安室奈美恵さんは、なんで寂しそうなのだろう。
ずっとそのことが、心に引っかかっていた。きっかけは、5年前に行った代々木体育館でのコンサート。私よりもずっと年下の、安室ファンの後輩女子に連れていってもらった。過去のヒット曲は少し、大半が最新アルバムからの曲で、ほとんど英語の歌詞だったことに驚いた。おしゃべりは一切はさまず、歌い踊る。
安室さんは30代の後半に突入しているのに、恥ずかしがり屋の少女のようにも見えた。でも歌う姿は切迫感に満ちていて、終わってみれば彼女がまとう孤独な気配が心に残り、どうしてなのだろうと思っていた。
「必ず誰かはやさしい」歌詞に救われた
デビュー25周年の昨年9月、安室さんは突然、翌年9月16日で引退すると発表した。「長年心に思い、25周年の節目に決意いたしました」というオフィシャルサイトの文章以上に、決意の理由などは語らないままだった。
そして2018年9月。安室さんが出演するテレビやラジオを、見たり聞いたりした。さっぱりとした、一人の大人がそこにいた。
肩の荷を下ろす。そんな言葉が浮かんだのは、「WE LOVE RADIO,WE LOVE AMURO NAMIE」というラジオ番組を聴いた時だった。全国101のラジオ局が安室さんの曲のリクエストを募集し、作った番組で9月8日から10日にかけて全国で放送された。たくさんのメッセージが読まれ、スタジオの安室さんが感想を語った。
最初にかかったのは「TRY ME〜私を信じて」(1995年)。「アムラーになった私の原点の曲です」というメッセージだったが、次からは「どんな時に、どんな気持ちで聞いたか」というメッセージが続いた。
撮影:今村拓馬
「進路に悩んでいる時、親友がカラオケで歌ってくれた曲」が、「Chase the Chance」(1996年)。「結婚式の入場でかけました。とにかく何か新しいことを始めなきゃと思わせてくれる曲です」は「PINK KEY」(2007年)。「もっと恵まれた境遇ならと自分を嘆きながら将来に悩んでいた19歳の時に出会い、癒やしてもらった」のが「SWEET 19 BLUES」(1996年)。
進行役の女性が「前向きになれたというメッセージが多い」と紹介すると、安室さんは「本当に本当にうれしいです」と言っていた。
番組中盤からは、歌詞に注目したメッセージが読まれた。
「『必ず誰かはやさしい』という歌詞に救われました」という「a walk in the park」(1996年)。「『膝をつくことは恥ではない』が初めて聞いた時から印象的でした」という「Fight Together」(2011年)。安室さんと同じ年に子どもを産み、育てているという女性は「シングルマザーは厳しいことが多いですが、私を励まし、強くしてくれます」と「Just You and I」(2017年)をリクエストし、「君を抱きしめられないなら、私の両手に意味はない」という歌詞にひかれると書いていた。
励まして欲しい人は増えていった
最後まで歌唱力とダンスでファンを魅了しただけでなく、「生きにくさ」を引き受けてきた。
Getty Images/Pascal Le Segretain
みんな、安室さんに肯定してもらっていたのだなあと思う。やさしい人が必ずいるから大丈夫だよ、挫折して膝をついたっていいんだよ、それから、誰かを抱きしめてあげようよ、と。
それは、生きにくさの裏返しではないだろうか。
安室さんという人は15歳でデビューしてから、ずっと日本を背負ってきたんだ。生き苦しさが増していった、日本を。そんなふうに思った。
安室さんのソロデビューは1995年。「バブル崩壊」「就職氷河期」と盛んに言われた時期と重なる。翌年には、「アムラー」という言葉が流行語大賞のトップ10に選ばれた。1977年生まれの、20歳にもならない安室奈美恵という女性は、その頃からずっと日本を背負ってきたのではないだろうか。
コンサートに行った時に実感したが、安室さんのファンは同世代だけでなく、若い世代もすごく多い。1990年代後半から、日本は「失われた10年」に突入する。励ましてほしい人は増えこそすれ、減らなかった。「失われた」のは20年だという人もいる。
笑顔で終わりたい場所は沖縄
その間、安室さんは、どんな気持ちでいたのだろう。9月10日の朝の「おはよう日本」(NHK)でのインタビューからは、安室さんのストイックな仕事ぶりの裏にある、大変な思いが伝わってきた。キーワードは故郷・沖縄だった。
9月15日、ラストステージを宜野湾コンベンションセンターに決めた理由を、こう語った。
「歌で、笑顔で終わりたいなという場所が沖縄だったのかな。笑顔で始まった場所。14歳の女の子たちが、笑顔で東京に出てきたから」
撮影:今村拓馬
そこで画面は、今年5月のVTRに変わった。県民栄誉賞を受け取る安室さん。泣いていた。
「あまり悩みとかも、人に相談したりしてこなかった。強い気持ちで東京にきて、ソロになってそれがさらに強くなった。なんかうれしかったのかなあ」
涙についてそう語り、また少し泣いた。
「デビューできたことも奇跡だったので、沖縄に帰るといろんな感情が出てしまうというか、なるべく帰らずに気を張ってやらせてもらっていた。だから県民栄誉賞の時は、わって泣いちゃった。よかったな、がんばってやって本当によかったな。初めて褒められたかな、と」
日本を励ましてきた安室奈美恵の孤独
14歳から気を張って、故郷にもあえて帰らず、褒められもせず、頑張ってきた。それが安室さんの認識だった。そんなふうにストイックに働き、ファンを日本を励まし、それがビッグビジネスになった。
アルバムに限っても300万枚突破が1枚、200万枚突破が3枚、100万枚突破が2枚ある。ファイナルツアーを映像化した「namie amuro Final Tour 2018 〜Finally〜」を8月29日に発売すると、3日で109万枚売り上げた。「音楽映像作品史上初のミリオン突破」だそうだ。
これだけのビジネスであり、それがファンへの、日本への励ましになる。大変すぎる。だって、売れることと励ますことは、必ずしも同じベクトルにあるとは限らない。
撮影:今村拓馬
売れて、励ます。励まして、売れる。そんな楽曲を送り出し続けた。強い気持ちで、人に悩みも相談せず。これを孤独と言わずして、何を孤独というのだろう。
「おはよう日本」に戻るなら、安室さんは最後にこう言っていた。
「なんかやりきったっていうのはありますね。ちゃんと悔いなく。すごくあっと言う間でした、25年間」
寂しそうな、孤独をまとった安室さんは、やっとその荷を下ろすのだ。
矢部万紀子(やべ・まきこ):1961年生まれ。コラムニスト。1983年朝日新聞社に入社、「AERA」や経済部、「週刊朝日」などに所属。「週刊朝日」で担当した松本人志著『遺書』『松本』がミリオンセラーに。「AERA」編集長代理、書籍編集部長を務めた後、2011年退社。シニア女性誌「いきいき(現「ハルメク」)」編集長に。2017年に退社し、フリーに。著書に『朝ドラには働く女子の本音が詰まってる』。