どうも、ニャン(@bridal_nai)です。
今日はなんとなく、自分語り。
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■目次
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1.はじめに
4月もね、あと1週間でおしまいですね。
あっという間です。
「もう新卒入社メンバーの退社があった!」と、ワタクシの周辺でも話題になっています。ただ、Twitterか何かの書き込みで「『逃げるは恥だか役に立つ』の反対語は、『耐えるは美徳だが無駄である』じゃないか?」というのを見たのですが、その通りかもなぁー、と思いました。
逃げるのって野生の本能なのでは。サバンナの野生動物とか、我慢や忍耐って多分無いよね。消耗してもいいことないよ。
地味に5月病って、死に至る病なのではないかとも思っています。自分に甘いだけなのかな。5月病かもと言うと「甘えだ!」と断罪されますが、環境の変化に合わせるのって大変ですよ。そんな変換期、4月。
・・・という考えていたら、自分のこれまでのことについて、ふわっと思い返す機会になりました。長い割に、あまり楽しくない思い出だったため、意図的にあまり思い返さないようにしていました。正直、逃げたところもあります。
ただ、この過去にそろそろ向き合って、前に進まなければいけないと思えるようになってきました。会社に対して、社員の仲間に対して、育てて頂いたことの感謝はあります。また、何も出来なかったことに対しての負い目など、複雑な感情が未だに入り混じっています。
まだまだ気持ちの整理に時間を要しそうです。それでも、退社しなければ、今頃、人生を送れていなかったかも。身バレがアレなので、多少フェイクを入れつつ、振り返りです。
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2.概要
私は以前、日立製作所に勤めておりました。
日立グループではなく、日立製作所。
しかし、諸々と限界に達したため、退社しました。
10年くらい前のことになります。
当時の日立製作所は「倒産か・・・?」と噂されたくらいのドン底でしたが(7000億の最終赤字など)、いまは取捨選択による経営改善が成功して大幅黒字に転じております。インフラ関連の電機設備系が好調で、連合の中では最良安定企業なのではないでしょうか。
逆に、当時液晶ディスプレイが超絶好調で、春闘の状況が本当に本当に羨ましかったシャープがこんな状況に陥るとは・・・。そんな想像、まったく出来ませんでした。まさに栄枯盛衰。
そんな日立製作所は、社員に対する待遇が以前より手厚くなっていると聞きます。高卒の給料は安かったですが、福利厚生はモノ凄かった。「本当に大企業なんだ・・・」と肌身で感じました。
それでも、退社したことに対しての後悔は一切ありません。
※まったくの余談ですが、日立って創業から100年を超える歴史に対しての自負が凄いんですが、同級生の中に実家が150年続く酒蔵がいましたので「へぇー、100年っすか」くらいの感じでした。
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3.入社の経緯
※ここから少々文体を変えますね。
私は大学に行っていない。行きたいとも思わなかった。家庭が裕福ではなく、高校を卒業したらすぐに稼ぎたかった。働きたい理由は、親に楽をさせたいというものではなかった。ギャンブル依存症気味の両親に対しては負の感情を持ち合わせている。ただただ、自分自身が今の環境から脱したいだけだった。だから入社する会社はどこでもよかった。給与さえ良ければ。
