「子どものことはわからない」という当事者マウンティングは、経験の総量と子がいる状態に対する社会的な価値づけの中で起こる。
たとえば「子どものことはわからない」という言葉を突き付ける先の保護者が、子ども7人を生み育てた女性に対し、同じ言葉を投げることはないだろう。むしろ今度はその人たちが、同じことを言われる立場になるかもしれない。
一方、経験豊かな小学校の教員に対して投げつけられる「子どものことがわからない」は、子どもを産み育てている人の方が、そうでない人より価値があるという、社会的な意味づけに寄っているといえる。
考えてみてほしい。
マザー・テレサは、スラム街で青空教室を開き、子どもたちに勉強を教えていたという。しかし彼女は結婚も、出産もしていない。
先の人々の論理に乗れば、彼女は子どものことをわからないまま人生を終えたことになるが、彼女に同じ言葉をかける人はまずいないだろう。
もし彼女が存命であれば、むしろ「子育てについてアドバイスがほしい」と言う親が多いのではないだろうか?
マザー・テレサは高貴な人であるという彼女の社会的な位置づけがそうさせるのだ。
東京医大による女子学生の入学規制問題が発覚したとき、湧き上がる批判に対抗するように、「医療現場をわかっていない」といった声が一部の医師から上がった。
女子学生の入学を規制しなければ回らないほどの現場があることをわかっていない、という意味である。
それにプラスして、「規制をなくしたら現場は回らない。それでもいいのか?」といった半ば脅しの様な言葉も上がっていた。
「男女の差をつけるのは当然である。医学部に女子が増えたら、日本は眼科と皮膚科ばかりになる」といった医師の西川史子さんの言葉はその柔らかいバージョンの1つであろう。
しかしここでも先ほどと同じように考えてみたい。
医師の現状を代弁できる医師というのはどこに存在するのだろう?
大学病院に務める医師、開業医、医学部の教員、さらには官僚の医師もいる。活躍する現場も得意とする専門も実に多様であり、加えてその医師が研修医なのか、中堅なのか、ベテランなのかで見える風景は全く変わるはずである。
もちろん当事者でないと知りえないことはあり、その声は聞かれねばならない。
しかし医師のこのような多様性を踏まえたときに見えてくるのは、「医療現場の声を代表できる医師はいない」ということではないか。
この現状を踏まえたとき「現場を知らないあなたに何がわかる」という反論は、当事者マウンティングの様相を強く帯びる。