【1】
リ・エスティーゼ王国の王都に夜の帳が下りていた。辣腕を振るう皇帝により区画整理されたバハルス帝国の帝都とは異なり、猥雑な古色蒼然とした街並みは深い闇をも包含する。人々は自らがその毒牙にかからぬよう眼を背けているが、それが緩慢な滅びへの道だとは気づいていない。
八本指――王国を蝕む巨大な犯罪組織はそう呼ばれていた。奴隷売買、暗殺、密輸、窃盗、麻薬取引、警備、金融、賭博の八つの分野が緩やかな連携を取る組織連合だ。その呼称は、四大神の一柱たる土神の従属神、『盗みの神』の指が八本であることに因んだものとされる。
彼らは貴族や官憲と深く癒着しており、告発しても証拠を揉み消される可能性が高い。よしんば司法から有罪を引き出しても、幹部級は保釈金で解放されるのが関の山だった。それゆえ、心ある者の多くがその存在を知りながら、容易には手を出せずにいる。
その八本指の警備部門本部が王都の一角にあった。警備部門は他の部門への用心棒の派遣を生業とする。無論、各部門にも腕の立つ者はいるが、この世界には多少強い程度では太刀打ちできない猛者が存在した。そうした手合いを相手取るときに声がかかる少数精鋭の実力者集団。中でも飛び抜けた強さを誇る二名は『両腕』と称され、裏の業界の者に恐れられていた。
だが、それも今日で終わるかもしれない。これから行われる試験の結果次第で、腕が一本増えて『両腕』は『三腕』になるのだから。
「エドストレーム、準備はいいか?」
禿頭の大男の言葉に応え、女性が黙って頷いた。敷地内の中庭に設けられた訓練用の広場で、篝火が彼女にゆらゆらと陰影を投げかけている。
照らし出されるその姿は、流れるような銀髪を後ろでまとめ、切れ長の眼元も涼しげなやや面長の美貌。薄衣を纏い、惜しげなく晒された褐色の柔肌は瑞々しく、二十歳にも満たぬ若さながら、艶然とした雰囲気を醸し出すその様は、男に劣情を抱かせるに十分だ。しかし、腰に佩いた6本の三日月刀がそれを拒絶する。
エドストレームと呼ばれた女の他にその場にいるのは、彼女に声をかけた巌のような男と、貴族が夜会で着るような煌びやかな衣装に身を包んだ優男のみ。そして、この二人の男こそが泣く子も黙る『両腕』だった。
警備部門の長にして、王国最強の戦士ガゼフ・ストロノーフにも匹敵すると言われる修行僧、『闘鬼』ゼロ。かすり傷さえ致命傷となる魔剣の薔薇の刺を得物とし、神速の突きを放つ決闘士、『千殺』マルムヴィスト。新たな『腕』の候補たるエドストレームに相対するのは、正統派剣士のマルムヴィストの方だ。
「試験は真剣で行う。とはいえ、相手を殺すのは御法度だ。過失で死なせるような間抜けも『腕』を名乗ることは許さん。マルムヴィスト、お前も例外ではないぞ」
「わかってるよ、頭目。そのために普通の刺突剣を持ってきたんだ」
マルムヴィストは護 拳に通した指を支点とし、器用に剣を回転させた。愛剣の薔薇の刺でないのは、当たれば致死性の凶悪な武器を使うわけにはいかないからだ。
「エドストレーム、あんたはもちろん魔法付与された武器を使って構わない。そうでないと意味がないからな。だろ? 『踊る三日月刀』」
エドストレームは返事をする代わりに得物を抜き放ち、前方に放り投げる。腕に通した金属の輪がしゃらんと鳴り、それに応えるように三日月刀が空中で止まった。〈舞踊〉が魔法付与された武器を自由自在に動かし、敵を翻弄する――彼女の二つ名の由縁だ。
「始めろ」
ゼロの宣言に従い、エドストレームが剣の一本を一直線に射出した。マルムヴィストは難なくそれを打ち払い、計五本の三日月刀を浮遊させた女を睨みつける。この程度の操作は誰にでもできることで、彼女にとっては小手調べとも言える初撃だろう。優男からすれば、例え挑発だとしても、その上から見下すような態度が気に食わない。