通っていた高校は地元では比較的認知されていたようで、男子の中で成績TOP3に入っていれば「JR」「電力会社」「都市ガス会社」への求人票を得ることが出来た。「求人票を得る」とは、校内選考を無条件で通過出来るという「通行手形」のようなものだった。安定した将来に対しての、1つ目の通行手形。
あくまで「入社試験のチャンスを得る」というだけで、権利を勝ち得ても他校生徒と競うことにはなる。関所は多い。それでも超就職氷河期と言われていた時期だけに、どうしてもこの求人票を得たかった。しかし、私の最終順位が4位となり、ギリギリのところで権利を逃した。当時から詰めが甘かった。
仕方なく、地銀の関連会社の入社試験を受けた。ここは親会社に当たる地銀のシステム保守などを請け負う会社で夜勤があった。そのため設定されていた基本給がズバ抜けて高かった。都合がよかった。業務内容など、どうでもよかった。その気持ちが先方にも伝わってしまったのかもしれない。
結果、落とされた。システム系(プログラミング)の知識不足も指摘された。「入社してからしっかり学ぶ」という認識が甘かった。合格した奴は通信制の情報処理講座で学んでいた。既にスタートラインが違っていた。ちなみに、その地銀は紆余曲折があり、今、三菱UFJ銀行となっている。
「もしかすると就職浪人かも」と、危機感を持った。同級生が順調に内定を貰う中で、本当に焦っていた。そんな中、偶然、日立製作所からの求人票が舞い込んだ。新規事業構築のため、四次募集として学校側へ打診があった。土壇場になってこのような求人が届くのは異例中の異例だったらしい。この時点でまだ内定を得ていない生徒は10人くらいで(ほぼ不良生徒)、その中ではダントツに成績が良かったということで簡単に校内選を通過し、求人票を頂いた。
先に内定を得ていた同級生からは「いまの内定を辞退してでも、日立製作所の募集に応募したい」という申し入れがあったことは後々知ったが、譲るつもりなどなかった。このとき「学年順位4位」が活きた。進路指導の責任者から「これ以上のチャンスは絶対に無い、必ず掴んでこい」と言われた。学校側としても目標として掲げていた「就職率98%以上」を達成したいという思惑があったように思う。当時の自分には本当に有難かった。
入社試験は日立製作所の支社で行われた。1時間ほど電車に乗って、会場(支社)へ向かった。その日、初めて地下鉄に乗った。
しかし周辺までは来ていると思うものの、道に迷ってしまった。いまでこそスマホで簡単に検索が出来るが、教師が用意してくれた手書きの地図では辿り着けなかった。携帯は持っておらず、連絡しようにも公衆電話が見当たらない。そもそも交番はどこにあるのか。泣きそうだった。
試験開始の時間が迫る中、勇気を出して横断歩道前のサラリーマン(40代くらい)に道を訪ねた。そして発せられた言葉に驚いた。「俺、そこの社員だよ。一緒に行こうか。」
本当に奇跡だと思った。入社してから分かったが、その支社には関連会社の社員を含めて500名ほどが勤務していた。そでれも、数万人が通勤のため往来する大都市の中で、いまから入社試験を受けに行く会社の社員に巡り会えたことの奇跡を、縁を、本当に強く感じた。
その男性と一緒に向かわせて頂き、ギリギリ間に合うことが出来た。試験会場(会社)へ向かう途中、緊張して何も話せなかった。せめて名前だけでも伺うべきだったと後悔している。結局、入社後に見つけることも出来なかった。この人の存在が無ければ人生が大きく変わっていたかもしれない。以降、どんなに忙しくても道を尋ねられた際には必ず誠実に対応するように心掛けており、今も継続している。
会場に到着すると、10名くらいの高校生が集められていた。筆記試験(一般常識)と面接を行うと説明があった。自分としてはもう後がなく、それなりに試験に備えていたつもりだった。そして、筆記試験の1問目。
「日立の製品を3つ書きなさい」
えっ・・・!?
大企業の一般常識試験ってこんなのなのか・・・?
ひっかけ・・・?
何か別の思惑がある・・・?
