インタビュー
枌谷さんは、BtoBマーケティングやUX/UIデザインを得意とするWeb制作会社、株式会社ベイジのデザイナー兼経営者。元々は営業出身という異質なバックグラウンドを持つ枌谷さんが、どのようにしてデザイン×経営というキャリアにたどり着いたのか。デザイナー職ではない方にも、キャリアの選択肢としてご覧いただけるお話をお届けします。
──本日はよろしくお願いします。まず枌谷さんがデザイナーとして働きたいと考えたキッカケを教えてください。
デザインを仕事にしようと考え始めたのは社会人2年目の頃ですが、その原体験というとおそらく絵を描くことでした。
物心ついたころから絵を描くのが好きでした。3~4歳ころに親からもらった絵本は落書きだらけで、教科書に載っている人物写真にも必ず落書きをし、ページの隅にはいつもパラパラ漫画を描いてました。運動が苦手で、図工が得意な子供でした。
あと日本史も好きでした。夏休みの自由研究で10メートルくらいの年表を作り、大化の改新や壇ノ浦の戦い、元寇とかの絵をそこに描いてました。男の子って怪獣大百科とかのデータベースが好きだと思うのですが、日本史もそれなんですよね。人物がいて、人物にプロパティがあって、相関があって、というデータベース構造が好きだったんだと思います。構造化された情報をビジュアルにするのが好きなのは、今の仕事に通じてるかもしれませんね。
僕はそういう風に元々オタク気質が強い少年だったのですが、中学生になってオタクっぽいといじめられると思い、そんな自分を隠すようになりました。それに加えて受験や部活もあったので、絵を描くことはめっきり減りました。
高校生の頃は勉強もまったくせず、ゲームと漫画ばかりの生活でした。成績も学年で後ろから数えて1桁目という落ちこぼれでしたね。こうして、中学、高校、大学、そして社会人の初めまで、絵やデザインとは無縁の生活を送っていたのですが、ときどき一人で絵を描くことはしてました。僕は特に気持ち悪い絵を描くのが大好きで、学校や会社で鬱憤が貯まると気分転換にこんな絵を描いていました。
──すごいクオリティですね!何をモチーフに描いていたのでしょうか。
デッサンや水彩画は好きなミュージシャンやアルバムが多かったですね。それ以外は頭の中で思いついたまま、目の前のペンを使って、なんのテーマもなく、脈略なく手を動かして描いてました。そうやって自由に好き勝手に描くのが好きだったんです。これは幼い頃の絵本の落書きと同じ感覚でやってたことで、これを仕事にしようという発想は一切ありませんでした。
──枌谷さんは美大ではなく、立教大学の史学科に進まれたんですよね。
僕の高校時代の成績は極端で、日本史と現代文だけほぼ満点、それ以外はほぼ20~30点だったんです。なので自分には日本史しかないと思い、史学科しか受験しませんでした。美術でも、経営でも、ITでもありません(笑)。成績が悪かったので一年浪人し、英語と古典だけに絞って勉強し、なんとか希望の大学に入れました。その頃は幕末が好きだったので、大学では近世史を専攻しました。史学科生の就職先は教職員が多いのですが、僕は大学在学中に歴史に興味を失ってしまい、普通に就職活動をしました。
当時は就職氷河期の真っ只中で、300社に葉書を出し50社くらい面接を受け全滅状態。ただ最後に1社だけ受かった時に、就職活動の勝ち筋が見えたんです。それで就職活動を再設計したいと思い、学費を自分で払うと親を説得して留年しました。2年目の就職活動では職種をSEに絞り、SIerやシステム会社しか受けなかったのですが、結果すべての会社から内定をいただくことができました。
職種をSEに絞った理由は2つありました。1つ目は、1年目の就職活動時に受けたSEの適性試験の成績が良かったから。2つ目は、史学科の勉強がSEの仕事と構造的に似ていると気付いたからです。どういうことかというと、過去の文献を調べ、仮説を立て、構成を考え、論文を書くという一連の行為が、調査をして設計書を書くSEの仕事に似てると思ったんです。このストーリーなら自分を企業に売り込めると思いました。自分の希望じゃなく企業ニーズ優先、プロダクトアウトじゃなくマーケットイン、企業をセグメントしてターゲットを絞って自分のポジション取りを決めるSTPのフレームワークに忠実な、マーケティング発想の就職活動だったといえますね(笑)。
