巨大組織内で新規事業を推進するキモは3つ。Suicaが実現した理由を教えてもらった

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井上健(いのうえ・たけし):1946年北海道生まれ。東京大学工学部電気工学科卒業後、国鉄入社。1987年の国鉄民営化に伴いJR東日本に入社。2000年に常務取締役鉄道事業本部副本部長兼ITビジネス推進プロジェクトリーダーに就任。現在は一般社団法人日本鉄道技術協会 日本鉄道サイバネティクス協議会の会長を務める。

今やほとんどの日本人が持っているであろう交通系ICカード。特にSuicaに限っていえば、2014年1月時点で約4557万枚も発行されている。単純計算で日本国民の約3人に1人が所有しているカードであり、大都市圏ではSuicaなしでは生活できないという人も少なくないはず。

その革新的なカードを実現したのは、大手メーカーでもなければベンチャー企業でもない、鉄道会社のJR東日本。今回は、Suicaサービス開始時にJR東日本の常務取締役だった井上健氏に、Suica開発の裏話を伺った。

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読み取りに必要な0.2秒の滞空時間を見事に表現。「タッチ&ゴー」のキャッチコピーができるまで

――Suicaといえば、当初からのキャッチコピーである「タッチ&ゴー」という言葉があります。これはSuicaの使い方をわかりやすく説明していますね。

井上:Suicaを初めて使う人にわかりやすい標語だと思っています。実はこれには自動改札機にとってもメリットがあるんですよ。Suicaが世に出る前のフィールド実験の段階では、モニターの人に「電波でカードを読み取るので、読み取り機の上にかざしてください」と説明していたんです。

でも、かざすという言葉が抽象的すぎて、人によってさまざまな動きをしてしまい、読み取りエラーが続出してしまいました。自動改札機がSuicaから情報を読み取るのは、読み取り機の上の半径10cmの半球状の内側です。この範囲から離れすぎるとエラーになってしまうんですね。さらに、その半球内で、0.2秒の滞空時間が必要なのです。

――なるほど、だから「タッチ」なんですね。

井上:そうです。次の実験では「自動改札の読み取り機にカードをタッチしてください」と言い方を変えてみました。タッチという言葉でお願いすると、モニターさんたちは自動改札機の電波が届く半球状の範囲の中へV字を描くようにカードを通してくれるので、データ処理に必要な時間も確保できるようになったんです。こうして改札機でのトラブル問題は解消しました。

立案段階で電子マネーや携帯電話との連携の構想はあった

――井上さんがSuica事業に携わったのはどのくらいの期間でしたか?

井上:Suicaスタート前の詰めの段階とサービス開始直後の、3年くらいプロジェクトにかかわりました。それまでは、民営化後のJR東日本で、総合技術開発推進部というところの三木彬生さんと、旅客設備課長であった椎橋章夫さんが主導してプロジェクトを進めていました。開発中のICカードを使ったフィールド実験は1994年から97年にかけて3回行われ、その後、投資計画が役員会で承認された段階で、参画しました。

――井上さんがプロジェクトを行う上で大変だったことは?

井上:予算が決まっていたので、予算内にいかに収めるかということと、工程をどうするかということが大変でした。Suicaがスタートしたのは2001年の11月18日ですが、本当はそれより10カ月も前にサービス開始目標がありました。そのくらい期間が延びてしまっていたんですね。やはり安定したシステムをスムーズに立ち上げるために、延期もやむなしという具合でした。

――その段階でキヨスク・コンビニなど、改札以外での、Suicaの利用も考えてられていたのですか?

井上:それはもちろんスタートする前から考えていました。すぐには無理だと思っていましたが、乗車券として定着したらコンビニ等への展開もできるだろうと思っていました。電子マネーとして使おうとか、携帯電話と一体化しようとか、クレジットカードと連係させようといった構想は、早期からあったのです。

――クレジットカードに連係した、オートチャージって便利ですよね。オートチャージにしてから券売機に向かうこと自体無くなりました。

井上:大多数のお客さまのライフスタイルを変えましたね。切符の概念を無くしたというのは、鉄道が新橋~横浜間に開業して以来の大きな変化だったのではないでしょうか。

Suica導入で論点となった磁気改札機の「コスト」問題

――Suicaという事業を社内で提案するにあたって、もちろん賛同してくれる人も反対する人もいたと思います。そこで企画を通すためにどのように取り組んだのでしょうか?

