝦夷(えみし)の地を積極的に攻撃して切り取った、という伝承もある。

 654年3月に新羅で消えた善徳女王の後継ぎの義理の姉妹真徳女王死去。

 655年2月、急ごしらえの飛鳥板蓋宮で、宝姫は斉明天皇として再度即位。この間は雌伏し、ここで初めて、天皇を名乗ったのだと思う。

 その後初めて、王と名乗ることを断り続けてきた金春秋も、本国で新羅王を名乗ることとなる。斉明天皇から了承を得たのだと思う。王即位が先という資料もあるが、これはいくらでもごまかせる。

 斉明帝崩御は661年8月24日。

 白村江の戦いが663年。

 一部は反乱したが、647年から17年かけて、ほぼ列島の旧倭国勢力はことごとく手中にあったのである。女真族を主力としたといわれている唐の海軍が列島に入ってくるのはこれ以降である。この勢力を牽制するためにも、新羅が入り込んできて倭国を切り取った、という構図の話は、困るのである。

 

 

   16

 古くから、出雲は新羅系ではないか、と言われてきた。

 大和朝廷とは違う勢力だとの意味で、言われてきたのである。

 雲州とも言い、稜威母(イズモ)という、日本国母神「イザナミ」の尊厳への敬意を表す言葉からきた語、あるいは稜威藻という竜神信仰の藻草の神威凛然たることを示した語を、その源流とするという説、出鉄(いづもの)からきた、という説もあるらしい。

 古事記には、建御名方神(たけみなかた)が降ると、大国主神も自身の宮殿建設と引き換えに国を譲る話がある。

 出雲征服の話は日本書記には、ないのである。

 出雲は葦原中つ国の旧支配者として描かれているのに、日本書記にないということが何を意味するか、である。

 ここを陥落させたのは大昔の話です。最近のことじゃありません、ということが言いたかったのだろうと思う。日本の成立とは関係のない、倭国の内部の話だと、古くからあった大和朝廷が出来た神話時代の話だと。

 裏返せば、日本による出雲征伐は直近の出来事で、古くからの大和朝廷など、ないのである。

 大国主が出雲を支配していた時代には、いくら遠征しても落とせなかった相手なのである。

 高天原からアマテラス配下の神々の数度の派遣もむなしく、犠牲は増える一方。侵攻軍の方が全滅したり、取り込まれて篭絡させられたりしてきた。産鉄の土地であったようだ。

 建御雷神(たてみかづちのかみ)と天鳥船神の派遣に対しても、事代主神と建御名方神が立ちふさがる。

 これは、この地が葦原中國のセンターでもあったことを示していると思う。

 但しすでに大国主の時代ではなかった。

 事代主は船を沈めて暴れるが両手を上げ、建御名方神は敗れて逃げたが、現在の諏訪湖のところで、追いつかれる。

 そして、次のように言う。

「殺さんといてや、他所へは逃げんから。大國主神の命の言うとおり、事代主神の言うとおり、この葦原中國は、あんたのもんです」

 過去に大國主神が征伐され、事代主神が征伐され、今、出雲の建御名方神は、(出雲の辺境の地)諏訪の地で降伏したのである。

 これは出雲征伐が、実は列島征伐であったことを物語っている。日本書記には書けなかった真相を含む、事変の数々なのである。

 列島の主であった出雲を征服することで、侵入した日本と同盟した吉備や大和は、すんなりと手中に出来たという、蝦夷(えみし)征伐の物語なのである。

 

 出雲は新羅系だったのではなく、金管加羅の滅亡後、新羅の軍門に下らざるをえなくなった列島倭国の中枢国家である。列島倭国の正体だったと思う。

 

 

   17

 大國主神は明らかに、遠い過去のスレイマン大帝である。過去の失われた権威となってしまった12国が祭るべき主、辰王のことだろうと思う。

 事代主神は、現代の形骸化した倭国連合の怪しげな主、そして建御名方神が、列島で最後まで抵抗した出雲の王なのである。

 時代は不明だが、最近のことで、建御雷神と天鳥船神を派遣した主は、自分の正体を明らかにしたがらない高天原出の主、それも女帝なのである。

 そしてこの出雲を征服することで、北九州のみならず吉備や大和をも手中にし、大和朝廷を開くことになった美馬那(任那)日本の主である。

 こうして見てくると、神々の時代のアマテラス王朝のいろんな出来事に似たものが、宝姫の近辺でも起こっていることがわかる。

 スサノオ神に攻め込まれて乱暴狼藉をされ、天岩戸に閉じこもった(おかくれになった)話なども、姿を隠した女王の話と一致する。(新羅では死んだことになっている)

