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東京のITベンチャー界をざわつかせていた男が宮崎の大学講師に?
宮崎大学 地域資源創成学部 講師 土屋有氏
小御門 綾
2018/07/27 (金) - 08:00

今から5年前、東京のITベンチャー界をざわつかせていた男が故郷・宮崎に帰ってきました。現在は、宮崎大学・地域資源創成学部の講師として、大教室で、研究室で、時にはゼミの飲み会で、膝を交えて語り合い、学生たちを指導しています。その人は土屋有さん、38歳。Jターンしたきっかけ、「週末婚」を解消するまでの経緯、移住後の変化についてお話を聞きしました。

「かっこいい大人」を目指しITベンチャーへ

インタビュー場所は土屋さんの研究室。中からウクレレの音色が聞こえ、ドアを開けると浴衣姿の先生が。その日は1カ月に1回土屋ゼミで設けられている「着物デー」。彼自身が最近、着物に凝っていることに加え、学生たちに和服を着る機会がほとんどないこと、キャンパス内でアジア系の留学生が民族衣装を着ていることなどから、「俺たちも着物を着よう」とこの日を決めたといいます。

それにしても、髪を後ろで結わいた様子は、着物でなくても、大学の先生らしくない雰囲気。普段はちょんまげ姿に短パンで講義を行っている土屋先生、学内で学生に間違われることもしばしばあるそうです。

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土屋さんは宮崎県都城市出身。高校生の時に「ベンチャービジネス」という言葉を知り、「インターネットでベンチャービジネスをやりたい」と東京の大学へ。経営情報学、マーケティングを専攻しました。大学入学年の1998年は、「第3次ベンチャーブーム」の頃。96年にヤフージャパンがサービスをスタートし、アメリカのシリコンバレーにならう形で、渋谷を「ビットバレー」と呼び、多くの人がインターネットによる世界の変化を感じはじめていたときでした。

「僕にとっての『ベンチャー』は、かっこいい大人のイメージでした、純粋に。お金儲けじゃなくて、社会で何か新しいものにチャレンジして、大きな成果を出して、社会から評価されるような存在をベンチャービジネスだと思っていました。新しい仕組み、イノベーションを興すという存在です」

それに加え、無限の広がりや自由な未来を想起させるインターネットに可能性を感じていたといいます。

そんな土屋さん、学生時代にインターネット広告の会社に勤務し、学生の身分のまま取締役に。その後も「インターネットでベンチャービジネス」を実践し、数々の案件でマーケティングコンサルタントとして活躍。医療、介護業界の課題解決にインターネットマーケティングを使う仕組みを考え、起業も果たしました。まさに「有」言実行です。

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26歳の時に大学の同級生と結婚し、仕事もプライベートも充実した日々を送っていました。ご本人は当時を振り返り、こういいます。
「僕、調子に乗ってたと思いますよ。なんでもできるんじゃないかって思ってた気がしますね。ITベンチャーをやって、万能感を持っていたんでしょうね」

口蹄疫、東日本大震災、友人の「出馬」…

その頃、東京在住の宮崎県出身者が集まり、「みやざきわけもんフォーラム」を作ります。「わけもん」とは宮崎弁で「若者」の意味。宮崎を離れて10年近くが経ち、今の地元の姿を知りたくなった土屋さん。東京にいながら、宮崎と関われる方法を宮崎出身者同士で知ろうと、宮崎から東京に来る人にアポをとっては、その人を囲んで飲み会を開いていました。

初めは「故郷のために」という思いではありませんでしたが、それが一転したのは2010年の春。宮崎で発生した「口蹄疫」の流行がきっかけでした。牛、豚などが30万頭近く殺処分され、畜産県・宮崎は大打撃を受けました。

「あの瞬間にふるさとは宮崎だってハッと思ったんです。口蹄疫のニュースがテレビで報じられているのを見て涙が出る。自分のふるさとが傷つけられている、傷ついているという思いで。そのことに自分自身がびっくりして、週末に募金箱をもって東京ドームに立たせてもらったりしていました」