井上:乗車券をICカードにすること自体はわかりやすいことで、電子マネーやクレジットカードなどとの連携は将来的な話。Suica導入の検討会議で論点となったのは「コスト論」だったのです。当時は磁気乗車券と磁気カードが主流だったので、ICカードを導入するとどれだけ投資効果があるのか試算しました。Suicaを導入するための総費用額がどのくらいなのかわかります?

――Suicaの導入にはシステム開発だけではなく、自動改札機も必要ですよね? 数百億ぐらいでしょうか?

井上:Suica導入に掛かる費用は約460億円でした。そのうち設備更新費用(磁気の改札機を導入しても掛かる費用)が約330億円でしたので、差し引き約130億円がICカードシステムを新規に導入するための追加費用ということになります。この約130億円をいかに回収するかというのがポイントだ、ということが明らかになりました。

――約130億円を回収するには、ICカード導入による収益増かコストダウンを説明しないといけないですよね。

井上:ICカードを導入して「売上」が増えますと断言できません。着目したのは「コストダウン」でした。

ICカードを導入した場合、磁気改札機にICカードのための機器やネットワ-ク機能などを付加する必要がありますが、磁気券等の使用が減ることにより、改札機の搬送部や磁気読み取り部分などの稼働を抑えることができます。これにより検査周期を伸ばすことができ、併せて機器の故障も少なくなり、メンテナンスコストを低減することができると考えました。

また、改札機の設備更新時期に合わせて、ICカード対応機能を付加することによりイニシャルコストを削減することができます。このようにして約130億円の投資資金を10年間で回収できる見通しを立てることができました。さらに、Suicaの普及とともに磁気機能不要のSuica専用改札機の導入や、設置台数の削減などによりさらにコストダウンが図れると考えました。

――コストに着目することで、Suica導入への筋道をつけたわけですね。

井上:そうです。先ほど人々のライフスタイルが変わったという話がありましたが、実はSuica導入はJR東日本にとって大きなメリットがあったのです。磁気乗車券をお客さまに使っていただくには券売機を設置するスペースも広く取らなければなりませんし、自動改札機も読み取りから排出まで正常に動くものを全駅に設置しなければなりません。

「初期投資は掛かりますが、結果的には投資した資金は回収できますよ。そしてお客さまも喜びますよ」という形で提案しました。

券売機自体の導入コスト、メンテナンスコスト、券売機を設置するスペースコストはお客さまが電子乗車券に移行すれば削減できます。現在、券売機のあったスペースには、店舗などを設置して有効活用しています。

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大切なのは「企業」と「利用者」にメリットがあること

――Suicaは鉄道会社と利用者との、双方にメリットがあるのですね。

井上:片方だけ勝ってもう一方は負けるというものは長続きしないですよね。これはどんな新規事業でもそうです。まず利用者にメリットがないと誰も食いつきません。そして仮に食いついてくれたとしても、事業者側が継続的赤字になったら意味がないです。ポイントは「まずお客さまにメリットがある」ということです。お客さまはものを使おうとすると、それに見合う価格を支払います。それに見合う、もしくはそれ以上の利益があれば利用するんです。鉄道会社のメリットと利用者のメリット、この両輪が回るかどうかが勝負です。そしてそれをいかに事業計画書なりプレゼンで説明できるかが重要だと思います。

――最後に新規事業を起こす際に、必要なことを教えてください。

井上:3つのポイントに集約されると思います。それは「用意周到な準備」「大胆な挑戦・実行」「緻密な評価・継続」でしょう。中でも、緻密にコストや利益を計算し、提案に盛り込むのが大切だと思います。

見事、多くの利用者のライフスタイルをも変えた交通ICカード「Suica」の普及に向け、情熱を注いだ井上さんのお話は、新規事業を推進するための示唆に富んだものでした。

(安齋慎平)