 斉明が蝦夷(えみし)征伐に派遣したのは阿倍比羅夫という海軍である。もっぱら策略での植民地化武力外交であったようだが、女真(シウシン)との戦闘も報告されている。

 同じ阿倍比羅夫が百済復興軍として赴いたというのは、どうも解せないのだが、以後の唐ー新羅の対立につながっていく伏線なのかも知れない。あるいは、これが白村江の陰謀なのかも知れない。

 白村江や宝姫近辺にはまだまだナゾが多い、ということである。一筋縄ではいかない。 国史にあるとおり、などでは絶対にありえない、とわかる。だが、想像した歴史では説明がついていない部分も未だ無数にある。

 

 

 

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 斉明を皇祖母孫とした表現は、しかし極めて妥当なのであると考える。

 斉明を半島の宝姫とし、更に半島から消えた女王とするのは想像の積み重ねにすぎないが、この線で、生まれてからの足取りを追って見たい。

 新羅真平王の子として生まれる。母方にも王家の血を持っていた。(聖骨)

 出生年不明(女に年齢を尋ねるもんじゃないよ) 姓は金、諱は徳曼(トンマン)、王母は金氏の葛文王福勝の娘の摩耶夫人、釈尊の母と同じ名の母を持つのである。

 王配は飲葛文王(即位したとき結婚していたということ)。真平王の長女説と次女説があるらしい。

 同時に3人の旦那を持っていたらしいが、ここに飲葛文王と出てくる問題のダンナはキム・ヨンチュン(金龍春)。つまり春秋のおとっつあんのこと、なのである。

 春秋とは義理だが、親子関係といっていい間柄、なのである。

  新羅の正当な後継者であるが、新羅配下の金管加羅(伽耶)にも地盤を築いて、金ユシンやその父と親しかったのは間違いなさそうである。

 宗教的下級武士団である花郎とも関係があったらしい。韓国ドラマの筋書きは、ほとんどウソであるが、そのドラマの基礎となったという花郎世紀という怪しげな文書が偽書かどうかは不明。後世の儒教思想の影響などもないようなので、かなりの真実が含まれていそうに思う。

 多くの学者が下敷きにする三国史記は、その儒教思想で書かれた、もっと怪しげな後世の作為文書なのである。

 これらに比べれば、720年に出来た日本書紀の由緒正しさは、品格のレベルが違う。しかし、つじつまのあわないウソだらけということが、わかってきている。

 

 

 

 

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  632年 真平王死去とともに、諸侯の思惑で女王となる。聖祖皇姑の号を持つ。唐に朝貢を重ねて635年には父の真平王に与えられていた〈柱国・楽浪郡公・新羅王〉の爵号を継承。

  633年 百済が侵略。

  636年 の侵略にさいしてはこれを殲滅。

  638年、高句麗の侵略を撃退。

  642年には、しかし百済に西部40余城を陥落させられてしまう。大耶城(慶尚南道陜川郡)も陥落。

 対百済戦の救援軍を求めて王族の金春秋(キム・チュンチュ。後の武烈王)が高句麗  に赴いたが、一時、人質にされた上、高句麗からの援軍は得られなかった。

 643年9月には唐に使者を送って救援軍を求めた。ところが、唐の王室から、女王を廃して新王を立てることを、逆に迫られた。

     *倭国 645 7月乙巳の変

         646 改新の詔、薄葬の令、高向玄理を新羅に使わす(女王死去?)

 647年正月に女王の廃位を求めて、中央貴族がピダムを中心に内乱、となっているが、これは金ユシンと金春秋の組んだクーデター。陣中で女王死去が公表される。

   ***

 647年 同じ(大化3年)に、金春秋の方も倭国へ赴く。

         651孝徳天皇 新羅使の唐服装を責める。高句麗風ならよかった?

