プロローグ
子供の頃の記憶を辿っても、覚えていることはいくつもなかった。
暗く不潔な街の裏で泥水をすすり、残飯をさがして一日が終わる。
気がつけばそんな毎日を送っていて、どうして自分がこんな状況にあるのかもわからなかった。
親がいない。守ってくれる大人もいない。独りぼっちの孤独を噛みしめるだけの日々だった。
街の表通りに出ると、たくさんの人通りで賑わっていた。
人々はお喋りをしたり買い物に夢中になっている。幸せそうに見えた。
だけどなぜか、皆自分と目が合うと途端に顔をしかめて遠ざかっていった。
屋台や露店の商売人達からは、客が来なくなるからどこかへ行けと怒鳴られた。
ある日、水たまりに映った自分の姿を見て理由がわかった。
そこには右目と、その周りの皮膚に大きな火傷の痕があった。
火傷の痕はズタズタに爛れていて、酷く醜い。
――ああ、そっか。
漠然と納得する。
自分が独りぼっちなのは、きっと親に捨てられたからだ。
この醜い姿を見て自分を嫌いになったに違いない。
そう思った。
自分の目が他の人間より優れているのを知ったのは、まったくの偶然だった。
コキュという人の血を吸う素早い羽虫がいる。
普通の人にはまともに目で追うこともできないこの虫が、自分には姿形や羽の動き、空中を飛び交う軌道まで見る事ができた。
この虫を大人達の前で捕まえてみせると、皆驚いて褒めてくれる。
ご褒美だと言って食べ物を分けてくれる事もあったので、それが自慢だった。
凍えるように寒い夜。
昼頃から降り始めた雪で、辺り一面うっすらと白い雪に覆われはじめている。
この日は食べる物が見つからず、街外れのゴミ捨て場を漁っていると、表通りのほうから数人の男達が走ってくるのが見えた。
全員が薄茶色の服を着て、腰に剣をさげている。
どうやら街の警備兵らしい。
彼らはあわただしく裏道に散っていったが、その中の一人が、自分の存在に気づき声をかけてきた。
「坊主、ここらで妙な奴を見なかったか?」
髭面の警備兵は、ここまで走ってきたのか少し息をきらせている。
「みてないよ」
「少しでも変だと思う者を見かけたら教えろ。知らせてくれたらなんでも好きなものを食わせてやるぞ」
警備兵はそうまくしたてて、足早に路地の奥へと消えていった。
好きなものを食わせてやる、という言葉が強烈に耳に残る。
街の表通りで見てきた屋台で甘酸っぱいソースをつけて焼いた骨付きの肉や、甘い菓子をほおばる自分を想像すると、口いっぱいに涎があふれた。
どのみち今日の収穫はゼロなのだ。
ご褒美にありつける可能性に賭けて、周囲一帯を探してみることにした。
小一時間ほど裏道を歩きまわった。
寒さはさらに増し、凍える空気に長時間さらされた手は感覚がなくなるほど冷たくなっている。
捜索をあきらめようかと思ったその時、建物のあいだにわずかにあいた隙間に、雪の上に点々と続く赤い染みに気づいた。
近づいてみると赤い染みの他にも、雪で消えかかった足跡のようなものまである。
足跡と赤い染みを辿っていくと、下水の入り口に辿り着いた。
赤い染みは奥へと続いている。
下水には一度も入ったことがない。
恐ろしかったが、なんでも好きな物を――という言葉が頭の中で蘇り、勇気を振り絞って中へ入ることにした。
風がない分、下水道は外より多少暖かかったが、澱んだ腐敗臭が漂っていて不快だった。
少しおいて、暗闇に目が慣れてくる。
外から漏れてくるわずかな光だけでも、なんとか地形を把握できた。
赤い染みは下水のさらに奥深くへ続いているようだった。
人の血を好むコキュが、赤い染みに群がっている。そこで初めて染みの正体を知った。
――血だ。
だとすれば、この血が出るほどの怪我を負った誰かは、さきほどの警備兵達の探していた人物かもしれない。
下水のさらに奥へと続く血痕を辿る。
床に落ちている血はだんだんと量が増している。
生きているとしたらかなりの重傷のはずだ。
