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2018-09-07

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン

幡野広志さんとの対談、昨日が最終回でした。
 「ふだん感想のメールとか出したことない」という方が、
 どうしてもと読後の気持ちを送ってくれたり、
 構成で参加してくれた古賀史健さんはじめ、
 関係した「ほぼ日」の乗組員たちとかも、
 ずっと、いい緊張感を切らさずにやっていた仕事でした。
 台風や地震のニュースがひっきりなしに入ってきて、
 病気や事故でなくとも、人間や社会というものが
 「こわれもの」であるということを、
 強く意識させられる日々でした。

 読んでくださった方々の感想のなかに、
 「ふだん、死についてふつうに話すことがなかったので」
 ということばが目に付きました。
 そうなんですよね、死というのは嫌われていて、
 なるべく遠回しに語り合ったり、
 日常のなかから離しておくようになっています。
 じぶんにもそういう傾向はありますから、わかります。
 ただ、生まれることと死ぬことの間に、
 ぼくらの知っている人生というものがあるわけなので、
 無いことにすると逆にややこしくなりますよね。
 必ず悲しみとともに語られるべきもの、ではないですし、
 死を怖れすぎながら生きてると、不自由になりますよね。
 必ず負けると思いながらゲームをしていたのでは、
 うれしいときにもよろこべないです。

 だれでも、何歳くらいまで生きるつもりかという話を、
 一度や二度はしていると思います。
 ぼくも、その答えを更新しながら、何度も話しています。
 いまのところ、公式な答えは「千歳まで生きる」です。
 「源氏物語から千年」という話題があったときに、
 千年というとそんなにいろんなことが味わえるのか、と、
 「生きてみたいなぁ!」と思ったのがきっかけです。
 千年も生きてたら飽きるよ、と笑われますが、
 いやいや、絶対に飽きないと思うんです。
 千年間に、たくさんの出会いと別れがあるんだろうなぁ。
 これがいちおう公式の答えなのですが、
 意外にも、その裏返しみたいな考えですけれど、
 「いつでもしょうがない」という気持ちもあるんです。
 これまでも、今日も、たぶん明日もおもしろいものね。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
みんなが、それぞれに元気で、今日を過ごせますように。


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