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先日、対馬の豆酘にある浅藻という地が「卒土」とも呼ばれていたと投稿いたしましたが、そこは海辺にあり、「卒土の浜」とも呼ばれ、古来より葬送の地でもありました。追記しますと、豆酘の古い慣わしとして、死者を埋葬してから7日経つと、卒土の見える所まで行き、「卒土見に来ました」と唱えて、後向きに物を投げて帰ったそうです。これは卒土の地に鬼神を意識していた遺習のようでもあり、イザナギノミコトが黄泉の国にイザナミを慕って行き、鬼に追われて逃げ帰った時の仕種にも通じるものがあるとのこと。(永留久恵著『対馬の歴史探訪』より)
最近ふと「外ヶ浜(そとがはま)」という地名がどこかにあったことを思い出し、ネット検索しましたら、青森県津軽半島の陸奥湾側に「外ヶ浜」がありました。ウィキペディア情報ではありますが、古来より陸奥湾沿岸や日本海沿岸を含めて「外ヶ浜、外浜、外の浜」等と呼んでいたそうで、興味深い内容でしたので、一部抜粋引用します。
(前略) 地名の由来は、それまで続いていた陸地が尽きる場所、国土の終端を意味する言葉である「率土の浜(そっとのひん)」と考えられている。
平安時代には、「喜界が嶋(鬼界ヶ島)と外が浜」は国の辺境を指す代名詞であり、穢れの思想が強くなった中世においては日本と相容れない鬼(暗に中央に同化しない蝦夷
(アイヌ)達を蔑視して指した)の住まう地として解釈されることもあった。 (中略)
中世になって国郡制が本州北端にまで及んだ段階で、津軽三郡ないし津軽四郡と称されて「津軽」の名を冠された地域は、津軽鼻和郡、津軽平賀郡、津軽田舎郡および津軽山辺
郡だけであって、これらの地域には津軽半島北部は含まれておらず、外浜、西浜という特殊な地域に編成され、むしろ津軽の先に広がる渡島(わたりのしま)のうちと考えられる。
鎌倉時代には北条氏の得宗領であり津軽生え抜きの領主から地頭代官に抜擢された津軽安藤氏が支配した。鎌倉期においては夷島(えぞがしま)流刑は、いったん京都の検非違使
庁に逮捕された強盗・海賊を関東に渡し、幕府の手で夷島(現 北海道)に流すという流刑であるが、その手前の外浜も中世の日本国の東の境界と意識され、流刑の対象地であった。
戦国時代には蠣崎氏、北畠氏、南部氏に三分され、天正13年(1585年)には津軽氏領となった。
江戸時代を通じて弘前藩領に属し、藩の行政単位として北部に「外浜上磯遣」が、南部に「外浜下磯遣」が置かれた。北部の津軽海峡に面した地域には寛文9年(1669年)の頃、
推定で約200人のアイヌ民族が住んでいたが、宝暦6年(1756年藩士乳井貢らによる)と文化6年(1809年)の2度にわたって和人として人別帳に載せる弘前藩の同化政策によって
消滅した。 (略)
ここで気が付いたことは、日本海側における日本列島沿いでは北と南のはずれにあるような地に、同じ地名と似たような習俗があるということです。対馬と津軽は明らかに直接、間接的に繋がっていたのではないかと思います。それが中世からなのか、魏志の時代からなのか、人の往来が多くなるに従って形成されていったのかもしれません。
話はちょっとそれますが、江戸時代に流行った(?)縁切寺がありますが、その縁切寺は追いかけてきた夫に連れ戻されそうになった時、自分の身につけている物(下駄や櫛)等を寺域内に投げ込むだけでも、縁切が成立したそうです。アジ―ルに逃げ込んだことで、「無縁」の状態になったと思われます。 面白いですね・・・。
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