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2018年09月11日08:00
答えは大体ラモスにある!
大坂なおみさんのテニス全米オープン制覇は、日本社会にも少なからぬ影響を与えました。長年、目の前にありながら気づかぬふりをしてきた問題、「日本人とは」という固定観念に大坂さんの快挙は改めて考えるキッカケを与えたと思います。そして、その固定観念に囚われるあまり、大坂さんの快挙を素直に応援することを憚る、あるいは大坂さんの快挙を無縁なものとして遠ざけるような人を少なからず浮かび上がらせたように思います。
確かに「違和感」がないと言えばウソになります。大坂さんの見た目、話す言葉、住んでいる場所は、自分自身とは少し異なるところがあります。「同じかな?」と問い掛けたとき、違うところが目立ち、違うところが気になってしまう心の動きは、それはもうどうしようもないことだと思います。それは日本の環境がそうさせるものであり、そのこと自体に罪も間違いも恥もないと思うのです。
自分と似たような姿の、自分と同じ言葉を話す人に囲まれて育ったことが、そうした世界を当たり前と思わせている。「環境」に罪や間違いや恥を追及されても困るでしょう。こう言うと日本社会そのものが遅れているとマウントを取ってくる人がいますが、そういう人だって突然「巨大な目が発光し、両手はカニのハサミのような形で、総合的に言ってセミにソックリ」な何者かが現れたらやはり戸惑うでしょう。本当に進歩的なのであれば「おっ、バルタン星人やな!同じ宇宙の仲間!」と即応すべきなわけですが。
ただ、そうした戸惑いは慣れ・不慣れの問題でしかなく、やがて解消していくものです。見た目はよくよく考えれば全員違うのです。肌の色も人それぞれですし、もっと日焼けしている人だってたくさんいるでしょう。日本語はたどたどしいかもしれませんが、「流暢なだけで話がまるで通じない輩」よりよっぽど通じ合える気がしますし、住んでいる場所なんてどこだっていいじゃないですか。全部表面的なことで、本質ではありません。
↓ラモスを見よう、何もかも全部違うぞ!
見た目、まるで違う!
色、何となく違う!
言葉、わりとカタコト!
そもそも気質がまったく違う!
「大和魂」とかワシら言わんし!
住んでいる場所が国内ってだけ!
僕はこの手の話題において、「日本人かどうか」は本当に大事なことではないと思っています。特にスポーツに限定するならば「同じチームであるかどうか」だけが唯一の境目でしょう。それは敵チームを憎むという意味ではもちろんなく、どちらの側に立ってゲームに臨むかという話です。自分のチームとは協力し、自分のチームは応援する。それがゲームの楽しみ方であり、「応援」の楽しみ方です。
なのに、ことさらに「日本人かどうか」を考えてしまうのは、「自分のチーム」を決めるメジャーな理由のひとつが「国」だからです。ただそれは、高校野球で「自分の郷里の高校」を応援するように、国別対抗戦では何となく「自分の出身国」を応援するようになっているというだけの話。排外主義とか差別とかで日本人を求めているのではなく、別に理由さえあれば何でもいいのです。「国」や「都道府県」は一番大事な理由ではないのです。
僕が思う一番大事な理由は「親しみ」です。
「親しみ」こそがより根っこに近い理由であり、「同じ国」「同じ都道府県」は親しみを抱かせる要素に過ぎません。逆に言えば、親しみさえあればそれ以外のことは小さな話です。親しみは、ともに過ごした時間によって増していきます。親しみは、共感できるエピソードで増していきます。親しみは、恋心で増していきます。国籍が違っていても、見た目が違っていても、ほかの部分でより大きな親しみを見つけ出すことができます。同じ遺伝子を持つ家族よりも大切な他人と出会うことがあるように、どれだけ遠い出発点からでも親しみを見つけ出すことは可能です。
今、大坂さんは「日本の選手」として大会に出場しています。彼女にはほかの選択肢もあったでしょうが、何らかの理由で「自分のチームは日本だな」と思い、日本を選んでいるのです。その気持ちは、それだけで十分に「親しみ」を抱かせる理由になると思うのです。彼女のご両親や育った場所、学んだテニスを考えたとき、「この才能はアメリカチームに属するべきだ」と言われたら僕はうなずくしかありません。日本のテニスは彼女の成長にあたって修造チャレンジほどの貢献(※雀の涙ほどの貢献、の意)しかしていないでしょう。
それでも彼女は日本チームを選んで戦っている。それは選択肢がなく成り行きでそうなったケース以上に、親しみを感じさせるものではないでしょうか。そんな彼女の快挙を喜ぶことは「日本人だから」ではなく、親しみを持てる相手だからなのです。あまりに「同じ国=同じチーム」という意識が強いから人種や国籍で語ってしまいがちですが、プロ野球やJリーグではクラブ単位・チーム単位で考えるように、国別対抗戦でも本質は「チーム」です。自分のチームの選手は応援するし、自分のチームを選ぶときには親しみを抱いた選手がキッカケになるでしょう。
「メッシが好きだから、自分のチームはアルゼンチン!」という人がいたっていいし、いるのが自然なのです。出身国のチームを腐す気持ちまでは僕には理解ができませんが(※自分のルーツをそんなに嫌えるものかな?の意)、単に同じ国の人という以上に愛すべき「推し」がいたって、何の不思議もないのです。そのとき、自分のチームは、自分の出身国のチームではなく、自分の「推し」のチームになるのです。「親しみ」はルーツに勝るのですから。
↓30年くらいラモス見つづけたら、ラモスにさえ親しみがわいてきたぞ!
