あなたもきっと経験がある「当事者マウンティング」の暴力性と誘惑

「わかっている」感覚ほど危ない?
磯野 真穂 プロフィール

当事者マウンティングの誘惑

かくいう私も当事者マウンティングの誘惑に駆られるときがある。

たとえばそれは「研究者って、好きなことやっていればいいから楽でいいね」と上から目線で言われるときだ。

そういわれると、「30過ぎまでアルバイトですごし、奨学金という名の借金を月々13万、3年に渡って背負い続ける。博士をとったからといって教員の職が保証されるわけでもなく、もし就職できなかったらワーキングプアまっしぐら。そんな状況であなたは何年も暮らしたいのか。あなたはなにもわかってない!」くらいのことを言いたくなる。

ただ冷静に考えると、私のようにアルバイトを渡り歩く生活はせず、さらには奨学金も借りずに研究職に就く人もいる。論文を1本も書いてないが、他領域で著名であったため、教授に招聘される人もいる。ポジションが豊富にあった時代に研究者になったため、助手から教授までエスカレーターで上がった人もいる。

そういうことを考えると、私の経験が研究職の経験を代表していると言い難い。楽とは言わないまでも、もっと賢くスマートに研究職についた人はいるし、そのような人たちこそがアカデミアを牽引していることも多いのだ。

当事者マウンティングは、 自分の否定されたと感じるとき、あるいは自分に自信がないときに、使いたくなる戦略なのだろう。しかしそのマウンティングに確固たる根拠を見出すことは難しい。

〔PHOTO〕iStock

最大の問題は「対話の断絶」

当事者マウンティングの最大の問題は、対話の扉を閉ざし、知るチャンスを封じることにある。

自分にしかない状態を根拠にするので、相手がどんなことを言ってきても「当事者でないあなたにはわからない」の一言で相手を黙らせることができる。

相手がなぜそのような意見を持っているのかといった、相手を知るための努力は不要になる。

 

当事者としての経験は重要だ。その声は聴かれるべきである。しかし既に述べた様に、自分が当事者であるからと言って、自分が所属する属性を代表できるわけではない。

それはどう頑張っても数ある中の1つの声でしかなく、加えて同じカテゴリーを細かく細分化すれば、その中でまた同じ当事者マウンティングが起こりうる。

「当事者」という言葉が広く使われるようになる中で、どんな人々の声にも価値があり、それには耳を傾けねばならないという機運が社会の中で広がっている。

だからこそ当事者としての経験は、封じられた声を社会に開放し、ゆるやかな連帯を作るために使われるべきであろう。

どんなカテゴリーの中にも多様性はあり、自分も他者も日々変わりつづけることを踏まえると、「わかっている」という感覚ほど危ういものはないのだから。