【1】
暗い森の中を一団の影が動いていた。丈高い橅の木が密生しているため陽の光は乏しいにも拘らず、彼らは苦もなく下生えを踏破していく。影の正体は、人間と蟇蛙の合いの子を戯 画にしたような怪 物――小鬼だ。
彼らは夜眼が利く。それは小鬼が捕食者、あるいは略奪者として運命づけられた種だからかもしれない。無論、まったく光源のない場所では何も見えないが、人間と比べて遥かに少ない光量で周囲を視認することができた。この程度の暗さは彼らにとって何ら障害にならない。しかし、強行軍でここまで来た反動からか、その足取りは重い。
この小鬼たちは森での生存競争に敗れた群れだった。塒を追い出された彼らは、活路を求めて歩を進める。人間の子供くらいの身長の小鬼の中で、一際体格の優れた一体が怒りで顔を歪めた。
首領の彼は思う――あまりにも理不尽だ、と。
奪うことは当然でも、奪われることを当然だとは感じない。別に小鬼に限らず、略奪者とはそういうものだ。そして、死ぬまで奪い続ける。彼は奪う立場に復帰するためにどうすべきか考えた。
もはや生まれ故郷たるこのトブの大森林に居場所はない。不本意だが、平野を抜けて別の森に移動するしかないだろう。平野は人間という種族の領域とはいえ、奴らは何が楽しいのか土弄りばかりしていて、そのほとんどが戦うこともできない臆病者だ。一部に強い人間もいるが、大抵は用心棒に任せれば事足りる。
彼が後ろを振り返ると、小鬼とは比ぶべくもない巨軀の食人鬼が付き従っているのが見えた。三メートルに及ぼうかという身体を猫背にして、地面に付きそうなほどの長く逞しい腕の先、手にはゴツゴツとした棍棒を握りしめている。毛の抜けた大猩々のような容貌だが、凶暴な顔つきは怪 物そのものだ。
このように小鬼と食人鬼が共生関係になることは珍しくない。小鬼は怠惰な食人鬼に食料を提供し、食人鬼はその腕っぷしで小鬼の安全を保証する。上下関係は特になく、雇用者がよほど無茶を言わなければ被雇用者は従った。
彼が満足げに頷く頃には、周りの樹木も疎らになっていた。忌々しい日差しに眼を焼かれて舌打ちするが、しばらくは太陽の直下で行動することになる。今のうちに慣れるしかないだろう。
やがて灌木を抜けて視界が開けると、人間の集落が近くにあることがわかった。手始めにあの村を襲撃し、食料を奪って英気を養うべきか、と彼が考えていたのも束の間、件の村から甲高い鐘の音が聞こえてきた。
――見つかった? 反応が早すぎる。奴らは呑気に地面を耕し、不意を突かれて驚いた次の瞬間には息絶えているはずの連中だ。そんなことはありえない。
頭を振って気を落ち着かせた彼は、仲間たちに前進を命じた。しかし、近づくにつれて武装した人間が集まってきているのを認め、先の懸念が勘違いでないことに気づかされる。村を囲むように設置された防護柵の後ろで待ち構える人間たちは、まるで訓練された兵士のようだ。
心配はいらない。いくら集まっところで、人間如き少し脅してやれば蜘蛛の子を散らすように逃げ出すだろう。それよりも問題なのは、同胞の進行の妨げになる柵だ。あれは用心棒に破壊させなければならない。
彼は食人鬼を先行させ、他の小鬼と共に少し遅れる形で村に接近した。食人鬼の姿を見た人間たちの間でどよめきが起こる。やはり烏合の衆、一押しすれば造作もない。彼が口角を上げたのと、かけ声とともに弓矢が射られたのは同時だった。一斉に飛来した矢の内の何本かが食人鬼に突き刺さり、巨体が苦痛に呻いて歩みを止める。
弓矢! 彼に初めて衝撃が走った。訓練された者でなければ使いこなせる武器ではない。それが何人もいる。撤退すべきか? いや、どこに逃げるというのだ。生き残るためには、ここで勝利して食料と休息を得る他に道がないではないか。
突っ立っていても良い的にしかならないと、彼は突撃を敢行した。矢を掻い潜った仲間たちが柵に取り付きよじ登ろうとするが、隙間から突き出された槍に臓腑を抉られ、次々と屠られていく。こんなはずでは――、頭を真っ白にしている彼の耳に、人間の怒鳴り声が届いた。
「ペテル、無茶をするな! 戻ってこい!」
彼には確かにそう聞こえた。言語体系のまったく異なる人間の言葉を理解したのだ。だが、彼に驚きはない。この世界では当たり前のことだから。かつてこの世に降臨した神の一柱は、この現象を『翻訳蒟蒻』と呼んだが、神を信じぬ小鬼の彼には知る由もない。
見れば、一人の人間が柵を乗り越えて彼の前に立っていた。事ここに至っては是非もなし、この人間の雄を道連れにして自らの矜持としよう。
