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【書評】

戦時の音楽 レベッカ・マカーイ著

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◆残酷な運命に抗う人たち

[評者]師岡カリーマ(文筆家)

 指を一本切り落とされた演奏家がバイオリンを弾いている。その演奏から、戦争と迫害の記憶は聞こえてくるのか。彼の心の鏡には今、何が映っているのか。それはわからない。著者はひとりの少年の不確かなイマジネーションにその場面を語らせることによって、登場人物と私たちの間に、なにかガラスの仕切りのようなものを、この短篇集の冒頭から立ててしまう。「次世代が脚色する戦争談には要注意」という警告とも取れる。

 エイズが猛威を振るった一九八〇年代ニューヨーク。人種問題に敏感にならざるを得ない現代アメリカ。うさん臭いリアリティ番組の撮影現場。物語の舞台は戦場とは限らない。でもそれは、誰かにとっての戦時だ。誰か? 美貌への異常なこだわりから、自らを追い込む文学講師。ピアノの中からひょっこり出てきたバッハ(妄想ではないらしい)の子を身ごもって天才児を生んでやろうと目論(もくろ)む女。一見どうでもよさそうな人物の心理描写にはたくさんの言葉を注ぎつつ、戦争の闇を知る本来の主役の内面に踏み込むことは執拗(しつよう)に避ける著者の意図は、最後の短編「惜しまれつつ世を去った人々の博物館」を読み終わったとき、初めて明らかになる。

 ガラス越しに表面をなぞるだけのようだった歯がゆさはいつしか、主人公の苦悩に感染する不安のない心地よさに変わり、私たちは次から次へと提示される独創的な主題に魅了されながら、最後に用意された「結論」へと巧みに導かれていく。その鮮やかな超絶技巧には脱帽だ。

 十七篇の物語を通奏低音のように貫いているのは、実は音楽でも芸術でもなく、残酷な運命に抗(あらが)う人間の姿だ。生き残るために下される決断は時に善悪の審判を超越する。芸術はむしろその副産物であり、舞台の黒子であり、人生の解説書のようなもの。かつてナチス・ドイツの脅威が目前に迫ったハンガリーで、祖父らしき人物が犯した「罪」の影を振り切れずにいる著者の、葛藤の末にたどり着いたひとつの答えが、そこにあると見ることもできるだろう。

 (藤井光訳、新潮クレスト・ブックス・2160円) 

 1978年生まれ。作家。米国シカゴ近郊で育つ。父親はハンガリー出身。

◆もう1冊 

A・ドーア著『すべての見えない光』(新潮クレスト・ブックス)。藤井光訳。

 

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