マルムヴィストは刺突剣を構えてゆっくりと前進した。一気に間合いを詰めることも可能だが、それではまるで自分が格下のようだ。少しずつ相手を追い詰め、止めを刺すのが強者の正しい在り方。そう彼は自分に言い聞かせ、優雅な足取りでエドストレームに近づいていく。彼女は動かず、三本の剣を前後から斬りかからせた。
先の直線的な軌道とは異なる変幻自在の剣捌きに、マルムヴィストは舌を巻く。しかも、それが同時に三本。手練の剣士三人を相手にしているに等しく、あまつさえ反撃もできぬ状況では、防戦一方とならざるを得ない。
これこそがエドストレームの真骨頂だ。類い稀な空間把握能力と並列思考により、普通の者であれば持て余す〈舞踊〉の武器を、五本まで己が手中にあるが如く操ることができる。もはやその脳力は生まれながらの異能と言っても差し支えない段階にまで達していた。
堪らず後退したマルムヴィストは、それまでの認識を改める。相手はまだ自身が手に持つものを含め、三本の三日月刀を余力として残している。わざわざ剣の結界の中を悠長に進むのは愚策としか言いようがない。接近戦に活路を見出す他ない彼にとって、やはり最大瞬間速度で肉薄することこそ取るべき道だった。
――〈超回避〉、〈能力向上〉、〈能力超向上〉――
重ね合わせた武技により、マルムヴィストの身体から湯気のようなものが立ち昇る。人類の切り札とされるアダマンタイト級冒険者に比肩する『両腕』が一人、『千殺』の姿がそこにあった。
――〈能力向上〉、〈知覚強化〉、〈可能性知覚〉――
対するエドストレームも武技を発動する。瞬きもせず観察するゼロは、両者から放たれる異様な威圧感に動ずることもなく、次の瞬間には勝負が決まるだろう、と冷静に判断していた。
嵐の前の静けさを破り、マルムヴィストが大地を蹴る。視認不能の速度で駆け抜けているはずの男を、エドストレームは眼で追うことができた。四本の三日月刀を用いて獲物を網の目に捉えようとする。しかし――
「〈流水加速〉!」
更に速度を増したマルムヴィストが包囲網を脱した。一気に詰め寄り、自らが最も得意とする全身全霊の刺突を放つ。
「〈穿撃〉!」
武技が上乗せされたそれは正に神速の突き。狙うはエドストレームの肩口だ。例え防御系の武技を用いても、素肌の彼女では焼け石に水だろう。武器で捌こうにも、今からでは間に合わない。そう、あらかじめわかっていなければ。
「〈要塞〉」
強度を上げた三日月刀が横から寸分違わぬ精度で刺突剣を弾いた。マルムヴィストは舌打ちして得物を引き戻すが、首元に刃が当てられているのに気づき、おとなしく剣を手から離す。
この戦いで、エドストレームが初めて自分の身体を動かした瞬間だった。
「無様だな、マルムヴィスト」
ゼロが腕を組んだまま不動の姿勢で嘲りの言葉を吐く。だが、その内容に反して負の感情は込もっていない。勝利の女神がどちらに微笑んでもおかしくなかったことを彼は知っているからだ。
傍から見ればエドストレームの圧勝に見えたかもしれないが、最後の攻防は〈可能性知覚〉によって辛うじて防いだもの。一撃通ればマルムヴィストが彼女を降していただろう。
「勘弁してくれよ、頭目。この女とは相性最悪なんだ。逆に、こいつが苦手とする相手を俺が楽に倒せる場合もあるだろうね」
「それはそうだ。エドストレーム、お前の戦い方は魔法詠唱者の範囲攻撃や、三日月刀を物ともしない重戦士には弱い。対策を考えておけ」
そう言い残して立ち去ろうとするゼロの背中に、エドストレームが慌てて声をかける。
「それで、合否はどうなの?」
「馬鹿を言うな、合格に決まっている。今日からお前は『三腕』の一人だ」
【2】
警備部門本部は石造りの無骨な建物だ。所属する者たちの個室を除けば、食堂や共同浴場といった必要な施設しか存在せず、娯楽の類は一切ない。それは修行僧であるゼロの性格を反映したもので、浮ついたものは徹底的に排除されていた。彼らの質実な共同生活は、ある意味において修道院と比較され得るかもしれない。