その後、2011年に東京で東日本大震災も経験。東京以外での生き方もあるのではないか、と考えはじめます。「ふるさと」「日本」そして、「自分の役割」について。
「僕らに何かできることはないのかと、僕らの存在意義に目が向いたのがこの頃でした」

2013年春、もう一つの出来事が起こります。それは「みやざきわけもんフォーラム」で一緒に活動していた、現・日南市長、崎田恭平さんの出馬表明。崎田さんが県庁職員で霞が関に出向しているときに知り合い、「公務員でこんなに頑張っているやつがいるんだ」と素直に感心したといいます。県庁をやめ市長選に出ると聞いたときは、周囲の他の人と同じように、「落選するかもしれないな」と思っていた土屋さん。それでも応援しようと、選挙運動の第一声に立ち会うために日南に出向きました。

そこで予定外に応援演説をした土屋さんに、まばらに集まっていた人たちの一人が「あんたたち、孫の世代が頑張って」と言い、握手を求めてきたのだそうです。

「その頃、『面白法人カヤック』という会社で仕事をしていて、鎌倉のマンションに住み、家庭菜園をやったり、近くの海に行ったりしつつ、六本木で遊んだりもしていて。楽しいし、おもしろかった。でも、『俺、こっちかも』って思ったんです。僕の居場所、こっちかも、宮崎かもと」

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鎌倉の自宅に帰ると、夫の「異変」を即座に妻は感じ取ったそう。「奥さんが僕の顔を見るなり、『目がキラキラしてる。なんかあった?』と」。妻とのこのやりとりによって、「これだ」と確信に変わり、宮崎に帰ることを決意します。

「奥さんが話を聞いてくれ、言語化されました。だから僕を後押ししてくれたのは、結局、奥さんのあきらめた顔でした」

「週末婚」解消のため妻へ本気の「プレゼン」

すぐに宮崎へ。コンサルティング会社を立ち上げ、2013年5月には宮崎のIT企業「アラタナ」に役員として迎えられます。当初は土屋さんだけが宮崎で暮らし、週末に鎌倉に戻る「別居婚」。妻は東京生まれの東京育ちで、会計のスペシャリストとしての仕事もあったため、これが夫婦のベストな選択に思われました。

けれど、しばらくして奥さんから「結婚している意味がわからない」と一言。さらに、「もう、わかった、行くよ」と。

彼女のその気持ちが変わらないうちに、なるべく早く宮崎に来てもらおうと、新居を探しつつ、「カモン宮崎」という妻への資料を作り、「ガチでプレゼンしました」。宮崎市のある街に引っ越した場合、どんな文化施設があるか、公園、ビーチ、スーパー、繁華街は何キロ圏内にあるかなど、写真とともに提示。内覧した物件の動画も撮影したそうです。

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思いは通じ、彼のJターンから3カ月後には妻も宮崎へ。納得して来てくれたわけですが、宮崎にいることをストレスに感じてほしくないという気持ちから、最初は宮崎‐東京のオープンチケットを冷蔵庫に貼り、「嫌だと思ったら、パッと飛行機に乗って帰っていいよ」と話していたそうです。そして、そのチケットは使われないまま、2年が過ぎ、今に至っています。

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国立大学法人宮崎大学 地域資源創成学部 講師

土屋 有(つちや ゆう)さん

1980年宮崎県都城市生まれ。私立都城高校卒業後、大学進学のため東京へ。在学中から、インターネット広告の会社に勤務し、取締役に就任。その後もITベンチャー企業数社で役員を務め、ウェブ制作会社「面白法人カヤック」では事業部長に。在職中に多摩大学大学院でMBAを取得し、修士論文で学内の「優秀論文賞」を受賞する。宮崎に戻り、「アラタナ」執行役員を経て、現職。

何かを捨てる必要はない、「and」がいい

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