内定をいただいた企業の中から「No.1だったから」という理由だけでNTTデータを選びました。 でも入社すると、働く意味をまったく見出せませんでした。僕はもともと思考がネガティブで、パンクやメタルみたいな反社会的な音楽が好きだったこともあり、「つまらない大人になりたくない」という意識が強かったんです。テクニックで就職活動を乗り切ったものの、本心は「働きたくない」だったんです。だから仕事に向き合わず、残業もせず、飲み会も行かず、プライベートで勉強もしない、そんな社会人でした。
でもNTTデータの先輩たちは、そんな僕を優しく受け入れてくれました。若い人に価値観を押し付けてはいけないという考えも割と浸透してて、扱いにくくて仕事ができない新人に随分気を使ってくれてた記憶があります。
──配属先は営業職だったんですよね。
そうなんです、SEじゃなかったんです。当時の僕は営業の仕事というのはコミュニケーション能力がすべてで、オタク気質な自分には合わないと思ってたので、営業への配属が決まって完全にやる気を失いました。でも会社を辞めてまでやりたいこともなく、できるだけ仕事には時間を使わず、好きな音楽のことばかり考えて過ごしてました。そんな社会人2年目の頃に、デザインに目覚める出来事があったんです。
──何がきっかけでデザインに目覚めたんでしょうか。
営業の仕事の中でも唯一、パワポで提案書を作る仕事が好きだったんです。情報を構造化して整理して図にするのが絵を描く行為に近くて。先輩に「枌谷くんはパワポがうまいね」と褒められたこともありました。そんな話を聴いてか、ある日部長からイントラネット向けの営業部のホームページを作ってくれと頼まれたんです。これがすべての始まりでした。絵を描くのに近いモノづくりの感覚が味わえる、Webデザインという仕事があるんだと知ったんです。
そこから毎日色々なWebサイトを見てブックマークしていったのですが、はじめてFlashサイトを見たときも衝撃的でした。こんなことがWebでできるのかと。特に中村勇吾さんのMONO*craftsはセカンドインパクトといえるものでした。
社会人になってからずっと「人生のイニシアチブを自分で握りたい」と思ってました。人生を終える時に「俺の人生って何だったんだ」って思いたくない。会社に頼らないためには自分で会社を作らないと、という気持ちもあったのですが、何の会社を作っていいか分からない。そんな時にWebデザインに出会い「これだ!」と思いました。当時26歳だったのですが「35歳までに独立する」ってことまでいつの間にか決めてました(笑)
ただ、その時点で僕はデザインの勉強をしたこともなかったし、パソコンすら持ってなかったんです。おまけに貯金もゼロでした。そこで150万円くらいのローンを組んで、MacやAdobeのソフトを買い、夜間や休日に行ける社会人向けのキャリアスクールに入って、デザインの勉強を始めました。デザイナーになったら給料が大幅に下がるので貯金も必要だと思い、生活費を抑えるために三軒茶屋から千葉の寮に引っ越しもしました。
当時はスクールから出される課題以外に、友人の結婚式の案内状や自作のCDジャケットを作ったりと、作品づくりに没頭していました。そうやって2年間、仕事をしながら転職のための準備を進めました。転職活動を開始する頃には、作品数は30点ほどになっていました。
あと、音楽サイトの運営もこの頃開始しました。これはデザイン以上に、文章力やネットでのコミュニケーション力が鍛えられましたね。音楽サイトはデザイナーになった後も続けてて、計三回くらいリニューアルし、最後のバージョンはテーマがマニアックで日本ではここでしか手に入らない情報ばかりだったこともあって、音楽雑誌で紹介されたりと知る人ぞ知るサイトになってたんじゃないかと思います。
──デザイナーを目指しての転職活動はどうでしたか?
