物議を醸すナイキの新キャンペーンは、アスリートの役割の変化を象徴する
ナイキの新しい広告キャンペーンが物議を醸している。人種差別に抗議してNFLの試合前の国歌斉唱の際に起立を拒否し、実質的にリーグを追放された元49ers選手のコリン・キャパニックを起用したからだ。「何かを信じるんだ」という強いメッセージは米国社会に潜む矛盾をあぶり出すと同時に、アスリートや彼らをサポートする企業の役割が変わりつつあることも浮き彫りにしている。
TEXT BY JASON PARHAM
TRANSLATION BY MAI INOUE
WIRED(US)
ナイキがブランドを象徴するキャッチフレーズ「Just do it」の30周年を記念して、新たな広告キャンペーンを開始した。テニスプレーヤーのセリーナ・ウィリアムズやプロスケートボーダーのレイシー・ベイカー、ナショナル・フットボール・リーグ(NFL)のワイドレシーバーであるオデル・ベッカム・ジュニアといったアスリートたちの白黒写真というインパクトのある広告だ。
なかでも物議を醸しているのが、NFLのサンフランシスコ・フォーティナイナーズ(49ers)の元クォーターバック、コリン・キャパニックを起用した広告だ。彼のアップの白黒写真に、「何かを信じるんだ。すべてを犠牲にすることになったとしても。(Believe in something. Even if it means sacrificing everything.)」という言葉を重ねてある。
[編註:キャパニックは2016年、人種差別への抗議であるとして試合前の国歌斉唱の際に起立することを拒否し、論争を巻き起こした。その後フリーエージェントとなり、どのチームとも契約していない]
この広告を開始した2日後に、ナイキはよりメッセージ性の強いCMを打ち出した。夢の実現のために大きな困難を乗り越えたアスリートたちの映像に、キャパニックがナレーションを乗せるというものだった。
キャパニックの起用は、当初から大きな反響を呼んだ。オンラインでもオフラインでも、現代の「リアクション文化」の集大成ともいうべき反応が巻き起こっている。
イデオロギーの境界線において、意見は賛否両論に分かれている。明らかに政治が絡む問題に対し、直接的ではないにせよ大企業が自らの立場を表明したことを、公然と批判する者もいる。ナイキがキャパニックの活動を支持しているとして、「#ImWithNike」「#ImWithKap」「#ImWithKaep」といったハッシュタグで賛同を示す支援者もいる。
映画監督のエイヴァ・デュヴァーネイ、ラッパーのディディ、俳優のマイケル・ケリーら著名人たちも、ナイキを応援するメッセージを発信している。一方、退役軍人や保守派らの一団は、その理屈に曖昧さは残るものの「ナイキ製品のボイコット」を呼びかけ、ナイキのシューズを燃やす動画をネット上に投稿している(動画がツイートされると一気に拡散し、パロディ動画が次々と登場した)。
主張するアスリートの存在は、ナイキという企業のDNAであり続けている。数十年にわたってスポーツのライフスタイル化に取り組んできたナイキは、アンドレ・アガシやマイケル・ジョーダンのように、ナイキの支援を受けながらスポーツ選手の服装規定に反抗したコートのなかの革命児や、ジョン・マッケンローのようなスポーツ界の先駆者と手を携えてきた。
そして政治的で歯に衣着せぬ発言で知られるレブロン・ジェームズのように、現大統領をあからさまに批判し、恵まれない子どもたちのために故郷に公立小学校を創設した人物に、ブランドの未来を託してきたのだ。なお、この学校は無料の食事と自転車を児童に提供し、卒業生は地元大学の授業料が無料になる。
キャパニックが浮き彫りにする「アメリカの矛盾」
一方でキャパニックとのコラボレーションは、ナイキにとっては新たな布石であり、ビジネス戦略上の賭けともいえる。キャンペーン開始後の9月4日、ナイキの株価は3パーセント下落したが、これまでの利益を考えると大した問題ではない。
これは安全志向の流れに一石を投じてきた企業らしく、明らかにリスクをとる選択でもある。何ごとにおいても極端な方向に走りがちな現代社会において、大手ブランドが自らの立ち位置を明確にすることは、企業をさらに発展させるうえでは自然な選択だろう。