プライベートで会ったら、絶対遠ざけるタイプ!
こんなん絶対絡まないし、絡みたくない!
それでもたくさんの時間とたくさんの思い出が、ラモスを身内と思わせるほどに「親しみ」を抱かせてきた!
「国」ではなく「チーム」、「ルーツ」よりも「親しみ」と認識していれば、こうしたケースで戸惑うことはなくなります。仮にヨソの国にルーツがある選手でも、本人が「私のチームはココです」と思うものと、見る側の「僕のチームはココです」と思うものが一致したなら、それはもう相思相愛・同じチームの仲間なのです。国別対抗戦においては、原則として「国籍」と「チーム」は一致するでしょうが、一致しないケースがあっても構わないのです。
2019年に日本でワールドカップが開催される15人制のラグビーなどは、ルーツを持たない国においても一定期間居住していれば代表選手となることができます。そこにいちいち「日本人じゃない」と言ってもつまらないでしょう。チームを決めるルールが国籍縛りじゃないんですから。2015年にともに歓喜を味わったアマナキ・レレイ・マフィに今さら「トンガでは?」と言うのは、何だかとても残念なことだと僕は思うのです。2015年の歓喜では親しみは足りませんでしたか、と。問題を起こしたら即排除ですか、と。
逆に国籍を代えて別の国を「自分のチーム」と思う選手がいたとき、それでもう完全に応援しないのかと言われたら、それもまたヘンじゃないですか。そこに「親しみ」があるならば、別チームの選手になっても勝手に応援したらいいと思うのです。よしんば大坂さんが将来的にやっぱり「アメリカチーム」や「ハイチチーム」に属するようなことがあったとしても、それはそれとして今まさに育っている「親しみ」に従って、応援したらいいと思うのです。「移籍して出て行った選手には必ずブーイング」みたいな文化もあるのかもしれませんが、「別れても好きな人」って言うでしょう。せっかくイイ機会を得て親しみを持てたのですから、それを大事にしたらいいのです。
戸惑ったときはラモスを思い出せばいいのです。
ラモスのルーツはブラジルど真ん中です。
ラモスの見た目はブラジルど真ん中です。
「ラモス」も「ルイ」もどっちも異国風です。
ラモスは20歳のとき日本にきたばかりでした。
ラモスが日本にきたのは仕事のためでした。
「金を稼いで、1年で帰ろう」と思っていました。
「日本人かどうか」で言えば、一番遠いところからラモスはきました。
それでもラモスはいつしか日本に根付き、
見ている側もラモスに対して親しみを抱き、
ついに日本サッカーの殿堂入りも果たしました。
全員じゃないかもしれませんが、ラモスをチームの仲間と思っているのです。
ラモスにできたことなら誰にだってできる。
ラモスより遠い出発点はそうそうないはずです。
ラモスの出発点がティーグラウンドとすれば、大坂さんはすでにグリーンに乗ってるくらいの話です。
ラモスならセリーナより先にキレていたでしょう。
セリーナがキレるのを見て余計にキレていたでしょう。
セリーナにラケットを投げてラケットが壊れたでしょう。
中継を見ながら「うへー、コイツ、ワシらと根本的に違う」と思ったでしょう。
ラモスを思えば、ちょっとの違和感を気にすることが無意味に思えてきませんかね?
ラモスは日本人と同じになったのではなく、ラモスのままチームメイトになった!