         653年、皇祖母尊は中大兄皇子と共に、孝徳天皇を捨てて倭飛鳥河辺行宮に遷幸。(孝徳天皇政権消滅)

 654年3月 新羅で善徳女王の後継ぎの義理の姉妹真徳女王死去。

         655年2月 飛鳥板蓋宮で、斉明天皇として二度目の即位。

         658年  有馬皇子死罪、ここにも何かある。??

         660年  新羅・唐の連合軍に敗れて百済滅亡

         

 661年6月 金春秋死去 ??? 突然の若死に、である。

         661年7月 斉明天皇崩御

 663年  白村江の戦い

 668   高句麗滅亡

         668年2月20日  天智天皇、正式に即位 大津京?? 7年のブランク後。

         669    藤原鎌足死亡(56才)、墓所・祭所不明???

         671    唐の郭務宗3000の兵を連れて日本に来る。???

            12月、葛城という名だった、天皇行方不明となる、死去???            天智の号が送られる。

         672   大友皇子、弘文天皇となる。壬申の乱起きる。

             大海人皇子、天武となる。飛鳥浄御原に遷都。

 673年7月1日  最高実力者金ユシン79歳で死去  

 

 

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 なお、年月は、暦の書き換えがあるので全部怪しい。

 2-3年の誤差はあるし、誤魔化しもあると考えたほうがいい。???あたりは、まったくわけがわからんのである。

 乙巳の変は軽皇子(孝徳天皇)のクーデターであり、中大兄皇子は母親である皇極天皇と共に地位を追われた、という面白い説もあるらしい。

 

 中臣の鎌足の存在の怪しさは昔から言われているが、天智天皇自体も実在性が乏しい天皇に見えてきた。

 墓所は京都府山科に新羅の森を背景としてちゃんとあるらしいのだが、墓がもぬけの空なのは発掘前からわかっている。晩年に、行方不明になったとされているからである。

 実質は、新羅・日本の最高実力者金ユシンであることは明白なのだが、列島にたぶん一度も上陸していないので、天皇としての即位は、なかったのかもしれない。

 特に列島では壬申の乱で、金春秋の弟多遂が、金ユシンの息子(多遂の甥)を殺して天武天皇として即位する。

 中臣氏の一門も、ことごとく失脚し、殺されて、功績のあった唐の軍人がその一門の地位と名を継ぐ。

 藤原氏としてである。

 突然現れて処遇も不明な郭務宗あたりが、怪しいのである。

 状況証拠ばかりの積み重ねであるが、伽耶文化は半島では衰えて、消えたという事実がある。現代に残っておらず、それは列島で日本文化の中心的存在となったのである。

 高天原のアマテラスからつながるが、失われた時代の王統は、新羅という「新しい羅の勢力」によって受け継がれ、日本書紀として、この時代に、列島で作り上げられることとなった。

 日本という、高天原を出て、もともと半島にあった小国は、二度にわたって即位した新羅の中興の女帝により、列島という、安住の地を得たのである。

 ここには唐も、高句麗も、百済も、新羅も同居した。そして国が滅びた倭の伝統も、滅びずに大和という新しい単一の部族社会に溶け込んだのである。

 怪しい記述はいっぱいあるが、これらを受け継いできた日本人という単一部族は怪しくない。

 日本人は単一民族ではなくて、単一言語・神統部族、なのである。内部に多くの民族やその多様な文化を、逆に下積みして含んでいる。常に新しい参加者の、周辺の文化が脚光を浴びてきた。

 万世一系という血筋は、かなり怪しいが、高天原からの足取りは怪しくない。

 その種族の流れに多くの王権が参加し、築かれてきたものだからである。

 聖徳太子の言として残されている、和の理念のようなものが、過去の大王たちを導いてきたのである。

 聖徳太子は架空の王かもしれないのだが、実在の英雄たちが、その物語と同じ、日本国の理想を見据えていた。

 チヌン大帝の意志を受け継ぐソラボルの女王は、遠い過去、高天原のさらに前の時代に失われた、幻の辰国を見据えていた。そして、それを日本国として復興させたのである。

 

 

 

 

 

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