THE長文日記

長文とか短文とかのクレームは一切受け付けません

アートという「逃げ道」

日本でエンちゃんとAI師匠が公共の電波に乗っている頃(Youtubeでも見れます)、俺は機内にいた。


本当はエジプトのカイロかドイツのベルリンに行く予定だったのだが、予定を変更して10何年ぶりにオーストリアのリンツに行くことにした。


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なぜなら、面白そうだったからである。


先月訪れたMITの石井先生が「最近アルスに毎回行ってるんだよねー」という話をしていて、え、石井先生が?毎回?ということで興味が出た。


「アルス」とは、言うまでもなく、「Ars Electronica(アルスエレクトロニカ)」というイベントである。


電気を使った芸術祭であり、毎年10万人が来訪する。


リンツは、有名な人がアドルフ・ヒトラーくらいしかいない街であり、町としてはそれはどちらかというとあまりありがたくない郷土の有名人であり、どうにかしたい、というモチベーションから音楽祭が始まり、音楽祭の連動イベントとして、電子芸術を扱うArs Electronicaが生まれた。


細かい内容や感想はニコニコチャンネルでやるとして、結論としては感動した。


特にラストの和田さんのコンサートが素晴らしくて、ああほんとうに、なんていうことだ。素晴らしい、という言葉の上を行く言葉が見当たらない。アンコールの声が流れて「いや、別に他の曲用意してなかったんですよね」といいつつも即興で行われるアンコールまで含めて素晴らしかった。感動した。


会場で石井先生とはぐれてしまい、ウロウロしていると東大の池上先生と鉢合わせした。


池上先生といえば、ご存知、人工生命のパイオニアである。
最近上梓されたこの本も素晴らしい。


作って動かすALife ―実装を通した人工生命モデル理論入門

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  • 作者: 岡瑞起,池上高志,ドミニク・チェン,青木竜太,丸山典宏
  • 出版社/メーカー: オライリージャパン
  • 発売日: 2018/07/28
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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池上先生を中心に4人で飲んでいて、こんな話になった。


「清水さんはアートのこと好きだよね?」


「えっ!?」


どうだろう。おれはアートが好きなんだろうか。
そうでもない気もするし、そうでもなくない気もする。


ぜんぶのアートがわかるわけではないけれども、ときどきグッと心を掴まれるアートがあることは理解できる、くらいの理解である。


というか今回、アルスエレクトロニカに久しぶりにやってきて、石井先生の研究がまるごとアルスエレクトロニカセンターに常設展示されているのを見て度肝を抜かれた。


確かにあれはアート的であるが、実際には大真面目にコンピューティングのど真ん中を志向した研究である。それが「アート」の文脈で扱われてしまうことの恐ろしさと面白さを同時に感じたときだった。


今回、特に感じたのは、フィロソフィの大切さだ。
思想と言ってもいい。


世の中には器用な人や賢い人はごまんと居る。
しかし確たる思想やフィロソフィを持った人はそうそう居ない。


この2つの違いはなにか。
僕が言うとなんだか奇妙だけれども、「賢い人」には複数の指標があると思う。それは学歴や偏差値、IQといったもので測れる(と信じられている)ものだ。


逆に言えば「賢い人」はその賢さの評価尺度を他者に委ねている。つまりその思想は基本的には借り物である。


反対に、フィロソフィを持つ人というのは、基本的に誰かの尺度というものを気にしない。興味がない。ないといいつつあるのだが、行動原理のレベルにおいては、他者からの評価を顧みたりはしない。基本的には自分の評価は自分が下す。


厄介なのは、独自のフィロソフィを持っていると思い込んでいるだけの人で、それはルサンチマンから発生して、いわゆる「賢い人」が評価される評価尺度で評価されなかったことや学歴社会からドロップアウトしたことの反動として、酸っぱい葡萄理論を駆使するためのフィロソフィを構築する場合である。


本当に正しいフィロソフィを持っている人と、単なるルサンチマンをフィロソフィと主張する人の違いを認識するのはとてもむずかしい。唯一方法があるとすれば、長い時間をかけてその人の言動を追いかけるしかない。


真のフィロソフィを持っている人にとって、ひとつの逃げ道として「アート」があるのだ、と僕は思う。


「アーティストになろう」と思ってフィロソフィを構築するのとは意味が違う。


たとえば河口洋一郎先生という人がいる。
彼の作品を見ても、最初はわけがわからない。


しかし繰り返し繰り返し同じモチーフを手を変え品を変えやっていくうちに、彼がある種の偏執的な哲学に基づいてそれを構築しようとしていることがわかる。


会場でも、日本人の研究者たちが集まって、改めて「河口洋一郎先生は凄い」という話になった。


「なんで?なんのために?」という疑問に答えず、とりあえず「自分が面白いと思ったから(=フィロソフィ)やってみた」という作品を文明が許容し、理解するための逃げ道がアートなのだと、今は解釈している。