大坂なおみさんのテニス全米オープン制覇は、日本社会にも少なからぬ影響を与えました。長年、目の前にありながら気づかぬふりをしてきた問題、「日本人とは」という固定観念に大坂さんの快挙は改めて考えるキッカケを与えたと思います。そして、その固定観念に囚われるあまり、大坂さんの快挙を素直に応援することを憚る、あるいは大坂さんの快挙を無縁なものとして遠ざけるような人を少なからず浮かび上がらせたように思います。
確かに「違和感」がないと言えばウソになります。大坂さんの見た目、話す言葉、住んでいる場所は、自分自身とは少し異なるところがあります。「同じかな?」と問い掛けたとき、違うところが目立ち、違うところが気になってしまう心の動きは、それはもうどうしようもないことだと思います。それは日本の環境がそうさせるものであり、そのこと自体に罪も間違いも恥もないと思うのです。
自分と似たような姿の、自分と同じ言葉を話す人に囲まれて育ったことが、そうした世界を当たり前と思わせている。「環境」に罪や間違いや恥を追及されても困るでしょう。こう言うと日本社会そのものが遅れているとマウントを取ってくる人がいますが、そういう人だって突然「巨大な目が発光し、両手はカニのハサミのような形で、総合的に言ってセミにソックリ」な何者かが現れたらやはり戸惑うでしょう。本当に進歩的なのであれば「おっ、バルタン星人やな!同じ宇宙の仲間!」と即応すべきなわけですが。
ただ、そうした戸惑いは慣れ・不慣れの問題でしかなく、やがて解消していくものです。見た目はよくよく考えれば全員違うのです。肌の色も人それぞれですし、もっと日焼けしている人だってたくさんいるでしょう。日本語はたどたどしいかもしれませんが、「流暢なだけで話がまるで通じない輩」よりよっぽど通じ合える気がしますし、住んでいる場所なんてどこだっていいじゃないですか。全部表面的なことで、本質ではありません。
↓ラモスを見よう、何もかも全部違うぞ!
日本サッカー殿堂 加藤久氏 ラモス瑠偉氏らに記念の盾 #nhk_news https://t.co/MXUI4oqqPj
— NHKニュース (@nhk_news) 2018年9月10日
見た目、まるで違う!
色、何となく違う!
言葉、わりとカタコト!
そもそも気質がまったく違う!
「大和魂」とかワシら言わんし!
住んでいる場所が国内ってだけ!
でも、ラモスは仲間な気がする!
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僕はこの手の話題において、「日本人かどうか」は本当に大事なことではないと思っています。特にスポーツに限定するならば「同じチームであるかどうか」だけが唯一の境目でしょう。それは敵チームを憎むという意味ではもちろんなく、どちらの側に立ってゲームに臨むかという話です。自分のチームとは協力し、自分のチームは応援する。それがゲームの楽しみ方であり、「応援」の楽しみ方です。
なのに、ことさらに「日本人かどうか」を考えてしまうのは、「自分のチーム」を決めるメジャーな理由のひとつが「国」だからです。ただそれは、高校野球で「自分の郷里の高校」を応援するように、国別対抗戦では何となく「自分の出身国」を応援するようになっているというだけの話。排外主義とか差別とかで日本人を求めているのではなく、別に理由さえあれば何でもいいのです。「国」や「都道府県」は一番大事な理由ではないのです。
僕が思う一番大事な理由は「親しみ」です。
「親しみ」こそがより根っこに近い理由であり、「同じ国」「同じ都道府県」は親しみを抱かせる要素に過ぎません。逆に言えば、親しみさえあればそれ以外のことは小さな話です。親しみは、ともに過ごした時間によって増していきます。親しみは、共感できるエピソードで増していきます。親しみは、恋心で増していきます。国籍が違っていても、見た目が違っていても、ほかの部分でより大きな親しみを見つけ出すことができます。同じ遺伝子を持つ家族よりも大切な他人と出会うことがあるように、どれだけ遠い出発点からでも親しみを見つけ出すことは可能です。
今、大坂さんは「日本の選手」として大会に出場しています。彼女にはほかの選択肢もあったでしょうが、何らかの理由で「自分のチームは日本だな」と思い、日本を選んでいるのです。その気持ちは、それだけで十分に「親しみ」を抱かせる理由になると思うのです。彼女のご両親や育った場所、学んだテニスを考えたとき、「この才能はアメリカチームに属するべきだ」と言われたら僕はうなずくしかありません。日本のテニスは彼女の成長にあたって修造チャレンジほどの貢献(※雀の涙ほどの貢献、の意)しかしていないでしょう。
それでも彼女は日本チームを選んで戦っている。それは選択肢がなく成り行きでそうなったケース以上に、親しみを感じさせるものではないでしょうか。そんな彼女の快挙を喜ぶことは「日本人だから」ではなく、親しみを持てる相手だからなのです。あまりに「同じ国=同じチーム」という意識が強いから人種や国籍で語ってしまいがちですが、プロ野球やJリーグではクラブ単位・チーム単位で考えるように、国別対抗戦でも本質は「チーム」です。自分のチームの選手は応援するし、自分のチームを選ぶときには親しみを抱いた選手がキッカケになるでしょう。
「メッシが好きだから、自分のチームはアルゼンチン!」という人がいたっていいし、いるのが自然なのです。出身国のチームを腐す気持ちまでは僕には理解ができませんが(※自分のルーツをそんなに嫌えるものかな?の意)、単に同じ国の人という以上に愛すべき「推し」がいたって、何の不思議もないのです。そのとき、自分のチームは、自分の出身国のチームではなく、自分の「推し」のチームになるのです。「親しみ」はルーツに勝るのですから。
↓30年くらいラモス見つづけたら、ラモスにさえ親しみがわいてきたぞ!