小鬼にしては珍しく武人気質の彼が得物を構える。無造作に近づいてくる愚かな人間に嘲笑を浮かべ、両手で持った蛮刀を振り抜いた。相手は上質な革鎧に身を包んでいるが、例え切り裂くことはできなくとも、打撃力で骨と内臓を粉砕することは間違いない。しかし――
「〈要塞〉!」
相対する人間がそう叫ぶと、渾身の力で叩きつけたはずの蛮刀が硬質な音を立てて跳ね返った。彼は何が起きたかわからず、体勢を崩してたたらを踏む。刹那、裂帛の気合を込めた雄叫びが聞こえたかと思うと、そこで意識が途絶えた。
【2】
「馬鹿者! なぜ柵を越えて突っ込んだ!」
雷鳴のような声が轟き、拳を叩きつけられた卓が大きく揺れた。声の主――ギグ・モークは、鍛え上げられた鋼のような身体をわなわなと震わせ、眼の前にいる自分の息子を睨みつける。その突き刺すような視線に晒されながらも、ペテルは臆することなく溜め息を吐いた。
「食人鬼は狩猟組の母さんやカノンさんたちの弓矢で倒せそうでしたし、他の小鬼は自警団のギランさんとルッチさんを中心とした槍衾の餌食になっていました。首領らしき小鬼が逃げ出しては困ると思っただけです」
「口だけは達者になったな!」
「私も十六歳の成人を迎えたんですから、一人の戦士として扱ってください。武技も使えるようになったじゃないですか」
ギグは眉を顰め、まじまじとペテルを見つめた。金髪碧眼、これといった特徴もない容貌だが、比較的整った穏やかな顔立ちはどちらかというと母親のレイラ似だ。
それでいて、父親のギグの才能を受け継いだ戦士としての技量は父に迫るほどであり、既に武技――戦士が使う魔法とも呼ばれる不思議な力を持った技も習得していた。ペテルが使用できる〈要塞〉は、短い時間ではあるものの自分自身や装備の強度を飛躍的に高めることが可能だ。
客観的に見て、この村では自警団の団長であるギグの次に強いのがペテルであることは間違いないだろう。だが、それゆえの慢心が先の行動や無鉄砲な決意につながったとギグは考えていた。
「それで……、本当に明日出ていく気か」
ぼそりと呟かれたギグの言葉は、確認というより諦観を伴う独白に近い。何度も翻意を促したが、ペテルの固い決心が揺らぐことはなかった。こんなことなら、幼い息子に成人になるまで我慢しろなどと言うべきではなかった、と今更ながらギグは後悔する。
ペテルは子供の頃からの夢――冒険者になるために故郷の村を離れるつもりだった。随分前から宣言されていたことなので、村の住民に驚く者はもはやいない。今回の怪 物の襲撃騒ぎで延期になる可能性もあったが、幸いにも被害は軽微なため、わざわざ計画を変更するまでもなかった。
「はい、予定どおりエ・ランテルに向けて出立しようと思います。村長に挨拶しておきたいので、これで失礼します」
ペテルはそう言い残し、「まだ話は終わっていないぞ!」と呼び止めるギグを無視して自宅を出た。今まで何度も繰り返されたやりとりで時間を潰す気は毛頭ない。
彼とて、冒険者になることを両親が快く思わないのは理解できる。冒険者は明日の命をも知れぬ危険な職業、諸手を挙げて賛成する親なぞどこにいようか。それでも、ペテルにはその反対を押し切るだけの熱意があった。その源泉は、これから向かう村長宅にある。
【3】
ここザリア村は、リ・エスティーゼ王国のレエブン侯領にある開拓村の一つだ。今の村長が旗振り役となって入植したのが約二十年前、まだ成立したばかりの新しい村落と言える。それでも、村人の努力で今や百世帯ほどが生活する規模にまで発展していた。
村は主穀――納税用の小麦や主食となるライ麦等――の収穫を終えたばかりで、落ち穂拾い、脱穀、干し草作りに忙しい。男はもちろん、女子供も駆り出しての過酷な作業だ。しかし、王国の他の農村に比べて恵まれているのは、男手がきちんと確保されている点だろう。
毎年、隣国のバハルス帝国が収穫期になると軍を動かすため、多くの村は徴兵で働き盛りの男性を失う。専業兵士で構成される帝国とは異なり、徴兵制の王国にとってこの時期の戦争は生産力に直結する。ここ数年それが繰り返された結果、収穫量の低下により廃村に追い込まれたところも少なくないという。
幸いなことにザリア村は徴兵を免れていた。レエブン侯がトブの大森林に接する領内の開拓村に兵役の免除を特権として付与しているからだ。
