こんばんは!ビー玉です。
今宵は、【大人の美術館】へようこそ・・・
当館は、土曜の深夜に開館する大人のための美術館です。
素人の素人による素人のための美術館です。私は専門家ではないので、多少のフィクションを交えつつ、自由な発想で絵画を語ります。常識とされている見解とも少し違う箇所があると思いますが、ゆる~い気持ちでリラックスしながらご観覧ください。
本日は、「狂気の画家」「炎の画家」といわれたゴッホの回顧展です。
お時間よろしければ、最後までお付き合いください!!
フィンセント・ファン・ゴッホとは
フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent Van Gogh)
1957年、オランダのズンデルト村の牧師の長男として生まれました。
幼い頃から強度の双極性障害(躁鬱病)もしくは境界性人格障害を患っていたと言われており、地元の小学校を退学になったあと、隣町の寄宿学校に転校するも16歳で中退。
16歳で画商で働き始めましたが、大失恋で無気力になりクビ・・
24歳で書店に勤めていたが父と同じ聖職者に憧れ退社するも、受験勉強に挫折・・
何をやっても挫折続きだったゴッホは27歳の時に画家を目指します。
ゴッホは遅咲きの画家でした。
画商に勤めていた弟テオの庇護のもとで、精力的に絵を描き。36歳でなくなるまでの10年間で800点の油絵と850のデッサンを残しています。
1600枚以上と言われるゴッホの絵は彼が生前に売れたのは、たったの1枚というのが通説ですが、実際は数枚売れたも言われています。
まったく報われない画家というイメージですが、絵を学んで10年ほどで売れる画家の方がずっと少ないのです。
生前のゴッホに才能を感じていた人物も少なからずいまいした!弟が画商ということで、著名な画家とも交流があったので、ゴッホがもう少し長く生きていたら、生前に成功を納める著名な画家になっていたのではないかと思います。
ちなみにたった1枚売れたというのは・・・
1888年「赤い葡萄畑」
女流画家のアンナ・ボックによって400フランで購入された。
19世紀後半の1フランは日本円で1000円ほどなので、まったく無名の画家とは思えない金額です。
これが売れたのは死の直前・・・本当にもう少しのところだったでしょうね(。-`ω´-)ンー
不安と希望が入り乱れる美しさ「夜のカフェテラス」
弟テオを頼ってパリに移り住んだゴッホはそこでは多くの画家と知り合い、それなりに充実した日々を過ごしていました。
だけど、もともと社交的ではなかったゴッホは華やかなパリの生活になじめず、南仏アルルへと旅立ちます。
孤独だったゴッホは、アルルで画家たちとの共同生活を夢見るようにまりました。
そのころに書かれたのが・・
1888年 「夜のカフェテラス」
明るいテラスで楽しそうに食事を楽しむ人たち・・・それを遠くから眺めているゴッホ・・夜、明かりがついたお店の喧騒を横目に、ほっとすると共にどこか寂しく感じるときがあります・・・だけど決して嫌な寂しさじゃない!!ちゃんと帰る場所のある寂しさ・・このころはまだゴッホは画家たちとの生活に希望を持っていました。夜空にはそんな希望を象徴するようにいくつもの星が瞬きます。
ゴッホ自身はバーに戯れる人たちは破滅へ向かうといってますが、絵をみるかぎり、たのしそうです(゚∇゚ ; )
名画「ひまわり」に秘めた思い
ゴッホはキリスト教に傾倒してましたので、共同生活を送る予定だった黄色い家に、キリストの十二使徒にあやかって12枚のひまわりの絵を飾って12人お画家たちを迎えようと考えていました。
だけど、4枚書いた時点でポール・ゴーギャンが訪ねて来たきり・・・誰も来ません(ノД`)シクシク ひまわりを後3枚描いたとところでゴッホの気持ちは折れてしまったみたいです。なので現存する「ひまわり」の絵は7枚です。
このうちの一枚は日本の東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館でいつでも見ることができます。
1888年「ひまわり」
この絵の購入価格は驚きの53億!!
孤独な魂の暴走
まぁ・・ゴッホの無茶振りにゴーギャン一人でも来てくれるだけ「良かったな」と思いますけど、思い込みが少々激しいゴッホの愛はゴーギャン一人に集中してしまったことで二人の間には深い亀裂が入ります。
ゴーギャンの椅子やベットを絵に描き、ゴーギャンと話をしたいばかりに勝手にゴーギャンの絵を仕上げてしまったり・・
ゴーギャンと話せない日が続くと発作で病院に担ぎ込まれるなど・・孤独なゴッホの魂がゴーギャンに向けて暴走してしまいます。
そんな愛情の重圧に加えて、二人は美術論でも反発するようになり口論が絶えなくなります。
二人が共同生活を恥じめて2か月がたったころ、口論の末、ゴッホが発作的に自分の耳を切り落とすという事件により二人の共同生活は幕が引かれました。
その直後に書かれた「パイプをくわえる包帯の自画像」
包帯が痛々しいですね
包帯より痛々しいのはパイプです。
ゴッホはパイプで心の平静を保てると信じていたので、虚ろな瞳でパイプを吸います。自分であって、自分でない感情をどうにかして抑えたいという気持ちをモクモクとたかれる煙が物語っています。
ゴッホは同性愛思考だったという話もありますが、性愛の対象はあくまでも女性だったと思います。
ゴッホが求めたものは、それよりも深い魂レベルでの触れ合いです。
孤独な人間というものは孤独が深い分、その深さを埋めるように、より深い愛情を求めてしまうものなのです。セックスで埋められるのは一時的なものにすぎません。
ゴーギャンを失ったゴッホは、自ら精神病療養所での治療をのぞみ、サン・ミレの療養所に入所しました。
療養所で生まれた傑作!!
