このことについては、すこし説明が必要かもしれません。
人間が社会を営むにあたっては、必ず「秩序」が必要になります。
上限関係は秩序そのものですが、実は「誇り」も秩序なのです。
人々が誇りを持てない社会では、上下関係のみが社会的秩序を形成します。
法による秩序ではないのか?と疑問に思われる方もおいでかもしれませんが、法も結局のところ、その徹底のためには社会に上下関係をつくり、そこで法を施行していかなければならないのです。
会社にも職務分掌規程がありますが、上司と部下という関係(つまり秩序)がなければ、その組織は崩壊します。
職務分掌規程が秩序を担っているのではなく、実際には上下関係が秩序を担い、これを規程が補完し権威付けているわけです。
ところが社会を営むにあたっては、もうひとつの方法があります。
それが「誇り」です。
社員一人ひとりが、社員としての誇りと自覚を持ち、それぞれの意思で会社の成果を上げていこうとする組織です。
この場合も、上司と部下の関係や先輩後輩の関係はありますが、社の秩序を維持するのは、それぞれの社員の、社員としての誇りです。
上司が何を言おうが、誇りを持って仕事をしているのです。
ですからときに部下は上司と真っ向から対立します。
殴り合いの喧嘩になることもある。
そのかわり、やるべき仕事は徹底してこなされます。
前者(上下関係型組織)と、後者(誇りと自覚型組織)は、いわば軍隊型組織と、共同体型組織と分類できるかもしれません。
そして、すぐにお気づきいただけると思いますが、共同体型組織では、ひとりひとりの誇りと自覚が不可欠の要素となります。
共同体型組織では、その組織の根幹を奪おうとするもの、つまりひとりひとりの、そして組織の誇りを奪うものが敵です。
ですから誇りを奪う上司を殴ってもどこからも苦情は来ません。
そのかわり、誇りについては、徹底した価値観が植え付けられることになります。
なぜならそれが社会を維持する根幹だからです。
これに対して軍隊型組織では、秩序を乱す者が敵です。
つまり上下関係を乱す者が敵です。
このような組織では、上官を殴れば軍法会議です。
下の者には、一切の抵抗は許されないわけですから、下の者は自分の誇りなどにかまっていることはできません。
とにもかくにも上官の言うことを聞かなければ殴られるのです。
このように考えていくと、両者の違いは明確になります。
共同体型組織では、民衆の自立が不可欠です。
軍隊型組織では、民衆の服従が不可欠です。
自立しているということは、自立を奪うものは当然排除の対象となります。
だから『王様と私』は、排除の対象です。
その映画に出てくるタイの王様のモデルは、タイのラーマ4世です。
ラーマ4世は、嘉永4(1851)年にタイ国王に即位された方です。
翌年には、ヨーロッパではナポレオンが皇帝に即位し、さらにその翌年には日本にペリーの乗った「黒船」が来航しています。
欧米列強が本格的に東亜の植民地化に乗り出していた時代のことです。
タイにも欧米列強が迫り、ラーマ4世に開国をせまりました。
ラーマ4世は、
「このままでは国が滅ぼされる。
西洋文明を取り入れて
近代化しなければ独立が危うい」
と、大勢の外国人を雇い入れました。
しかし列強が国王に迫った通商条約は、どれもタイにとって不利益な内容のものばかりでした。
明治元(1868)年、ラーマ4世は長年の苦労とマラリアで急死すると、その子のラーマ5世が国王を継ぎました。
映画『王様と私』に、家庭教師のアンナに教えられる国王の子供が出てきますが、それが後のラーマ5世です。
ラーマ5世は、タイの独立を保ち、不平等条約を改正し、タイの近代化と国内制度の整備を図るために努力をした人物です。
海外から多数の専門家を顧問として招きいれ、同時に欧米諸国へ多数の留学生を派遣しました。
そして、明治16(1883)年には郵便事業を開始し、明治27(1894)年には市電を導入、大正3(1914)年には初の水道設備建設など、数々の文明開化政策を実施しています。
そのラーマ5世が、治世中にもっとも力を注いだのが、法制度の充実強化です。
そのためにラーマ5世は、各国から20数名の法律顧問を招きました。