少しすると血の跡が唐突に途切れた。
次の瞬間、突風のようなものが頭のすぐ上を物凄い速さで通り抜けた。
――なんだろう、今の。
カサリ、と服がこすれるような音が耳に届く。
「そこにだれかいるの?」
「……子供?」
暗闇に響いたのは女の声だった。
声質は高く透き通っていて、若く聞こえた。
硬い物を叩く音がして、目の前で火があがる。
小さな焚き火が闇を照らした。
焚き火の後ろには、腹を押さえてうずくまるように壁にもたれかかる者がいた。
――女の人。
女のまっすぐに伸びた黒髪が、揺れる炎に照らされて赤く染まって見える。
細目で端正な作りの顔には、脂汗がにじんでいた。
「どうしたの坊や。こんなところで」
「あ、あの――」
正直に答えることができず、咄嗟にうまい言い訳も出てこない。
「こっちにおいで。そんな格好じゃ寒いでしょ、火にあたるといい」
女の声音は穏やかで、そのせいなのか不思議と警戒心はなくなっていた。
進み出て焚き火の前に座り込む。女とは正面を向き合う位置だ。
凍えていた手を揉み込みながら火でとかした。
「坊やは何歳?」
「しらない」
「そう。まあ………見たところ六、七歳ってところかな」
「……おばちゃんは、だれ?」
問いかけにかえってきたのはゲンコツだった。
「いたッ」
「私は ま だ 二十代。お姉さんって言いなさい。もしくは、アマネさん」
アマネ、というのが女の名前らしい。
また叩かれるのは嫌なので、名前で呼ぶことにする。
「アマネさん……はどうしてこんなところにいるの?」
「仕事でね、無様に失敗してこの様」
アマネが腹に当てていた手をあげて見せると、服がびっしょりと血に濡れて赤く染まっていた。
「どんなしごと?」
数瞬ためらってから、アマネは答えた。
「ヒトゴロシ」
「えッ?」
アマネの言葉に驚いた。
冗談ではないという意思表示なのか、アマネが真剣な顔でこちらを凝視してくる。
「〈赤無しの死神〉といえば、西側ではそれなりに名前が通っているんだけど。東側の、それも坊やみたいなチビスケに言ったところで知ってるはずがないよね」
「アマネさんはつよいの?」
仕事柄、強くなければ務まるはずがない。
ろくに世間を知らない子供の自分にとっては、強い人間というのは筋肉だらけの大男くらいしか想像ができない。
そのイメージと比べると、アマネは女性らしい華奢な体躯でどこからみても人を殺して金儲けができる人間には見えなかった。
「強いよ、とってもね」
アマネは言ってから自嘲気味に笑う。
「でもこんな様じゃ説得力ないね」
「向こうのほうがつよかったの?」
言った途端、周囲の空気が変わったような気がした。
アマネの目が鋭くなり、不機嫌そうに眉をひそめる。
「ハメられたの。たいした相手ではないと聞いていたんだけど……相手は極石級の化け物だった」
「きょ、く、せき?」
「化け物みたいに強い人間のことだよ」
それからしばらく、アマネは何か考えこむように黙りこくってしまった。
焚き火の枝がはじける音だけが聞こえる。
気まずい沈黙に耐えられなくなり、自分から話題を変えた。
「さっき、兵隊がだれかさがしてたよ」
「探してるのはきっと私だね。坊やがここに来たとき、てっきりそいつらが来たのかと思って咄嗟にナイフを投げたんだけど、危うく坊やに当ててしまうところだったよ」
ここへ来て、アマネに気づく寸前に頭の上を何かが通過したことを思い出した。
一陣の突風かと思ったそれはナイフだったらしい。一歩間違えれば突き刺さっていたかもしれず、考えただけでゾッとした。
「じゃあ、さっきのは……」
「背が低かった事に感謝だね。大人だったら心臓を一突きで今頃あの世逝き」
その光景を想像して身が縮こまった。
そんな自分を見て、アマネは盛大に笑った。
「それにしても、さっきからまとわりついてくるこの虫はなに……。火で追い払ってもすぐ戻ってくるし、すばしっこくて叩く事もできないし」