社会意識が企業文化の中心に据えられるようになったのは、不思議なことでもある。これまでは、「bae」[編註:ボーイフレンドやガールフレンドを意味するスラング]のような流行語を安易に使う企業を、人々は物笑いの種にしていた。だがいまは、それが単なる皮肉交じりのパフォーマンスなのか、先進的企業だという証なのか、企業の社会的立場を判断する材料になっている。
「woke」である[編註:社会問題への意識が高いことを意味するスラング]ことは、企業が社会に認められる要素のひとつであり、それまで無関心だった顧客を引き寄せるだけの価値ある信条にもなる。ナイキがすべて計算づくではないとしても、フィル・ナイトが築いたのは、やり手の企業帝国なのだ。
「Believe in something(何かを信じるんだ)」という言葉は、さまざまに解釈できる。このメッセージが具体的に何を意味するのか不明だとしても、キャパニックの顔を見れば、彼が闘い、浮き彫りにしようとしている自由や平等といった“アメリカの約束”の矛盾を連想せずにはいられないはずだ。
「無言の意思表明」への反応
ここまでの経緯には、複雑な背景もからんでいる。スポーツ専門チャンネルのESPNによると、ナイキは2011年にキャパニックと最初の広告契約を結び、以来契約を更新し続けている。一方でナイキは今年3月、NFLの公式スポンサー契約を2028年まで延長している。
このふたつの契約は、相容れないものにも見える。NFLは今年5月、前のシーズンに起きた選手による(起立問題に対する)抗議の声に対して、リーグ史で初めて「国歌斉唱時の起立、あるいは(起立を拒否する場合は)ロッカールームで待機」を義務づけた。
スポーツと政治、ビジネスが互いに影響しあう関係は、現代では珍しいことではない。だが、この状況を素直に受け入れるなら、そこには深刻な問題があると気づくべきだ。偏ったモラルがはびこる時代に、そのモラルを重視しようとしていることに。
キャパニックやチームメイトのエリック・リード、あるいは2016年シーズンにこの「無言の意思表明」に加わり、フィールド上での抗議活動という騒動を引き起こした選手らに対する世間の反応を振り返ると、アメリカが誤った方向に進んでいることは明らかである。そして恥ずべきことにも思える。
国歌斉唱中に膝をつくというキャパニックの決断は、本人が取材陣に語ったところによると、アメリカで起きている人種差別、特に警察官の黒人に対する暴力への抗議を示すものだった。こうした警察官の暴力行為は、ときに映像が配信され、非難の声もあとを絶たないが、警察官が処分を受けることはまずない。
変化するスポーツと政治の関係
NFLは長年にわたり、スポーツの独立性を保とうと政治色を排してきたが、キャパニックの行動はそれを全面的に覆すものになった。キャパニックは結局のところリーグから追放されてしまった(キャパニックは、NFLのオーナーたちが共謀して自分と契約を結ばないようにしていると訴えを起こしている)。
それでも議論はもはや避けて通れそうにない。キャンペーンの開始後、さまざまなメディアがこの話題をこぞって取り上げ、NFLも次のような声明を発表した。
「コリンやその他のプロアスリートたちが提起した社会正義の問題は、われわれも注視し、行動を起こすに値する問題です」
突然、政治的な広告を発表したことからも、ナイキとキャパニックのパートナーシップに不信感を抱く者も多いだろう。ナイキが社会正義の問題を自らの問題として捉えているとは考えにくいし、そうなることもあまり期待できない。
不当労働の問題や、現在も告発が続く職場での性差別の問題(こうしたこともキャパニックが知るべき、そして関心を抱くべき問題だろう)で企業イメージに傷がついたにもかかわらず、ナイキはこの問題を冷静に受けとめ、社会正義への意識をさらに高めようと努力しているというよりも、ただ業績をあげようとしているように見えてしまう。
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