今年7月、津久井やまゆり園で発生した障害者殺傷事件から丸2年をむかえたが、植松聖容疑者がいまも犯行を正当化し、「生産性のない人間は生きる価値がない」という主張を繰り返していることが報道された。
また同じ7月には、自民党所属の衆議院議員である杉田水脈が「〔LGBTは〕子供を作らない、つまり『生産性』がない」と発言し、おおきな批判を浴びた(「LGBTの支援の度がすぎる」『新潮45』、8月)。
多くのひとが、「生産性」という言葉からナチスの優生思想とのかかわりを指摘したが、しかし、その指摘は少し的はずれであるように思う。
まず「生産性」とは第二次安倍政権になってから、マスメディアに広く登場するようになった言葉ではないか。
くわしくいうと、「生産性」は経済用語のひとつにすぎなかったが、2015年6月に安倍政権が成長戦略として「生産性革命」を打ち出して以来、新聞やテレビに登場し、私たちの日常生活でもよく耳にする言葉になった。
たとえば、働き方改革法案が国会で審議された今年、次のような話を耳にしなかっただろうか。日本は少子高齢化で労働人口が減少していく。にもかかわらず日本人一人当たりの生産性は低い。生産性をあげるために、働き方改革が必要なのだ、と。
差別を正当化するために政治の言葉が使われることがある。たとえば、「同和利権」や「在日特権」といった差別語が広く用いられたのは、ちょうど新自由主義が唱えられた時期だった。
つまり、それらは、不当な特権をもつ官僚や公務員の給料を下げよ、利権まみれの業界を自由競争化しろ、といったネオリベのバッシングそのままなのだ。杉田はもちろんだが、植松も自らの差別を政治的に正当化している。
植松は「意思疎通が取れない人間」を「心失者」と呼び、「重度・重複障害者を養うことは、莫大なお金と時間が奪われます」と主張している(『開けられたパンドラの箱』創出版、7月)。
報道によれば、接見に来た人物に対して「日本の借金がいくらだから、日本はやばくて、それでも生産性のない人たちにお金をいくら回していて」とまるで政治家のように語ったというのだ。
誤解を恐れずにいえば、「生産性」という言葉で差別を正当化する植松や杉田は、安倍政権と同じ地平にある。
ただ異なるのは、「少子高齢化対策のために生産性をあげよう」という安倍政権から、杉田や植松は「子供の生産性をあげろ」「生産性がないものは必要ない」という暗黙のメッセージを読みとり、それを発言し、実行してしまったことにある。
もちろん、これは安倍政権が障害者差別やLGBT差別を許しているということをいっているのではない。むしろ、差別を積極的に解消せざるをえない立場にある。