*9* 今の人はもしかして……?
――……腕の中にイザベラがいる。僕はここが王都で一番有名な学園の校門前だということもすっかり忘れて、腕に感じるその温もりに満たされていた。
この一月の労力が、この自分にしては思い切った選択の全てが報われた心地と安堵感。そしてその直後にふと戻ってきた常識に、ソッと自分とイザベラとの間に僅かな空間を空ける。
それというのも、いきなり抱き付いたりしてイザベラが苦しいかもしれないと思い至ったからなんだけど。
僕の顎の下、胸の上に埋められていた身体を引き離されたイザベラの頭が上を向く。その視線に縋るような不安の色を感じて、僕は安心させるように微笑んでみせる。
イザベラはその返礼に僕の大好きな、あのふにゃりとした微笑みを向けてくれたけど……思わずもう一度抱きしめそうになるからやめて欲しい。
――と、僕は鼻先にこの華やかな王都の城下街とは無縁の、普段から慣れ親しんだ香りを感じる。しっとりと潤んだ紫紺の瞳に映り込む僕の顔は、戸惑いの中にも隠しきれない喜びが滲んでいた。
「イザベラ、君から僕の屋敷の庭と同じ香りがするけど……もしかして?」
わざわざ答えなんて聞かなくても手ずから作った物なのだから分かる。けれど僕はどうしてもイザベラの口から答えを聞きたくてそう訊ねてみた。
「……っ……ポプリですわ」
咄嗟に胸ポケットを押さえる仕草をしたイザベラは一度だけ唇をキュッと噛んで、恥ずかしそうにそう答える。
「――そっか。気に入ってくれたんだ?」
目の前でコクンと小さく頷くイザベラの姿に、答えを聞き出した僕まで頬が熱くなる。お互い今はこんなに距離を隔てた場所にいるのに、故郷である領地の香りがするのは不思議な気分だ。
「本当はいつも通り花を贈りたかったんだけど、祝福の分を節約しないと僕の収入だけではこっちへの旅費が足りなくて……情けない婚約者でごめん。それに僕の我儘で君のことを不安にさせた。頼りがいのある婚約者でいたいのに上手く行かないなぁ」
僕がそう格好悪い謝罪の言葉を口にすると、イザベラは俯いて再び頭を僕の胸の辺りに押し付けた。怒らせたかと内心ヒヤッとした僕に、イザベラは緩く頭を左右に振って、顔は見えないけれど否定の意志を示してくれる。
「……あなたはいつでもそればっかり。私は、あなたが情けなかったところなんて知らないわ。でも、」
あ、拙いな、イザベラの“でも”が出た。僕は幼少の頃からの慣れで瞬時に次の言葉に身構える。
「次に同じ失敗をしたら婚約破棄ですわよ?」
この言葉をイザベラの口から聞くのは何度目か分からないけれど、そのたびに僕は謝って、許されて、また間違えて、許されてを繰り返してきた。我ながら学ばないなぁとは思うのに、僕はこのやり取りが嫌いではない。
「それは困るな。僕みたいな情け「破棄ですわよ?」」
若干低い声で訂正が入ったので慌ててやり直す。
「僕みたいな土いじりが好きなだけの冴えない男の奥さんになってくれる女性なんて、きっと領内中探したって君だけだ。だから許してくれますか?」
そういつものように許しを乞うていたとき、ふと視線を感じた気がして、イザベラを見下ろしていた視線を周囲に走らせた――と。僕達のいる校門の少し離れた校内から、こちらに向かって貫くような厳しい視線を投げかける男子生徒が見えた。
金糸のような見事な金髪を後ろに流して一つに結わえた、切れ長で涼しげな青い瞳にそぐわないような苛烈な視線。
「もう、仕方がないから許して差し上げ、え、あの、ダリウス?」
何となくだけれど――その男子生徒の視線にピンと来た僕は、一度離したイザベラの身体を思わず再び抱き寄せる。
急に抱き締められたイザベラが腕の中で戸惑った声を上げるけれど、僕はさらに少し抱き締める腕に力を込めた。
すると相手の男子生徒は僕達を視界に捉えたまま、さぞや女性にモテるであろう綺麗な顔をさっきよりも不愉快そうに顰める。
男女共に言えることだけれど、美形の不愉快だとか不機嫌だとかを表すときの表情は整っているほど凄みを増すな……イザベラも含めて。
王家の血筋の人間は、代々魔力の強い者だけを掛け合わせ続けているせいで青い血をしているという都市伝説を聞くけれど、あながち嘘でもなさそうに思えた。それくらい全てにおいて規格外の雰囲気を纏っている。
「……ごめんね、ベラ。今だけこうさせて」
そう胸に抱き留めたイザベラに懇願すると、イザベラは白い頬をほんのり染めて僕を見上げる。よくよく見れば頬だけじゃなく耳まで染めるイザベラに、急に正気に戻った僕までつられてしまう。
しまった、これだと男子生徒の出方を見るどころじゃない――!!
でも多分あの男子生徒がイザベラが手紙に書いていた人だよね? 如何にも高貴な血筋の人と言うか、もう見たまま王子様っぽいし、せめて何か向こうの出方を見て対策でも――……って、うん?
「ねぇ、あの、イザベラさん? 気のせいかもしれないんだけど……学園の中から誰か君を呼んでる気がするんですけど」
自業自得とはいえ、イザベラの可愛さに追いつめられていた僕の耳に、天からの救いとも思える複数の女性の声が聞こえてきたのだけれど……。
「くっ、せっかく良い雰囲気でしたのに……! いいえ――こうなったら逃げるまでですわね。行きますわよダリウス!」
最初の方の言葉がイザベラの可愛さに気を取られていたせいで聞き取れなかったものの、腕の中にいたイザベラはそれまでの儚げだった印象から一転、キッと顔を引き締めてそう言った。
「え? 逃げるって、イザベラ、でもあの呼んでる子達って君の同級生なんじゃないのか?」
「そうですけれど、良いから早く私の言う通りになさい! 今ここであの方達に捕まったら逃げられませんわよ!」
「捕まるってそんな、大袈裟だよ。せっかくここにいるんだし、いつもイザベラがお世話になってますとか挨拶、」
「いいえ。王都へ出てきてから誰かの世話になったことなど、学園の入学手続き位のものですもの。だから彼女達への挨拶の必要もありません。それにもし私が頼るとしたらそれは……その――ウス、だけよ……」
「さっきから何だか声が小さいよイザベラ」
「~~~っもう、馬鹿! 良いからこちらについていらして!」
そう言うや否や、イザベラは今までのしおらしさはどこへやら。理由を訊こうとする問いかけも待たずに僕の手を握ると、学園とは反対の方角へ踵を返して駆け出す。
というか、そもそも逃げ出さないといけない関係の同級生って何なんだろうか? もしイザベラが手紙の彼女達に虐めにでも遭っているんだとしたら見過ごせないんだけど。
とはいえ、イザベラはもう走り出しているし、僕だけ立ち止まる訳にもいかない。僕はイザベラに手を引かれながら慌ててあの男子生徒が立っていた方へ視線を巡らせたけど、そこにはもう誰もいなかった。