アマネの周囲には無数のコキュが飛び回り、好きをみては血に染まった服に群がろうとしている。
「コキュっていうんだよ。人の血を吸うの」
「それで……こんな嫌な虫は西側にはいなかったのに」
アマネは苛立たしげな表情で、何度もコキュを手で追い払った。
だがその程度のことで血が大好物なこの虫はあきらめたりしない。
「つかまえてあげるよ」
「捕まえるって、坊や……こんなすばしっこい虫をどうやって」
集中する。
途端にコキュの姿形や飛ぶ動作を目が捉える。
飛んでいるコキュは、速すぎて虫網をつかっても捕まえるのが困難な虫だ。
だが、自分にとってはコキュが高速で移動している様子が、ゆっくりと緩慢な動きとして視認できる。
左手を伸ばして一匹、右手を伸ばして二匹。その動作を何回か繰り返して、アマネの周囲を飛び交っていたすべてのコキュを掴み殺した。
今まで何度も繰り返した事で、自分にとっては歩いたり食べたりするのと同じようにあたりまえにできる事だ。
「はい」
手のひらを広げて、握り潰したコキュをアマネに披露する。
何匹かはすでに血を吸い終えていたようで、潰れたコキュの体からアマネのものらしき血が飛び出している。
――褒めてくれるかな。
そんな打算もあったのだが、アマネはただきょとんとしているだけだった。
「いまのどうやって……」
「見て、つかまえた」
「そうじゃなくて! ろくに見ることもできないような素早い虫を、どうやったらこんなに正確に捕まえられるの?」
「よく見れば、簡単にとれるんだもん」
「よく見れば捕まえられるって、今のはそんな簡単なことじゃ―――そうだ、これ」
胸ポケットから取り出されたのは一枚の銀貨だった。
「この銀貨は西側のとある王国で昔使われてたもの。これを上にはじくから、表面にある模様がどんなのか言ってみて。正解したら良い物あげる」
「ほんと?」
「約束する。じゃ、いくよ――」
金属をはじく音がして、アマネが親指で銀貨を上にはじき上げた。
銀貨は勢いよく高速で回転して上昇していく。
虫を見る要領と同じように、集中して回転する銀貨を見る。
――見る、絶対に見える。
さらに集中を深める。
空中で高速回転する銀貨の動きは、しだいに緩慢な動きになり、表と裏の模様を確認することに成功した。
銀貨がアマネの手の中に戻った。
「さて、どう?」
「片方は小さな花びらがたくさんついた大きな木。反対側は頭が鳥みたいな四本足のどうぶつ」
「……正解。いったいどんな動体視力してるのよ」
アマネは心底感心した様子だった。
なんとなく自分がみとめられたような気がして誇らしくなる。
「ねえ、いいものくれる?」
なにをくれるのか、もしかしたら今投げた銀貨かもしれない。期待に胸が躍ったが、返事は期待していたものとは違った。
「坊や、孤児よね?」
緩慢に頷く。
「誰か面倒をみてくれてる人はいるの?」
素早く首を横に振る。
「じゃあいいか――――坊や、私と一緒に来ない?」
「え?」
「私は古い戦闘術を受け継いでいてね、それを活かして今の仕事をしているの。この技を師匠と呼べる人から仕込まれたとき、一つだけ約束させられたんだよ」
「どんなやくそく?」
「受け継ぐこと……。私が受け取ったものを、また次へ渡すことを。そして私は、次へ伝える相手にあなたを指名したい」
「どうして、ぼくに?」
「あなたのその目は尋常じゃないわ。動体視力っていってね、動いている物体を視る力をそう呼ぶの。あなたはきっと強くなる。私なんかよりずっとね」
「よく、わからない」
孤児として、ただ目的もなく生きてきた自分にとって、アマネの言ったことの意味が理解できなかった。
強くなる――そのことに意味などあるのだろうか。
たゆたう炎を見つめながら、必死に自問自答した。
「私はね、この出会いに運命を感じてる」
「うんめい……」
「初めて受けた東側の仕事で、はじめて失敗して、はじめて逃げ込んだ先で、坊やのような子と出会った。坊やは孤児で、私は受け継いだものを渡す相手を探していた。ね?」