裏の世界で巨万の富を稼ぎ出す犯罪者集団にしては、あまりに慎ましい。しかし、武器庫に所蔵される魔法道具を見る者が見れば、眼が飛び出るほどの財産を有していることがわかるだろう。彼らの金の使い道はそういうところにあった。
当然、エドストレームが以前より等級の高い部屋を割り当てられたといっても、多少広くなったくらいで、豪奢な調度が置かれているわけでもない。彼女はあまり多くもない私物を荷物袋に入れ、引越し作業を行っていた。
大方の荷物を運び終わったエドストレームは、寝台に身を投げ出して仰向けになる。ぼんやりと天井を見つめ、しばらくしてから身を起こした。脇 机に眼をやり、置いてある本を手に取って愛おしそうに表紙を撫でる。彼女は字を読むことはできないが、日に一度はパラパラと本を捲るのが日課になっている。
この本に物質的な意味で執着はない。だが、この本に書かれている十三英雄の物語は、彼女にとって片時も忘れぬ大切な人との思い出を彩る背景だった。彼の面影が色褪せるのを恐れるように、本を手に過去へと想いを馳せる。
エドストレームは娼婦の娘だ。当然、父親はどこの誰とも知れない。彼女が子供の頃、娼婦としての暮らしに嫌気が差した母に連れられ、定住の地を求めて当て所ない放浪の旅に出たことがあった。どの村でも白い眼を向けられ、母と共に追い立てられた少女が次第に心を閉ざしていったのは致し方のないことだ。
そんなときにエドストレームは彼と出会った。屈託ない笑顔を浮かべ、彼女を誘ってくれた。昼も夜も一緒に過ごし、温もりを与えてくれた。大人にせがんで英雄譚を聞かせてくれた。灰色の世界は後退し、視界が一挙に色鮮やかとなった。彼は彼女よりいくつか年下だったが、そんなことは気にせず犬のように甘えた。
だが、それも数日のことだ。世界は再び灰色に染まり、エドストレームは王都で生活するようになる。母は娼婦に戻り、やがて梅毒を患った。その看病のために働き始め、彼に捧げるつもりだった純潔は早々に散った。彼女はその日、彼との幸せな結婚生活というささやかな夢を打ち砕かれ、一晩中泣き続けた。母と同じ末路が待っているのかと思うと、絶望に打ちひしがれた。
不幸中の幸いと言うべきか、人として壊れる前に才能を見出されたエドストレームは、最低の境遇から抜け出すことに成功する。自分を救ってくれた男――ゼロから、彼女の意思で思うがままに動く不思議な剣を与えられ、戦いの手ほどきを受けた。厳しい訓練だったが、他人の玩具にされるのではなく、他人を玩具にすることは、彼女に昏い喜びを覚えさせた。いつしか、彼女は周囲から『踊る三日月刀』と呼ばれ、凄腕の剣士として恐れられるようになった。
母が亡くなったとき、エドストレームは王都に自分を縛り付けるものがもはや何もないことに気づいた。すぐに思い浮かんだのは、かつての彼の優しい笑顔。居ても立ってもいられなくなった彼女は、書置きも残さず王都を発ち、僅かな記憶を頼りに彼との思い出が詰まった村へ向かった。
何とか辿り着いた村では、彼が変わることなく両親と生活していた。逞しくなったその姿がエドストレームの胸を締め付けた。すぐにでも彼に駆け寄りたかったが、汚れてしまった自分を見られるのが急に恐ろしくなり、結局は遠目に彼を確認しただけで村を後にした。
憔悴しきった表情で戻ってきたエドストレームを見て、ゼロは微かに笑った。お前の居場所はここしかないのだ、とその顔は語っていた。自分は彼に相応しくない。きっと彼も自分のことを忘れてしまっているだろう。せめて彼が幸せになってくれれば――
エドストレームはそこまで考えて我に返った。頬を伝って落ちた涙が、本の表紙に染みを作っている。毎日飽きもせずよくもまあ同じことを繰り返すものだ、と自分が嫌になった。だが、それこそが彼への想いを、自らの生きる支えを失っていないことの証左だ。
彼女は本を置いて再び寝台に横たわると、微笑を浮かべながら呟く。
「ペテルくん、元気にしているかしら?」