パニックに陥りながらも「白くまくん」書いたことを覚えている。改めて思うと、日立製作所(日立グループ)の主な売上構成は何で成り立っているのかを理解しているかどうか、確認するための問いだったのかもしれない。
ちなみに、家電製品の締める割合はそこまで大きくない。日立製作所が「電機」の会社であったことは、入社してから学ぶことになる。
筆記試験で出鼻を挫かれたことにより、面接も相当動揺した。「絶対に落ちた」と思った。それでも内定を頂いた。世の中、何が起こるかわからないものだと思った。
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4.入社が決まって
会社には独身寮が用意されており、実家を出て入寮することにした。いまの環境を変えたかった。引っ越しは親父が会社から小型トラックを借りて手伝ってくれた。そして、会社の作業服を着ていた。独身寮に到着したところ、後に同期となる男が両親と共に挨拶へ来ていた。大手の引っ越し会社が手際よく荷物を搬入している横で、ビシッとスーツを着た父親と思われる男性が寮長と談笑していた。それを見た父親が「おれのことは業者の男だと伝えろ」と言った。切なくなった。
日立製作所は「本社採用」と「支社採用」の2種類があった。本社は主に新卒大学生採用、支社は高卒採用という感じだった。その年に入社した新入社員のほとんどが本社採用の大学卒だった。出身校も国立大学や有名私立大学ばかりで、その中に田舎の高校出身者が混じっているのは異色の光景だった。
この本社採用された大学卒たちは「最低限の英語は出来て当たり前で(TOEIC600点以上は求められていた)、第二外国語は何が出来ますか?」というレベルだったらしい。今後の海外戦略を見据えての採用基準だと説明された。
そんな中「教科の中では国語が最も苦手で、日本語すら怪しいです、漢字もよく間違えます、すみません」状態で入社した自分は相当目立ってしまった。
そんな高卒がエリートたちに混じって新入社員研修を受けているため、悪気無く「どんなコネを使ったのか?」「何か秀でたスーパースキルを持っていないとおかしい」と噂された。んなもん、私が知りたい。でも、なんか、すみません。
それだけ、日立製作所へ入社するということのハードルが高かったんだと思う。望んで入社したものの「本当に入社してよかったのか?」と不安になった。
日立製作所としては、これまでの売上構成比を「電機」から「情報(IT分野)」へ寄せたいという思惑があった。電機については「発電機」から成長した会社ということもあり、大きなシェアを握っていた。
そして、電力や交通、公共事業、自動車関連などインフラ系を得意としていた。しかし、これからのIT時代を見据え、多額の投資を行ったとしても情報産業分野へ参入するのだと、毎期の経営計画発表で何度も説明された。
そのとき明確に「日本電気(NEC)の牙城を崩せ」と指示されたことを覚えている。
てっきり、どこかの工場でライン作業をするもんだと思っていた自分が、この「今後の主戦場だ」と明言されている情報部門へ配属されるとは、夢にも思っていなかった。「人選ミスでは・・・?」と人事担当に言ってみたこともあったくらいだ。
IT分野の知識が乏しいだけでなく、一般常識から学ぶ必要があった。当時の教育担当は相当苦労したと思う。つい最近まで高校生だった無知な若造を預かるというプレッシャー。いまなら理解出来る。
それでも、懸命に働いた。4年間は本当に苦しかった。担当している部門では3000万円/月の予算を与えられ、300万円/件以下の案件は「ゴミ」と呼ばれた。
1案件の事業規模が大きく、しかも競合他社(NEC、IBM、東芝、三菱、富士通、NTTデータなど)が強く、プレッシャーに潰されそうになった。徹夜なんて当たり前。繁忙期は会社に連泊した。それでも頑張った。
何が凄いかというと、若手だけでなく管理職もハンパなく残業していた。家庭を顧みず、ただ働いていた。最初は「家族がかわいそうだ」と思っていたが、感覚が麻痺し「そーゆーもんだ」と捉えるようになっていた。家庭と仕事の両立など無理だと感じた。
特に大学へ進学した同級生たちはに負けたくなかった。そして、その進学した同級生たちが卒業を間近としたとき、就職活動に苦戦する姿を見て「自分の選択は間違っていなかった」と思った。そう思いたかったからこそ、頑張れたのかもしれない。それをモチベーションにしなければ働けないくらい消耗していた。
※繁忙期は、連日、終電に滑り込むように駆け込んでいた。ある日、グッタリ疲れて終電の電車に座っていたら、目の前にランドセルを背負った小学生が座っており、計算ドリルをやっていて「大都会、こわい」と思った。
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5.違和感