でなければ全く、わからないからだ。
アートという逃げ道がないと、普通の人との接点がなさすぎるのだ。



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たとえばこんな金属片がバーンと会場に飾られている。


「なんじゃこりゃ」と思う。この時点で普通の人は、これを「アートだ」と言われれば納得できるが、「製品だ」と言われると納得できない。


これは3Dプリンタで作った橋の一部らしいのだが、それも説明を読まないとわからない(その時点で僕は失敗作ではないかと思うのだが、アートの世界では文章による補足説明は認められている)。


コレを作った人に、将来建設業で一旗揚げようとか、そういう野心は感じられない。


ただ「やれそうだからやった」「面白そうだから作った」のである。
これを、10年継続できたら、それは立派なアートになるのではないか。


身近なアーティストに、八谷和彦さんがいる。
親友だと思っているので敢えていうが、彼は気が狂っていると思う。


ポストペットはまだいい。商業的にも成功した。しかしジェットボードと宇宙ロケット、そしてメーヴェ、特にメーヴェは、狂気というしかない。


ものすごく狂ったことをやってるのに、話をするとすごくまとも。しかもどう考えても儲からないであろうこと(=メーヴェ)に10年の歳月と1億円以上の資産を投じることができる。これはもうアートとしか理解しようがない。


誰も彼に「メーヴェを作ってくれ」とは頼んでないのだ。
彼自身も「メーヴェを作って金儲けしよう」という意図はまったくない。


むしろどちらかというとメーヴェを作るために金が必要なのであり、だからクラウドファンディングを行うのだ。


石井先生はたびたび僕らに「それをやってしまうとaestheticが失われる」とかたった。「それ」は、形状だったりテーマだったり、いろいろだが、石井先生本人はアート作品を作ろうとして研究しているわけではないのだ。ただ彼が生涯をかけて挑んだことが、客観的にはアートに見えてしまうだけである。というか、アートとしてしかまだ理解できないだけだ、とも言える。


おそらくチャールズ・バベッジが階差機関を作ろうとしたときも、周囲からは実用的な機械と見做されず「アート」のように見えただろう。


考えてみれば、アカデミズムとアートはかなり近しい位置にあるのである。
どちらも周囲から理解不能にも思える情熱を特定の領域に注ぎ込み、論文なり作品なりの形で表現して見せることで、そのものの対価とは別の活動費を国やパトロンから集め、作品制作を繰り返す。


そこいくと、池上先生の専門分野である人工生命(ALIFE)というのは、僕自身が「アート」というものがなんなのか理解する助けとしては大いに役立つことになる。


この分野では大きな流れは「セルオートマトン」と「マルチエージェントシステム」という2つの領域である。


まあセルオートマトンも、マルチエージェントシステムの一種と捉えることもできるので、一緒にしてもいいのだが、セルオートマトンは構造上、通じ用のマルチエージェントシステムでは表現できないaestheticがあるので別物と捉えたほうがいい。


セルオートマトンを考えたのはアーテストではなく数学者だ。
しかし、その振る舞いは極めてアーティスティックである。



僕自身、セルオートマトンに心を奪われた者の一人だ。
中学の頃は自作のセルオートマトンで夏休みの美術の宿題を済ませた。


なんとかこれを仕事にできないか、と何十年も考えているが、まだ難しい。いまのところこれをビジネス化して最も成功した例はシムシティくらいしか思いつかない。シムシティでは地下や公害がセルオートマトンで表現されている。


人工生命は面白いのになかなか金にならない。
だから予算を獲得する逃げ道としては、「これはアートなのだ」という説明が通用するならば使うほうがいいに決まっている。


あくまでも出発点は「心の奥底からやりたいと思うこと」であり、それがどうしようもなくとめどなく溢れ出てしまう状態がまずあって、マネタイズの明確な手段が見つかってない段階が「アート」なのである。


そういえば八谷さんがたくさんのユーザーの日記を集めたメガ日記というサービスをやっていたとき、まだ世の中にブログというものは存在していなかった。


日記を書いて公開するためにお金を払う人がいるとは夢にも思えなかった時代である。ネットにおける広告ビジネスもまだ一般的ではなかった。


あの段階でメガ日記というのは確かにアートであり、それが実用的になったものがブログである。


そう考えると、実はこれからの企業はアートというものに対してもっと真摯に向き合うべきではないかと思わなくもない。少なくとも企業における先端研究というのは、一種のアートでなければならないかもしれないし、もしかすると、社内でアートを研究したり発表したりするのではなく、世の中にあるアートをもっと深く理解することによって時代や人々が潜在的に求めているものを見出す洞察を得ることができるかもしれない。


アートというのはビジネスマンから遠い存在のように思っていたが、実はまるで逆で、ビジネスマンこそがアート的aestheticを持たなければならないのではないか。


そんな気がした