未経験でデザイン教育も受けていない28歳の営業マンだったので、良い反応をされた記憶はないですね。作品を見たうえで「使い物にならない」と言われたり、「デザイナーになるには遅すぎる」「立派な会社に勤めてるみたいだけどデザインの仕事を勘違いしてない?」と言われたり。会社の先輩には「食べていけるの?」と言われこともありました。それでもとにかくデザイナーになりたかった。
結局、10人くらいの広告会社に入社しました。僕を採用する会社はそんなにないと思ってたので、採用してくれただけでもありがたかったです。内定をいただいた瞬間、この会社で働こうとすぐに決めました。
その会社は元々Webのチームを作ろうと思ってたようなのですが、実際に入るとそんなチームはなくて、未経験なのにずっと一人で仕事をしてました。会社でWebが分かるのが自分一人だったので、デザイン、コーディング、Flashから、ディレクション、企画書作り、営業まで全部やっていました。それがデザインと言いながらなんでもやってしまう今の自分のスタイルに繋がっていたりします。
残業をほとんどしないNTTデータの頃とは、生活スタイルも一変しました。徹夜は当たり前、土日祭日関係なし。でもめちゃくちゃ楽しかった。それまで感じたことがない充実感でした。「デザインが好き」という情熱だけで働いていました。休みの日も模写や作品作りをし、デザインポータルも運営して、という感じで起きている時間のほぼすべてをデザインに使ってました。特に当時はFlashにハマってて、今の僕には怒られそうな無駄に動くサイトばかり作っていましたね(笑)
僕は、本気で打ち込めるものと出会うための第一歩は投資なんじゃないかと思っています。デザイナーとして働くために、2年の時間と当時の自分にとっては大きなお金を投資しました。就職浪人をしてまで入った上場企業のキャリアも捨てました。たくさんの投資をして後戻りもできない状況だったからこそ、デザインに執着し、のめり込んだのだと思います。
──しかし、一部上場企業で給与水準が高いところからデザイナーになって、給与や待遇が変わる不安はありませんでしたか?
確かに給料は半分以下になりましたね。でもそんなの全然気にしてませんでした。僕にとってデザイナーは将来性や年収といった損得で選んだ仕事じゃなかったんです。とにかくデザイナーになりたかった。それだけです。デザイナーになることに対して否定的な反応をされるたびにデザイナーになれるなら不幸な人生になってもいい。それでも絶対に後悔しないと思ってました。そんな風に思えたのは人生で初めてでした。
その広告会社で仕事のやりがいはありましたが、35歳独立計画から逆算した時、未経験なのに誰からもデザインを教わらないままではマズいと思い、もう少し規模が大きいWeb制作会社に転職しました。でもそこも何かを教わるような環境ではありませんでした。僕はこれまで、最初のキャリアスクールを除くとデザインもWebもマーケティングも独学なんです。仕事の中で誰かに教えてもらったことはないんです。
さらにその会社では、デザインよりディレクション業務の比重が大きくなってしまったんです。僕はデザインに集中したいと訴えたのですが、認めてもらえなかった。その時すぐに「この会社は辞めよう」と思ったのですが、ここでしか学べないこともある、それをできるだけ吸収して辞めようと考えて、その後2年間はその会社にいました。その頃は仕事ではディレクションや仕事を獲るための提案活動を経験し、プライベートでは自分のデザインをしたり、ポートフォリオサイトを作ったりなど、独立のための準備を進めました。
そして35歳になる直前、当初の計画通りに独立しました。会社ではなくフリーランスです。独立時点で仕事のアテはまったくなかったので、約300社の広告代理店やWeb制作会社をリストアップし、ポートフォリオサイトのURLを書いたメールを送りました。その中の数社からお仕事をいただいて、フリーランスの仕事は軌道に乗りました。それが2007~2008年頃のことです。
フリーランスはとても楽しかったです。ただ限界も感じました。ある案件では、クライアントと代理店それぞれの意向を汲んで作ったWebサイトがSNSで散々批判され、ずっと憧れていたデザイナーからも「これ作ったデザイナーはバカ」と言われたことがありました。他の案件でも自分としては納得がいかないことでお叱りを受けることもありました。そんなうまく行かない経験も色々あって、間に他の会社を挟みたくない、企業と直接仕事をしてイニシアチブを握りたい、そのためには法人化が必要だと思いながら、その一歩が踏み出せない時期を過ごしていました。
そんな時、「枌谷さん、ビビってちゃダメ、会社作りなよ」とある人に言われたんです。確かにオフィスを構えて社員を採用することを怖がっていました。自分にそんなことできるかな、って。フリーランスとしては割と収入が良くて、それで守りに入ってたところもありました。でもその言葉を聴いて我に返り、腹をくくって、2010年にベイジを設立しました。そして今に至ります。
──ReDesignerでは「デザイナーの価値を再定義する」ことを掲げています。現在、キャリアに迷われている人へアドバイスはありますか?
