飯田豊(立命館大産業社会学部准教授)

 さくらももこの『ちびまる子ちゃん』を初めて読んだのは、1990年の秋、急性肝炎で入院していた小学6年生のときのことだった。小児病棟を見渡すと、同室の小中学生は皆、前年に発売された「ゲームボーイ」(任天堂)で遊んでいて、入院生活の必須アイテムであることが分かった。僕も親にねだったが、すぐには買ってもらえない。暇をもて余していたところ、見舞いに来てくれたご近所の方が、単行本を1巻から最新刊まで買ってきてくれた。

 同年1月からテレビアニメの放送が始まり、この頃にはすでに大きな社会現象になっていたが、僕はそれほど熱心に見ていたわけではなかった。折しも『週刊少年ジャンプ』の黄金期であり、小学生の男子は大抵、そのアニメ化作品の方に夢中だった。小児病棟ではテレビを見ることがほとんど許されず、同じ病室の男子小学生たちが『コロコロ』派と『ボンボン』派に分かれている中で、少女漫画を読むこと自体に気恥ずかしさもあった。

 隣の病室には、眼光が鋭い金髪のヤンキー女子中学生が入院していて、なるべく目を合わせないようにしていたのだが、『ちびまる子ちゃん』の単行本を見た途端に目尻が下がり、「貸してほしい」と言われた。一瞬、これはカツアゲかと思って硬直したのだが、彼女はお礼に『ビー・バップ・ハイスクール』の単行本を(無理やり)貸してくれて、それ以来仲良くなった。

 不意に家族と離れ、クセの強い子供たちと―しかし退屈きわまりない―共同生活を送る中で、『ちびまる子ちゃん』をじっくり読んでみると、日常の他愛(たあい)もない出来事が軽妙に描かれ、家族関係や友人関係にまつわる心の機微を鋭く表現したアイロニカル(皮肉っぽい)な作風に強く惹かれた。当時はその魅力を説明するための言葉を何一つ持っていなかったが。

 入院中の1990年10月28日にはテレビアニメが最高視聴率39・9%を記録し、いつしか「平成のサザエさん」と呼ばれるようになっていた。しかし、三世代同居の「家族もの」であるという設定を除いては、当時ほとんど共通点を見いだすことができず、子供なりに違和感を持っていた。後年、登場人物たちの名前が、花輪和一、丸尾末広、みぎわパンなど、『月刊漫画ガロ』で活躍した漫画家に由来すると知って、その違和感はますます大きくなった。

 『サザエさん』と『ちびまる子ちゃん』の共通点や相違点については、さまざまな説明の仕方が有り得るだろう。例えば批評家の大塚英志は、これを次のように指摘している。

さくらももこの「ちびまる子ちゃん」の中にも陸奥(むつ)A子であるとか仮面ライダー2号一文字隼人といったサブカルチャー的固有名詞が頻出する。平成のサザエさんと言われながらも両者が決定的に異なるのはこのサブカルチャー的固有名詞の有無である。「サザエさん」は固有名詞を一切排除することで広くお茶の間的な普遍性を持つに至った。(中略)時代を特定してしまう固有名詞は一切使われない。ところが「まる子ちゃん」は〈あの頃〉の物語である。厳密に時代考証をすれば昭和49年頃になるはずなのだが、それはあまり問題ではない。作品中のサブカルチャー的固有名詞は具体的な時代を特定するためのものではなく〈懐かしいあの頃〉というフィクショナルな過去に物語を設定する仕掛けである。(『仮想現実批評 ―消費社会は終わらない』新曜社)

 テレビアニメとノスタルジーとの結びつきをめぐっては、社会学的な観点からの考察も行われている。高度経済成長期、産業構造の変化とともに農村から都市への大量の人口移動が起こり、核家族化が進行した。それにもかかわらず、テレビでは大家族のお茶の間を中心とした、家族愛にあふれたホームドラマが隆盛を極め、人々のノスタルジーをかき立てた。ところが、オイルショック以降の低成長期には核家族の理想も崩壊し、TBS系ドラマ『岸辺のアルバム』(1977年)のような家族解体の物語が支持を集めていくようになる。
さくらももこさんの代表作「ちびまる子ちゃん」
さくらももこさんの代表作「ちびまる子ちゃん」
 旧来のホームドラマが「理想の家族」を虚構的に作り出すことで、しかるべき規範と価値を社会に示してきたが、北海道大准教授の玄武岩(ヒョン・ムアン)らによれば、こうしたドラマが凋落した70年代半ば以降、その役割を継承したのが「ホームアニメ」である。とはいえ、数え切れないほど制作されているアニメ作品の中で「家族もの」は極めて少なく、これは決して自明なジャンルとはいえない。

 それにもかかわらず、『サザエさん』『クレヨンしんちゃん』、そして『ちびまる子ちゃん』はいずれも長寿番組となり、「国民的アニメ」として定着していった。「理想の家族」はもはや、こうした「ホームアニメ」の中にしか存在しない、と評されるまでになった。