🇯🇵監督就任🇯🇵
— サッカーキング (@SoccerKingJP) 2018年2月8日
ビーチサッカー日本代表の監督にラモス瑠偉氏が就任! 2019W杯を目指す
🔻記事はこちらhttps://t.co/VHNL4FW0Yq
🗣編集部より
「#ラモス瑠偉 氏は、2005年に初めてビーチサッカー日本代表の監督に就任しました」 pic.twitter.com/2A6GxfxX2U
プライベートで会ったら、絶対遠ざけるタイプ!
こんなん絶対絡まないし、絡みたくない!
それでもたくさんの時間とたくさんの思い出が、ラモスを身内と思わせるほどに「親しみ」を抱かせてきた!
ラモスでさえ仲間な気がする!
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「国」ではなく「チーム」、「ルーツ」よりも「親しみ」と認識していれば、こうしたケースで戸惑うことはなくなります。仮にヨソの国にルーツがある選手でも、本人が「私のチームはココです」と思うものと、見る側の「僕のチームはココです」と思うものが一致したなら、それはもう相思相愛・同じチームの仲間なのです。国別対抗戦においては、原則として「国籍」と「チーム」は一致するでしょうが、一致しないケースがあっても構わないのです。
2019年に日本でワールドカップが開催される15人制のラグビーなどは、ルーツを持たない国においても一定期間居住していれば代表選手となることができます。そこにいちいち「日本人じゃない」と言ってもつまらないでしょう。チームを決めるルールが国籍縛りじゃないんですから。2015年にともに歓喜を味わったアマナキ・レレイ・マフィに今さら「トンガでは?」と言うのは、何だかとても残念なことだと僕は思うのです。2015年の歓喜では親しみは足りませんでしたか、と。問題を起こしたら即排除ですか、と。
逆に国籍を代えて別の国を「自分のチーム」と思う選手がいたとき、それでもう完全に応援しないのかと言われたら、それもまたヘンじゃないですか。そこに「親しみ」があるならば、別チームの選手になっても勝手に応援したらいいと思うのです。よしんば大坂さんが将来的にやっぱり「アメリカチーム」や「ハイチチーム」に属するようなことがあったとしても、それはそれとして今まさに育っている「親しみ」に従って、応援したらいいと思うのです。「移籍して出て行った選手には必ずブーイング」みたいな文化もあるのかもしれませんが、「別れても好きな人」って言うでしょう。せっかくイイ機会を得て親しみを持てたのですから、それを大事にしたらいいのです。
戸惑ったときはラモスを思い出せばいいのです。
ラモスのルーツはブラジルど真ん中です。
ラモスの見た目はブラジルど真ん中です。
「ラモス」も「ルイ」もどっちも異国風です。
ラモスは20歳のとき日本にきたばかりでした。
ラモスが日本にきたのは仕事のためでした。
「金を稼いで、1年で帰ろう」と思っていました。
「日本人かどうか」で言えば、一番遠いところからラモスはきました。
それでもラモスはいつしか日本に根付き、
見ている側もラモスに対して親しみを抱き、
ついに日本サッカーの殿堂入りも果たしました。
全員じゃないかもしれませんが、ラモスをチームの仲間と思っているのです。
ラモスにできたことなら誰にだってできる。
ラモスより遠い出発点はそうそうないはずです。
ラモスの出発点がティーグラウンドとすれば、大坂さんはすでにグリーンに乗ってるくらいの話です。
ラモスならセリーナより先にキレていたでしょう。
セリーナがキレるのを見て余計にキレていたでしょう。
セリーナにラケットを投げてラケットが壊れたでしょう。
セリーナを追いかけ回してコートを一周したでしょう。
試合後のインタビューでは再点火して掴み合いを始めたでしょう。
中継を見ながら「うへー、コイツ、ワシらと根本的に違う」と思ったでしょう。
それでもラモスは仲間な気がする。
いつの間にか、そんな気がしている。
ラモスを思えば、ちょっとの違和感を気にすることが無意味に思えてきませんかね?
ラモスは日本人と同じになったのではなく、ラモスのままチームメイトになった!
ラモスさんも母国にいらした母親の愛情があって、国籍を日本にしても変わらない今があるんじゃないかなって気が付かされました。
今回のなおみさんに
母親の環さんが、娘を慰めながら同時に優勝を喜んで抱きしめていましたネ。
Power of love!!