そしてその顧問団の筆頭首席を務めたのが、今日ご紹介する日本人の政尾藤吉(まさおとうきち)です。
政尾藤吉は、明治3(1870)年、愛媛県の大洲で藩の御用商人の長男として生まれました。
御用商人というのは、藩の食糧の手当などを一元的に扱う商人で、藤吉が生まれた頃は、たいそう裕福な家庭だったそうです。
ところが明治維新後の廃藩置県で、肝心の大洲藩がなくなってしまう。
当然、家業は衰退しました。
父は家業をやめて、山崎小学校の教員をはじめたけれど、多額の負債を抱えた父は、この先の苦労を思い、離婚して妻(藤吉の母)を実家に帰しました。
藤吉が16歳のときのことです。
そして父自身も、教員の仕事を辞めて、藤吉と姉を連れて田舎に帰りました。
そして郵便局で、郵便配達員として働き始めました。
「父ちゃん、俺も一緒に働くよ」
毎日、ぐったりと疲れて帰宅する父に、藤吉はそう言うと、父の働く郵便局で、父と一緒に郵便配達の仕事をするようになりました。
そして家に帰ると、一生懸命勉強しました。
たまたま、近所に、キリスト教系の青年たちが通っている英語塾がありました。
「これからは英語の時代だ」
と確信した藤吉は、日中、郵便局員として働きながら、夜、英語塾に通いました。
明治17(1886)年、藤吉が17歳になったとき、心労と過労が重なったのでしょう、父が他界してしまいます。
藤吉は、父が大洲に残したわずかばかりの資産を売り払い、東京に出ました。
そして苦学して早稲田専門学校(現・早稲田大学英文科)を卒業し、明治22(1889)年、もっと学問を究めたいと願って同年9月に単身渡米しました。
米国でバンダビルト大学に入学した藤吉は、3年後にはバージニア大学に転校し、在学中に現役でバージニア州の弁護士資格をとりました。
さらに藤吉は、明治28年(1895)年9月に念願の名門エール大学に進学。
翌、明治29(1896)年6月に卒業するとエール大学の助教授になり、その間に超難関中の難関であるアメリカ全土に適用する連邦政府弁護士免許を獲得しています。
そして同大学の最高法学科をわずか1年で卒業し、ドクトル・オブ・シビルローの学位まで授かってしまいます。
とにかくめちゃめちゃ頭が良かったわけです。
ここまでくると米国内では、もはや成功を約束されたようなものです。
有名な法律事務所に勤務すれば、破格の高額報酬を得て、VIPの仲間入りができるはずでした。
ところが人生は、とんでもない落とし穴があるものです。
ちょうどこの頃、米国内で激しい排日運動が起こるのです。
日本人であるというだけで、差別に遭い、それだけじゃなく、殺されかねない状況でした。
やむなく明治30(1897)年、28歳で日本に帰国します。
ここで普通なら、「それまで必死で勉強してきながら、米国内で就職の機会さえ閉ざされた藤吉は、失意の中で日本に帰国した」と書くところです。
ところがどっこい、政尾藤吉は男です。
日本に帰ると、すぐに彼は英字新聞・ジャパンタイムズ社に編集顧問として就職するとともに、その経歴から政財界に人脈を広げて行きます。
そしてちょうどその頃に、タイのラーマ5世が、タイ国の法制度の充実強化のため有能な人材を外交ルートを通じて日本に求めてきたのです。
このときの外務大臣が大隈重信です。
大隈重信は、自身の創立した早稲田大学の卒業生である政尾藤吉に白羽の矢を立てました。
なにせ政尾藤吉は、アメリカのエール大学を卒業し、全米の連邦弁護士の資格まで持っているのです。
適任者は彼しかいない。
大隈重信は、政尾藤吉を呼びだすと、彼に直接「タイ王国政府の法律顧問にならないか」と誘いました。
当時の藤吉には、タイ語はまるでわかりません。
しかも当時のタイは、国王であるラーマ5世の不退転の決意でかろうじて独立を保ってるとはいえ、まだまだ国力は弱い。
クーデターでも起これば、命の保証は何もありません。
しかし藤吉は「やります!」と即答しました。
人生意気に感ずです。
外務大臣から直接名指しで指名されたのです。
やらないわけにいかない。
こうして政尾藤吉は、満々たる闘志を秘めて、タイに向かいました。
当時のタイでは、すでにベルギー人の法律顧問を雇い入れ、法典の編さんに取りかかっていました。