このころのゴッホは視覚が歪むような幻覚に悩まされていました。
この歪む視界こそが傑作「星月夜」を生みだしたのは皮肉です・・
1889年「星月夜」
ゴッホは、モデルを雇えないと自画像をよく描いていました。おそらく見たものを見たままにしか描けない画家だったんじゃないかなぁ・・と、思っています。
この星月夜は実際の風景ではないけれど、ゴッホの頭の中にはこのような夜の風景が見えていたんんです(((uдu*)ゥンゥン
町の静けさをは対照的に、夜になると不意に襲ってくる不安だったり、輝く希望だったり・・・
浮いては沈みむ感情の渦が夜空を埋めていく・・・
この対照的な世界を繋ぐのは高くそびえる糸杉と教会の屋根・・・ゴッホだけでなく、町中の感情をこれらが吸い上げて夜空の渦はどんんどん多くなり今にもビックバンが起こりそう・・・今時も弾け飛びそうなゴッホの精神。
ゴッホは療養所での生活が自分には合っていないと感じて場所を変えます。
ゴッホは本当は自殺ではない?
芸術に理解ある精神科医ガッシュを頼ってパリ北西部にあるオーヴェールという地に移り住み最後の2ヶ月を過ごします。
空だけではなく大地も歪みます。こんな風景の中、立っているだけでもツラかったのではないかと想像します。
そんな頃に不運にも、ずっとゴッホを支え続けていた弟テオの息子が原因不明の病気にかかり、ゴッホの援助も難しい状況になってきました。些細なことでテオ夫婦と口論になったゴッホは絶望し3週間後に自分の腹部を拳銃で撃ち、自殺した・・・というのは有名な話です。
この状態のゴッホが自殺しても誰も不思議とは思いません。
だけど、その自殺には疑問が多くあるのはご存知でしょうか?
【疑問その1】なぜ腹部だったのか?
普通自殺を考えた人は頭を撃つのが普通です。右利きのゴッホが左脇腹銃弾を撃ち込むおは不自然ではないか?
【疑問その2】銃弾は体内に残ったのはなぜか?
至近距離から銃をを撃った場合、銃弾は骨に当たらない限りは貫通することが多い・・ゴッホの場合は体内に銃弾が残っていたので至近距離ではなく、遠距離から撃たれたのではないか?
【疑問その3】撃ったビストルはどこへ消えた?
ゴッホが当日いたとされる場には血痕も拳銃はみつかりませんでした。
【疑問その4】なぜゴッホは宿に戻ったのか?
ゴッホはその場では死に切れず、宿まで戻り弟テオに看取られながら2日後に亡くなります。
自殺しようとした人が数キロ離れた宿に帰る必要があったでしょうか?
実はゴッホが言ったという場所と反対方向で、若者たちと一緒にいたという目撃者もいました。
その若者が持つ銃が暴発して、ゴッホに当たったという人もいます。
どちらにしても自殺
他殺だとしても「テオのために自分はいない方がいい」と思ったんだと思います。ゴッホは自分で撃った言って死んでいきました。死はゴッホが望んだことなんだと思います。
その後、テオは兄を死に追いやった負目から精神を病み、あとを追うように亡くなりました。
ゴッホを有名にしたのは誰?
テオの死後、夫の意思を引き継いだのは妻のヨハンナです。
テオ同様にゴッホを死に追いやった罪悪感もあったでしょう・・
ヨハンナはゴッホの作品を世に出すことを決意します。
若い芸術家たちに積極的にゴッホの絵を見せました。その評判は噂になり絵を買いたいという画商も現れましたが、ヨハンナは売り急がずゴッホの作品が散逸しないように守りました。
そして、ゴッホの死後15年経ってアムステルダムの私立美術館で大回顧展が開催されるまでになったのです。
ゴッホの絵の魅力に、ゴッホの悲劇的な人生や自死も少なからず一役かったと思います。
人々はゴッホの絵に自分の苦しみを投影させて感動するのですよ・・・
ゴッホは死をもって弟テオに恩を返しました。
本日は、以上です。最後までお読みいただき、ありがとうございます。
当館は毎週土曜の深夜に開館します。
また来週お会いいたしましょう(*ˊᵕˋ*)੭ ੈ
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