通常、開拓村は森を伐採して地味豊かな腐葉土を耕地とする目的で作られる。だが、怪 物が跳梁跋扈するトブの大森林を開拓するのはあまりにも危険であり、むしろ侯は開拓村に防波堤としての役割を期待した。それゆえ、兵役を免除する代わりに独力での防衛を求めたのだ。
村の構造にもそれが反映されていた。中心地から環状に耕地が広がるのではなく、怪 物の襲撃に備えて森側に防衛施設等が集中し、後背の耕地を守る形になっている。
無論、普段から人里近い矮林に怪 物が出没するわけではない。村人が資材を求めて木を伐採するし、豚を放牧して団栗を食べさせもする。たまにその内の数匹が攫われることはあるが、必要経費として割り切っていた。
恐ろしいのは森の中で縄張り争いに敗れて集団で移動してきた怪 物で、彼らは失うものがないため、森の外にも平気で姿を現し、人間の村を略奪しようとする。ザリア村が半農半兵の体制を敷いているのも、そうした群れが攻めてきたときに総出で対応することを想定してのものだった。
いざ戦闘となれば、防衛の中心となるのは自警団だ。彼らは平時も専ら村人の訓練指導や警邏を務めとしており、生産活動には従事しない。ギグの息子であるペテルも同様の扱いを受けているので、冒険者になるための鍛錬や勉学に多くの時間を費やすことができた。
恵まれた環境で育った、とペテルは思う。それもこれも両親のおかげだが、恩を仇で返す形になってしまったことが、彼の表情を曇らせた。
上の空で村長宅の前まで来たペテルの側を、子供たちが木の枝を武器に見立て、チャンバラをしながら無邪気に駆け抜けていく。かつての自分を思い出し、微笑を浮かべてそれを見送ると、眼の前の扉を叩いた。
しばらくして戸口に顔を出した夫人によると、村長は怪 物との戦闘で傷を負った村人を見舞っている最中だという。ペテルはひとまず中に通してもらい、その帰りを待つことにする。
村長宅を訪れるのは彼にとって珍しいことではない。文字の読み書きを教えてもらうために幼少の頃より頻繁に通っていたからだ。最初は村に唯一存在する本――十三英雄の物語を読みたいという子供心から始まった手習いは、途中から冒険者になるうえで必要だからという、より現実的な要求で行われるようになった。
かつて村の危機を救った冒険者の一行、『守護の聖剣』の構成員であるロックマイアーが、文字の読み書きの重要性を教えてくれたのがきっかけだ。それ以来、ペテルは村で最も勉強熱心な人間と言われてきたが、それももうすぐ過去の話になるだろう。
手持ち無沙汰のペテルは、棚に置かれた十三英雄の本を取り出した。何度も繰り返し手に取られたその本は、ところどころ破けていたり、汚れで読みにくくなった箇所が見受けられる。それでも、彼は欠損部分の文章を諳んじるほどに読み込んでいたため、別に支障を感じることはない。
二百年ほど前にこの世を恐怖に陥れた魔神に立ち向かい、世界を救った英雄たち。その中でも中心となった人物は、最初こそ脆弱だったものの、成長することで最終的には他の誰よりも強くなったと伝わっている。ペテルはその英雄に自分を重ね合わせ、いつか自分も英雄になる日を夢見た。それは今も変わることなく、彼を冒険者の道へと誘っている。そしてもう一つ――
「ペ、ペテルくん、ここにいたんだね」
感傷に浸るペテルの背に不意に声がかけられ、振り返ると、彼の幼馴染であるモーゼが後ろに立っていた。小太りの身体を揺らしながら、いつものおどおどした様子でペテルに近づいてくる。
「モーゼ、何か用かい?」
「べ、別に用はないんだけど……、ペテルくんと話せるのも今日が最後だな、と思って。ギグさんから居場所を聞いて会いに来たんだ」
モーゼが気恥ずかしげに頭を掻いた。それから、ペテルが持っている本に気づき、懐かしそうに頬を緩める。
「わあ、十三英雄の物語か。昔よく村長にせがんで読んでもらったなあ。あの子のことは憶えてる? 数日だけど、女の子がこの村に滞在して、三人で一緒に十三英雄の話を聞いたことがあったよね。今はどこで何をしてるのかな」
その言葉にペテルは眼を伏せた。忘れるはずがない。未だに彼の脳裏に焼き付いている少女の面影、淡い恋心を抱いた甘酸っぱい僅かな思い出の日々。身寄りのない彼女とその母親は、余裕がなかった当時のザリア村に受け入れられることもなく、何処かへ消えた。彼女ともう一度会いたい――それが、ペテルが冒険者になりたいと願ったもう一つの理由だった。
「そうだね、どうしているのかな」
ペテルは遠くを見るような眼差しで反芻する。
「エド――君は今どこで何をしているんだ?」