藤吉は総顧問ローランスの補佐官となり、その仕事を助けて、刑法、社会法の草案を作りました。
そしてタイに滞在して、わずか二カ月でこれを仕上げてしまいました。
「これはすごい奴が来た」ということになって、藤吉はタイ王室によって、主任顧問に抜擢されます。
そして明治38(1905)年には、在任わずか5年の実績で、タイの白象三等勲章を授与され、さらに長老司法顧問の地位についてしまいます。
明治41(1908)年になると、今度は王冠第二等勲章を受け、日本からも勲四等旭日小綬章が授与される。
藤吉はその後タイの大審院(いまでいう最高裁判所)の判事を3年勤め、大正元(1912)年には、タイ国王から欽賜名(プラヤー・マヒトーンマヌーパコン・コーソンクン)を下賜され、タイの皇族待遇を受けています。
翌年、日本に帰国した藤吉は、大隈重信の薦めもあって政友会に入党し、大正4(1915)年には愛媛県から衆議院議員に出馬し、45歳の若さで当選しています。
大正6(1917)年には、衆議院議員として二期目の選挙に出馬し、これも当選。
さらに大正8(1919)年には、日本の国会議員の台湾・南支・南洋諸島・タイへの視察団の団長を務めています。
大正9(1920)年、正五位に叙せられた藤吉は、タイ駐在の特別全権大使に任ぜられ、ふたたびタイに赴任します。
そして滞在わずか1年たらずの大正10年8月11日バンコックの公使官邸で、脳溢血のため、逝去します。享年52歳でした。
藤吉の死に対し、日本政府は従四位を追贈します。
藤吉の悲報を知ったタイの日本人は、タイ各地から次々と大使官邸にかけつけ、彼の通夜は2週間も続いたそうです。
タイの王室と、タイ国政府は、藤吉の葬儀に際して、葬儀・柩車・行列・火葬にいたるまで、すべて皇族と同じ待遇で行ないました。
とくに火葬に際しては、特別儀礼によってワッサケ火葬殿で盛大に執行し、その式にはラーマ5世自らが参列して火葬爐に点火し、その死を惜しんでいます。
最近は知りませんが、少し前まではタイの教科書には「タイ近代法の父」として、政尾藤吉の名が掲載されていました。
ところが、これだけの貢献をしていた日本が、藤吉の死の翌年の大正10(1921)年12月に、ある大きな外交上の失敗をしてしまいます。
それがワシントン会議で、日本は主力艦の保有量を対米英の6割に制限され、日英同盟は破棄されました。
日本の地位は、世界の最強国から一転して、世界の植民地支配諸国からみた敵性国家に転落していくのです。
これによって呉の海軍工廠は、業務を大幅に縮小。
大量の失業者を出し、その結果、多くの人々が広島からブラジルへと向かうことになりました。
政尾藤吉の生涯を支えたものは何だったのでしょうか。
それは立派な大店の商家の子であり、最後まで家族を思って苦労を背負ってきた父の誇りです。
どんな苦労をしても、誠実に努力を重ねて、ひとりでも大きくの人々のために働く。
藤吉はもちろん、頭の良い人であったでしょうけれど、それ以上に、苦労を重ねる父のために、自分ができる最善を尽くし続けようとしたところに、藤吉の人生の成功があり、結果があったのです。
誇りを持つということは、威張り散らすとか喧嘩に強いとか、人を蹴散らすとか、大きな顔をするとか、肩で風を切って歩くとか、そういうことではありません。
日本人の誇りとは、誰かのために自分にできる最善(まこと)を注ぎ続けることにあります。
けれどそんな日本人でも、高位高官となって鼻高々な傲慢に陥る人たちがいます。
日本は強いとタカをくくり、謙虚さを忘れ、国民にとっていちばん大切な豊かさと安全と安心を忘れ、目の前のええカッコシイに取り憑かれてしまう。
その結果が、ワシントン条約ではなかったかと思います。
どんなときでも、奢らず、調子に乗らず、謙虚に生きるということは、大切な人のために自分にできる精一杯の誠実をつくして生きるということ。
だから政尾藤吉は、タイで皇族待遇にまでなった、ということなのではないかと思います。
お読みいただき、ありがとうございました。
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