戦中戦後を生き抜いた人たちは、誰もが“鍵”を持っています。私たちの未来を開く鍵。だからおじいさん、おばあさん、今宵(こよい)また物語をしてください。
「あたしは金日祚(キムイルチョ)=写真。日本名は松本君代。君が代ね。学校の友達にはキミちゃんと呼ばれてました。昭和三年九月十八日生まれ、数え年九十一歳。もう年寄りでね、耳が遠いけん…」
ロビーのいすに腰を下ろすやいなや、金さんの小さな体から、言葉があふれ出しました。
滑舌良好、正確な日本語、歯切れのよい広島弁でした。
韓国南東部の陜川(ハプチョン)郡。戦前から戦後にかけて、多くの人が職を求めて日本にわたり、原爆の被害にも遭いました。
戦後帰国した被爆者が今も多く住んでおり、「韓国のヒロシマ」と呼ばれています。
金さんは街を見下ろす高台の中腹の「陜川原爆被害者福祉会館」に入居する約百人の被爆者の一人です。一九九六年に日本政府の支援で建設されました。金さんは開館二年目から、ずっとそこで暮らしています。
金さんの両親は、大正時代に、同胞のつてを頼って陜川から日本へやってきました。
金さんは京都で生まれ、二歳の時に広島へ引っ越しました。
金さんの家があったのは爆心地から南へ三キロ。漫画「この世界の片隅に」の舞台にもなった「江波(えば)」という地区でした。
なりわいは同胞相手の「乾物屋」。母親が特に働き者で結構繁盛したそうです。
「親は苦労したけれど、私たちには苦労がなかった。日本人と一緒に暮らしていても差別はなかったし、高等小学校へ上げてもらって、卒業後は広電バスの車掌にも採用されました。べらべらしゃべるのは、そのせいね」と、おどけて笑います。
「今朝のことはすぐ忘れてしまっても、日本のことは忘れられん」と繰り返し、金さんの“ファミリーヒストリー”は、よどみなく続きます。
◆日常が砕けて散った
早朝に発令された空襲警報が解除され、金さんが家で遅い朝食の後片付けをしていたときでした。
「何かがピカッと光ったと思ったら、ババーンと広島がひっくり返るような音がして、天井が頭の上に落ちてきて-」
気が付くと、頭から血まみれの母親が、がれきの中から引っ張り出してくれていた。
家に防空壕(ごう)がなく、軍の射撃演習場近くにある避難所まで一時間ほどかけて歩いて行った。
そこには、焼けた着物が体に張り付いて、男女の別さえつかなくなった数百人の人々が、力なく地面に身を横たえていた。半数以上はすでに息絶えていたらしい。
やがて救護所がしつらえられたが、薬と言えばバケツで薄めた赤チンだけ。
「今にも死にそうな人たちに、どうにかして水の一杯、くんできてあげようという気持ちにもなれなんだ。本当にまあ、かわいそうに、かわいそうに…」
冗舌が涙で途絶え、広いロビーがしばし、沈黙に包まれました。
「結局あたしが話をしたいと思うのは、被爆のこと、皆さんや子どもたちに伝えたいのはね、もう二度と戦争を起こしてほしくないからなんよ」。沈黙を破ったのも金さんでした。
「本当のことを知ってわかり合えれば、みんな仲良くなれるのよ。でもね、一回や二回で語り尽くせるもんじゃないけんね、またいらっしゃい。六年前に胃を三分の二切り取って、こんなにやせてしまったけんが、口だけは元気じゃけ」と言いながら、携帯電話の番号を教えてくれました。
◆記憶の中にある未来
えたいの知れない黒く大きな何者かの足音が、じわじわと近づいて来ているような気がします。被爆者に限らず、戦前、戦後を知る人たちの記憶や体験が、今ほど貴い時代はありません。そしてそれらを記録にとどめ、次世代に手渡すことも。未来を照らし、生き抜くヒントは記憶と記録の中にこそ、必ず隠れているものだから。
金さん、あるいは君代さん、また物語を聞きに参ります。だから、いつまでもお達者で。
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