「……わからないよ」
「じゃあ、これならどう? この話を受けてくれるなら、あなたが独り立ちできる大人になるまで家と食べ物をあげる」
我ながら現金だと思うが、このアマネの提案には心が動いた。
「ほんと?」
「本当よ。ただし、これだけは言っておくね。あなたにやってもらう稽古は、ここでこのまま孤児として一生を終えたほうがましだったと思えるくらい辛いものになる。けど、それに耐えてくれるなら、家も食べ物も、私の知りうるかぎりの教養も与えてあげる。つまり、これは契約ね」
「けい、やく……ぼくと?」
「そうよ、互いに得るものがあるのだから。坊やが約束を守ってくれれば、わたしもさっき言ったことは全部守る。そういう契約。―――返事はもらえる?」
アマネの提案をよくよく吟味してみると、ほとんど自分に得があるように思えた。
だが、フェアな条件を提示できるような立場でもなく、出口のない迷路の中にいるような孤児としての現状を思えば、アマネの申し入れを断る理由は微塵も浮かんではこなかった。
「アマネさんと、いく」
どこか不安そうな面持ちでこちらを見ていたアマネは、その言葉を聞くと花が咲いたような笑顔を見せた。
「よかった。後悔はさせないわ」
アマネは微笑んで、その場から勢いよく立ち上がった。
「アマネさん、おなかの怪我は?」
「ここに来てからすぐ血止めの塗り薬をたっぷり塗っておいたから。とっくに傷はふさがってるの」
「え? でもさっきまで」
アマネはたしかに苦しそうに腹を押さえて座り込んでいたはずだ。
「あれは演技。ああして弱っているように見せておけば、相手が油断するでしょ?」
「アマネさん、ずるい……」
「隙がない、と言ってほしいな。―――ところで、そのアマネさんってのはもうなし。今から私のことは師匠って呼ぶこと」
「ししょう?」
「そうよ。これから坊やを鍛えてあげるんだから、ケジメはつける。だから私は師匠、あなたは弟子」
「ししょう……」
師匠、という言葉を口にするだけで、奇妙な幸福感を覚えた。
ずっと孤独でいた自分に、やっと特別な関係の人間ができたからかもしれない。
「よしよし。それじゃ行きましょう」
アマネは焚き火に水をかけて消した。
こちらの手をとり、一歩を踏み出しかけたとき、不意に一時停止する。
「おっと、大事なことを聞いてなかった。――坊やの名前は?」
「しらない。ずっと一人だったから」
「なるほど…………それじゃ、坊やは今日からシュオウって名乗りなさい」
「シュオウ?」
アマネに与えられた名前は、あまり聞き慣れない響きのものだった。
「……気に入った?」
「うん!」
この瞬間、師匠であるアマネは、同時に自分にとっての名付け親にもなった。
「よしよし、素直でよろしい」
アマネが満足気に頷いた。
「でも、どうしてシュオウなの?」
「え"ッ!?」
アマネの顔が引きつった。
「えっと、まぁ、気が向いたら教えてあげる――――さぁ、追っ手に見つかっちゃう前に出発!」
ごまかすように急ぎ足になったアマネを、追及することはしなかった。
誰かに必要とされる事の嬉しさと、これからの希望に満ちあふれた人生を思うと、まるで足に羽根でもはえたのではと錯覚するほど、足取りは軽やかだ。
暗く湿っていて悪臭の漂う下水は、お世辞にも快適な場所とはいえなかったが、シュオウは今まで生きてきたなかで最も晴れやかな気分で、アマネと共に歩む人生の最初の一歩を踏み出した。
◇ ◆ ◇ ◇ ◆ ◇
十二年後
◇ ◆ ◇ ◇ ◆ ◇
深界のほとり、灰色の森。
果てしなく続く灰色の世界は、歩いているだけで気が滅入る。
遙か高くそびえたつ灰色の木々は、曇り空のわずかな光さえ遮断してしまう。
視界に広がる暗く鬱屈した世界を俯瞰した。
――空気が、重たい。
水の匂いが鼻をくすぐる。
――雨、か。
まもなく、粉のように細やかな霧雨が降り始めた。