情報に惑わされすぎないように、でしょうか。今は情報が多い時代なので「すごく活躍してる同世代がいる」「あの人が有名企業に転職した」と焦ることも多いと思います。でもそういう情報って、聞こえがいい部分だけ切り取られてることも多いと思うんです。それで良い刺激を受けるならいいですが、変に自信を失う必要はないんじゃないかな、と思います。
それに僕は、デザイナーは天邪鬼なくらいがいいと思います。「みんながそっちの世界に憧れるなら自分はそれを目指さない」「みんなが勝ち馬に乗りたがるなら自分は乗らない」くらいの、メインストリームにあえて背を向ける反骨精神です。ベイジがずっとWeb制作会社を名乗ってるのも、「Web制作会社を名乗るのはダサい」という空気を感じるからなんです。「だったら堂々と名乗ってやろう」って。独立した時にビジネス提案ができるデザイナーを目指したのも、デザイナーの多くが華やかなFlashに目を奪われてたからです。BtoBマーケティングに力を入れてきたのも「デザイナーはみんな無関心だからやろう」という発想でした。天邪鬼こそ、差別化戦略の原点だと思うんです。人は人、自分は自分、という割り切りもある程度は必要なんじゃないかな、と思います。
やりたいことがあるなら自分で引き寄せよう、ということですね。僕は決してデザインエリートではありません。美大でデザインを学んだこともない。著名デザイナーに師事したこともない。有名なデザイン会社やスタートアップにいた経験もない。賞をとったこともない。自分のキャリアはないものばかりで、皆が憧れるような経験はしていません。思い通りの環境だったことなんかなくて、いつも向かい風が吹いてて、デザインヒエラルキーの一番底辺にあるデコボコ道をずっと歩いてるような、そんな気持ちでやってきました。
でも環境を嘆いても仕方がない。安易に転職しても次の環境だってダメかもしれない。環境に頼るのは運任せで生きるみたいなものなんです。
どんな環境でも学べることは必ずあります。そこに目を向け、機会をフル活用し、できることをする。そして目標を立てるのです。その目標がある程度達成できたと思ったら次のステップに進めばいい。それでも理想の環境が手に入らないなら自分で作る。僕が会社を作ったのもその発想です。手持ちのカードの中で工夫をして、自分の意思で、自分の価値観に基づき、カードを切っていく。それで損をすることもあるかもしれませんが、その方が楽しい人生になるように思います。
それと、情報発信は絶対にした方がいいですね。現代人が一日に触れる情報量は平安時代の一生分、江戸時代の一年分という話もあります。でもそんなに情報が溢れてたら、社内ではいくら優秀な人で通ってたとしても、自分から何かを発信してない限りは社外の人に知られる可能性はかなり低いと思うんですよね。だから自分で発信する。
ベイジでは日報サイトというメディアで社員の日報を公開しているのですが、ある社員が辞めて転職活動をしたとき、日報サイトで自分の名前と仕事の向き合い方が公開されてたことが有利に働いたと言ってました。ネット上にその人の情報があるのは武器になるんです。これを活用しない手はないですよね。
ないものばかりの僕でもなんとかやってこれました。今の時代は未経験でデザイナーになる障壁はもっと低いと思います。まず作品をたくさん作る。言葉だけじゃ熱意は伝わらないので、形になるものをたくさん作って熱意を証明する。そしてデザインの仕事に付き、その環境でできることを全力でやる。学んだことはブログで公開する。その環境で目標を達成したら次のステップに行く。それらを地道に続けていけば、自然と良い方向に転がっていくんじゃないかな、と思います。
「デザインの仕事ができるなら不幸になってもよかった」枌谷 力さんの天邪鬼なデザイナー人生
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