一通りの仕事を覚え、一定の裁量を持たせて頂けるようになった頃から、「日立製作所」という会社に対して違和感を感じるようになった。
まず、企業規模が大き過ぎて、地方の支社の営業担当(ヒラ)が何を言っても無駄だった。顧客意向に応えるための製品開発について稟議依頼を行っても、部署内で判断され、支社内で審議され、事業部で検討され、本社で否決。ここまでに3ヶ月とか当たり前だった。当然、顧客の熱量も冷めており失注した。幾度となく「現場判断させて欲しい」と申し入れを行ったが、結局受け入れられることはなかった。
当然、そんなことを全国の営業担当が言い出したらキリがないということも理解出来る。ただ物足りなさを感じた。踊る大捜査線の「組織を変えたければ偉くなれ(うろ覚え)」という言葉が頭の中を巡っていたが、この大組織の中で自分は何が出来るのか考えても答えは出なかった。
何かのタイミングで支社長と食事を御一緒させて頂く機会があったのだが、「日立製作所の支社長は、日立グループの序列だと500位タイくらい」という言葉が印象的だった。
働く中で、業界の汚れたところも見させられた。退職間際に「基本と正道」という行動規範が発表され、全社的にコンプライアンスに対して厳しく取り締まることにはなっていた。しかし「談合」と「癒着」はなかなか払拭出来なかったように思う。
忘れられない事案が1つある。
とある公共案件が入札になった。ウチは本命案件ではなかったので「辞退」という方針を決めた。入札日当日、開場前のベンチでその入札に参加するであろう会社の営業担当数名が「ウチはパトカーにしたから」「では救急車にします」という会話をしていた。
「競合先と一緒にいるだけでも疑われるぞ」と、脇の甘いその営業たちに呆れていた。会話の内容が何のことなのか考えながら。その意味が分かったのはその直後だった。入札結果が「1億1千万円(110,000,000円)」だった。談合。そして、その落札した会社は日立のグループ会社だった。
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6.退職
最終的に退社を決める決定打となったのは「旧首都高速道路公団が発注するトンネル換気設備工事」で日立製作所が談合認定されたことだった。別拠点の問題であるものの、これにより全国一斉に「指名停止」という事態に陥った。
5年間、ずっと追い掛けていた案件が、プロポーザル含めて参加すること自体を禁止された。意味がわからなかった。他拠点の問題なのに。案件の事業規模は30億円程度だった。その案件以降にも大型案件が控えていた。
この数年、自分が何をしてきたのか、わからなくなった。全てが一瞬にして消し飛んだ。
全てがどうでもよくなり、地下鉄に飛び込もうとした。地下鉄のホームの端で、タイミングを見計らっていた。恐らく5時間くらい、ホームのベンチに座り、行き交う地下鉄だけを見ていた。泣けてきた。本当に、何もかも、どうでもよくなっていた。
少し落ち着いた後、「何故、自分が自殺しなければいけないのか」と怒りがこみ上げてきた。その選択肢を選ぼうとした自分自身に対して。そして「おれは今日、死んだ」と決めた。だからこそ、やりたいことをしようと退社を決意した。その日のうちに退社の意向を伝え、2ヶ月の残休消化の後、日立製作所を退社した。
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冒頭の通り、日立製作所に対して恨みなどは一切無い。感謝している。未だに電化製品は日立で揃えている。自分が組織に合わせられなかったのだと思っている。日立製作所だからこそ経験できたことも多数ある。それでもストレスからは開放され、精神的に追い詰められることはなくなった。
電通の女性社員過労自殺問題は、凄く身近に感じられるもので、自分もそうなっていてもおかしくはなかったと思える。指名停止の件が無くとも、様々なものが摩耗している実感はあった。実力不足で入社してしまったが故に、もがき苦しんだ。
それでも、「いま、おれはぬるま湯に浸かっていないか?」と自問自答することがよくある。自身に対する負荷が感じられず、生産性も高まっていない。自発性に掛けているのかもしれない。
今年で36歳になるが、ネットを見渡すと、自身よりも一回りも年下の方々が輝かしく働いている姿を公開している。虚構なのかもしれない。それでも羨ましさを感じる。環境を変えただけで、自分は挑戦は何も出来ていない。
いま改めて、日立製作所を辞めたときの気持ちを思い出し、行動していきたい。
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最後に「退職レビューのお約束」ということで、Amazonのウイッシュリストを・・・。是非ともお願い致します。 励みになります。
では!