野村克也さんは、「野球しかできない男が一人になって、妻という存在の大きさを感じる」と言う。(写真:福知彰子) 捕手として活躍しただけでなくバッターとしても数々の記録を打ち立て、4球団で監督を歴任した野村克也さん。家計に限らず子供の教育も近所付き合いも、すべて妻任せだったという。その野村さんに、一人の暮らしとなってからの生活、終活などについてうかがった。2回に分けて紹介する。
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──2017年12月8日に虚血性心不全で妻の沙知代さんが亡くなって、半年以上が過ぎました。
人間って厄介だなって思うのは、そばにいた時は何とも思わなかったのに、いなくなるとその存在の大きさを痛いほど感じること。家に帰って話をする人がいないのがこんなに寂しいとは、思いもしなかったね。
家にたくさん写真が飾ってあるから、それによく話しかけています。「何で俺より先に逝くんだよ」って愚痴ったりとか、野球を見ながら色々とぼやいたり。サッチーさんは野球に全く興味がなくて、何も知らないから野球の話しても仕方ないんだけど、いつも聞き役に回ってくれていたんだと亡くなってから気付きました。
■先に逝くとはまったく思っていなかった
──沙知代さんの生前、夫婦で「終活」などはされていたのですか?
何の準備もしていませんでした。ただ、サッチーさんは当時85歳で、僕より3歳年上。互いにいい年だから、いつ何があるか分からないという不安はあった。事あるごとに「俺より先に逝くなよ」と言っては、「そんなの分かんないわよ」と返されていました。でも本当に俺より先に逝ってしまうとは夢にも思わなかったんだよね。女性の方が総じて強いじゃない、平均寿命も長いし。
(写真:福知彰子) 夫婦生活は45年。自分を中心に世界が回っているような人だから、周囲からは大変だと思われていたかもしれないけど、サッチーさんが家のことを全部やってくれたから、僕は野球に没頭できた。家計管理、子育て、人付き合いなど、暮らしに関わることは全てサッチーさん任せ。いかに恵まれていたかが分かりました。
──今は息子の克則さん夫妻が近くにいて、生活関係のことを手伝ってくれているとか。
「スープの冷めない距離」というのかな、僕の自宅の敷地内に克則が家を建てたおかげで、一人残されてからの孤独や不便がだいぶ軽減されているように思います。
実は、克則がうちの敷地内に家を建てたいと言ってきた時、僕は反対したの。広々とした庭が好きだったのに、そこに家が建ってしまったらせっかくの景色が台無しだと。でもサッチーさんは二つ返事で「いいわよ」と。サッチーさんがそういえば従うしかない。内心は嫌だなと思っていたけれど、今は同じ敷地にいてくれてよかったって心から思う。結果的にはサッチーさんが大正解だったね。
──夫婦で意見が異なるといつも野村さんが引いていた?
そうよ、反対したって言うこと聞く人じゃないし。サッチーさんには怖い人も、怖いものも何もない。いつも自分の生きたいように生きていた。あの人の夫が務まるのは僕だけだと思うよ。
──運命的な出会いは、どんなふうに訪れたのでしょうか?
南海ホークス(現・福岡ソフトバンクホークス)時代、遠征で東京に来るたびによく行ってた中華料理店で偶然一緒に居合わせたの。サッチーさんは僕のことを全然知らなかったんだけど、店のママに紹介されてプロ野球選手だと知ると、その場で野球少年だった息子の団に電話をかけた。
(写真:福知彰子) 「野球の野村さんって知ってる?」と聞くと、「すごい人だよ」と団が答えたらしい。その日の試合に親子を招待したことがきっかけで、付き合うようになった。
当時僕は35歳で、先輩に紹介された社長令嬢と結婚していたのだけれど、向こうの浮気が原因で別居状態。帰る所もなかったし、他に女性関係もゼロだったから、東京遠征に来るたびサッチーさんと食事に行く付き合いが続いていた。でも結婚するなんて考えもしてなかったよ。
■「何とかなるわよ!」に救われる
──それは意外です。結婚に至ったのはなぜ?
子供ができたからね。責任を取らなきゃならない。向こうにしてみても、俺にほれたというより自分の2人の息子とうまくやってくれると思ったんじゃないかな。
でもそれからが色々と大変だった。一番強烈な思い出は、20年以上世話になった南海ホークスの監督をクビになったこと。まだ前妻との婚姻関係が解消されていない中、サッチーさんと暮らしていることをスポーツ新聞にすっぱ抜かれちゃった。愛人問題として大バッシングを受けて、公式戦を2試合残して解任されてしまった。
当時、僕は42歳で、克則はまだ4歳。「もう野球界に戻れないかも……」と落ち込んでいると、サッチーさんが「大阪なんて大嫌い。東京に行こう!」と言い出した。そうは言っても、東京なんて何の縁もないし、仕事のつてもない。愚痴ばかりこぼす僕にサッチーさんは大声で、「何とかなるわよ!」。
マイナス思考でいっぱいだった僕の心に、その一言はずしんと響いたね。自分で会社を経営するほどのやり手だったから、東京で仕事を見つけて稼ぐ自信があったのだろうけど、僕もその一言で「何とかなるかも」という気持ちになった。それからも落ち込んだり、困難に直面したりするたびに、サッチーさんの「何とかなるわよ」が僕を救ってくれたと思います。
──そうでしたか。今でも支えになっている沙知代さんの言葉は他にもあるのでしょうか。
「死ぬまで働け」かな。とにかくずっと働けと言われ続けていたからね。一人になってみると、仕事があってよかったとしみじみ思うよ。何もする気にならなくても、仕事があれば外に出かけるし、人とも話すからね。
(聞き手:日経マネー 佐藤珠希)
[日経マネー2018年10月号の記事を再構成]

著者 : 日経マネー編集部
出版 : 日経BP社
価格 : 730円 (税込み)
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