シュオウにとって歩き慣れたこの森も、雨が降ると状況が一変する。
〈狂鬼〉と呼ばれている、凶暴な獣や虫たちが活発に食べ物をもとめて動き始めるからだ。
〔ヴォォォォォォォォォォオ!!〕
森の各所から、狂ったように猛る獣の咆哮があがった。
シュオウは灰色の大木に身を寄せ、外套で体を覆った。
草木のように自然に、そして石のように動かずに、ただ時がすぎるのを待った。
目を閉じる。
昨日から、あの時のことが繰り返し頭をよぎる。
――泣いていた。
常に飄々としていて、掴みどころのない人だった。
十二年前、偶然の出会いから共に人生を歩むことになった女性を想う。
文字を教わり、生き方を学んだ。戦い方を伝授され、強く鍛えてもらった。
師であり、恩人であり、名付け人であり、育ての親でもあったあの人を、泣かせてしまった。
『本当に行くつもり?』
『あなたにはまだ早いわ』
『傷つくにきまっている。人の世界はそんなに優しくないんだから』
『どうしてって、そんなの心配だからに決まってるじゃないッ!』
『……もういい。好きにしなさい』
冷たい風にあおられて、体がぶるりと震えた。
どのくらい時間がたったのか、今が夢か現かもはっきりしない。
落ち着いて被っていた外套をはずし、周辺を観察する。
一面の真っ暗闇。
雨はやんだようで、森は静けさを取り戻していた。
――歩こう。
この森は頑なに人が生きる事を拒絶する。
元々はこの場所も、人が住み普通に暮らしていた土地だったのだと師匠に教わった。
遙かな昔、この地に灰色の木が生えるようになった。それは時間を経るごとに少しずつ確実に数を増やし、やがて人の住む場所を奪うほど急拡大したのだという。
灰色の木は森を形成し、その森には人を襲う凶暴な生物が住み着いた。
生活の場所を追われた人々は、逃げるように山や高所に避難していくことになる。
だが奇妙なことに、灰色の木は平地より高い場所には一本も生えなかった。
こうして出来上がったのが、見えない境界線で区切られた今の世界だ。
平地は灰色の森、山や高所は人間が住まう地となった。
こうした灰色の森で覆われた世界を、人々は〈深界〉と呼び、人間の暮らす山や高所を〈上層界〉と呼んで区別していた。
灰色の森の歩き方は、子供の頃から師匠に叩き込まれている。
気配を殺し、体臭を消し、足音を封じて歩く。
十二年、そうした修練を積んだ結果、いまでは狂鬼に悟られることなく森を歩くことができるようになっていた。
健康な成人男性であっても、深界の森に入れば三十分と命を繋ぐことは難しい。
人にとって地獄に等しいこの世界を、自由に闊歩するのは容易ではない。
つねに気を配りつつ歩かなければいけないため、精神、肉体ともに疲労が激しかった。
暗い森を歩きながら、装着した革製の眼帯にさわる。
『これを持って行きなさい。その顔の痕は人里だと悪目立ちするから、できるだけ隠しておきなさい』
師匠から渡されたのは、黒革製の手作りの眼帯だった。
シュオウの顔には子供の頃から右顔面に大きな火傷の痕がある。
このおかげで皮膚が癒着して右目を開くことができず、見た目にとても醜い。
師匠から贈られた眼帯はそれをすべて覆い隠すように出来ていた。
素材は丈夫で良質な皮。シュオウの顔の形にフィットするように作られていて、眼帯というよりは仮面に近いかもしれない。
はじめ、旅立ちを反対していた師匠も、弟子の巣立ちを予想してこれを用意してくれていたのかもしれない。
唐突に森がばっさりと途切れた。
生気のない灰色の森の空気が途切れて、途端に命の息吹を強く感じる緑の自然の香りを感じる。
見上げると天にも届きそうな山々が、シュオウを威圧するかのようにそびえ立っていた。
十二年もの時をすごした灰色の森へ振り返る。
『行ってらっしゃい、シュオウ』
最後にはそう言って送り出してくれた、師であり育ての親を想いながら、深く一礼する。
――行ってきます、師匠。
目的地までは、もう目と鼻の距離だった。