「子どものあなたにはわからない」
物心がついたころ、大人にそう言われてもやもやしたことはないだろうか。言い返したいのにうまく言葉にできず言葉を飲んだ経験はないだろうか。
自分が持っていないものを理由に「わかっていない」と言われると黙るしかない。相手がわかって、自分がわからないことの根拠は、自分には持ちえないものの中にあるのだ。返す言葉は無くなってしまう。
当事者の言葉は重要である。経験していなければ、その場にいなければ知りえないことはたくさんある。世界は当事者の言葉が聞かれなかったゆえに起こった悲しい出来事であふれている。
しかし当事者が当事者であることを根拠に「わかる」を主張し、当事者でないことを理由に「わからない」を突き付けるとき、それはマウンティングになる。
ここではそれを「当事者マウンティング」と呼ぼう。
以前、大学院の院生である看護師さんからこんな話を聞いた。
彼女はもう20年近いキャリアがあるベテランの看護師であるが、子どもはいない。彼女が小児科に勤めていた際、先輩の看護師が彼女にこんなことを言ったという。
「子育てをしたことのないあなたに、子どものことはわからないよね」
同じような話を10年のキャリアを持つ小学校の教員からも聞いた。
「結婚をしていない先生に子どものことはわからない」
こちらは保護者から向けられた言葉だ。
子どもを産み育てるという経験は人生でかけがえのないもので、いなかったらわからないことがたくさんある。それは紛れもない実感であろう。
しかしそのことと、子どもを産んだ人たちが「子ども」という概念をわかっているのかは別の話である。「子ども」という概念は、多くの似たような人々を集めて作られているからだ。
それでは、その概念について「わかっている」とはどういう状態をいうのだろう。
子どもを産み育てている人たちは、自分の子どもについて誰よりも知っているかもしれない。
しかし子どもは多様である。1人あるいは数人の子どもを育てたら、「子ども」という概念をまるごと理解できるというのは、少々論理の飛躍があるだろう。
しかも自分の子どもについても「わかっている」とは言い切れないこともあるはずだ。
自分の前では絶対に見せないふるまいを偶然目撃したり、子どもがずっと悩んでいて言えないことを初めて聞いたりしたときに、それまでの確信はくつがえされ「実は何もわかっていなかった」と思うこともあるだろう。
いったい何について「わかって」いれば子どものことを「わかっている」ことになり、何を知らなければ「わかっていない」ことになるのだろう。
経験に基づく「わかる」は一見ゆるぎないように思える。だからこそ、それを他者に差し向ける際の暴力性に気付くことは難しい。