日本人は妊娠リテラシーが低い、という神話――社会調査濫用問題の新しい局面

2点目に、正しい答えの設定に問題がある。

 

(2)避妊法を用いずに1年間定期的に性交をして妊娠しない場合に、夫婦は不妊であると分類される

 

の設問では、「正しい」と答えないと間違いにされる。しかし、当時の日本の基準では「間違い」が正しい。

 

当時の不妊症の定義は、『標準産科婦人科学 第4版』(医学書院 2011年) によれば、「生殖年齢にあるカップルが挙児を希望して性生活を行いながら、2を経過しても妊娠の成立をみない場合」(66頁、強調は引用者) となっていた。なお、 2015年8月になって、日本産科婦人科学会は、この不妊 (症) の定義を変更している

 

このことからもわかるように、何をもって「不妊であると分類」するかの基準は、各国の事情や時代背景によって変わるものである。しかしこの項目は、そのようなことを考慮せず、特定の基準に沿った答えだけを正答とする設問になっている。

 

3点目に日本語としておかしい (意味が通じない/曖昧である/わかりにくい) 表現が多数あることがあげられる。

 

たとえば、(1)「女性は36才を過ぎると受胎能力が落ちる」という文には、「36才までは受胎能力が落ちない」という含意がある。(10)「月経がない女性でも受胎能力がある」という質問も、英文の「never menstruates」に対応した訳になっていないため、生理不順の女性のような一時的無月経のケースを連想する人もいるだろう。(11)「女性が13キロ以上太りすぎていると妊娠できないかもしれない」も、「13キロ以上太りすぎる」という表現が日本語として不自然である上、妊娠は確率的現象だから、たまたま「妊娠できない」ことがあるのは当たり前である。

 

筆者の判断では、13項目のうち、10項目には何らかの問題がある。つまり、問題がなさそうなのは3項目のみである。それも翻訳としては問題がなさそうだというだけであって、質問文として比較可能かどうか (つまり、他言語版とおなじ反応を回答者から引き出す刺激になっているか) はまた別の問題として残る。

 

4点目に、CFKS得点を算出する際、「分らない」を誤答とおなじあつかいにして0点を与えているのも問題である。回答者は、設問の答えがわからないときだけでなく、設問の意味自体がわからないときにも、「分らない」を選ぶ可能性がある。CFKSの得点算出法は、設問のわかりやすさに大きく左右されるのである。上でみたように、日本語版の設問には意味が不明瞭なものが多いから、そのために「分らない」を選んで0点にされてしまった回答がたくさんあったのではないか。

 

ここまで検討してきたことをまとめて総合的に評価しておこう。まず、記事冒頭で指摘したとおり、IFDMS は国によって対象者の集めかたがちがう。そして、日本語版調査票全体の翻訳の質が低くて回答者の負担が大きいため、途中で脱落したり、不真面目な回答をしたりしているケースがかなりあることが危惧される。特に、妊娠に関する知識を測ったとされる尺度 CFKS には、項目選択・翻訳・配列・得点算出法の各側面において、問題が種々存在する。国際比較に使えるデータでないことはあきらかである。

 

 

調査票作成過程の問題

 

では、この調査票はどのようにしてつくられたのだろうか。論文388頁によると、この調査の質問文は、

 

・英語版調査票を作成

・潜在的な回答者対象の予備調査を実施

・カーディフ大学の生涯学習センター翻訳サービス (Centre for Lifelong Learning Translation Service) で12言語に翻訳

・各地の専門家がチェックし、翻訳の修正を提案

・翻訳者と専門家が合意に達した版を使って調査実施

 

という手順でつくられたようだ。しかし、この手順では、国際比較可能な調査票はできない。

 

まず、各言語への翻訳可能性や社会間での比較可能性を検討しないまま、英語で質問文を作り、確定しているところが問題である。翻訳や専門家チェックが入るのはこのあとだが、「この質問はどうやっても不完全な訳にしかならない」「この質問は国によって正解が異なるのでまずい」といった問題があっても、質問項目そのものが差し替えられることはない。国によって基準がちがうはずの「不妊」の定義を問う質問などが残ってしまっているのは、このためだろう。

 

さらに、翻訳版の予備調査をおこなっていない問題もある。「予備調査」は、対象者と同様の属性を持つ人に実際に答えてもらうことで、調査票の問題点を洗い出す作業である。この手続きを踏まなかったとすると、英語版以外の調査票には、対象者が勘違いしたり答えられなかったりする変な質問がある可能性が高い。事実、「私が妊娠してないのは……が理由」のような質問が男性回答者に対しておこなわれている。

 

実際、論文387頁には、言語間比較可能な尺度構築に失敗したことを表す数字が載っている。国によって、尺度の信頼性が著しくちがうのだ。いちばん低いのはトルコで、Cronbach の標準化信頼性係数が 0.41 だったという。ここまで信頼性が低いと、測定に失敗したものと判断すべきである。だが、論文中でこの問題について検討されることはないまま、信頼性が低い国のデータもふくめて、分析が進められている。

 

 

政治利用の過程

 

ところが、日本では、この調査結果が、信頼のおける科学的な知見であるかのようにあつかわれ、政治的な力を獲得するに至った。以下、その過程を概観しよう。

 

まず、IFDMSの研究代表者であるBoivan教授自身が、この研究成果を日本に売り込んできている。 2011年には来日し、マスメディア相手の勉強会や国会内での講演をおこなった (三浦天紗子「なぜ日本だけが世界と違うのか?」妊活.net 2011年5月18日)。

 

そして日本の産婦人科団体も、この調査を利用してきた。たとえば日本産婦人科医会では、木下勝之氏 (2012年11月から会長) が、IFDMSによるグラフを引いてつぎの主張を展開している。

 

これからの学校保健の学校医として、産婦人科医を積極的に登用して、健康な妊娠・出産・育児の知識を植え付け、子どもたちへの適切な性教育、さらには、性教育に最も適切な位置にある母親にどのような仕方で性教育をしていくかの具体的内容づくりも、産婦人科医の学校医の役割として、全国組織である日本産婦人科医会は協力する姿勢でいる。

(『日本産婦人科医会会報』776号 (2015年6月号) 1–2頁. 学校保健会『学校保健』312号10–11頁 からの転載)

 

一方、一般向けに影響力を発揮したのがマスメディアである。2012年6月23日のNHKスペシャルでは、取材班がカーディフ大学を訪れて収録した Boivin 教授へのインタビューが放映されている。

 

この番組を元にしたNHK取材班の書籍『産みたいのに産めない: 卵子老化の衝撃』(文藝春秋 2013年) は、IFDMS調査で「日本人の男女は妊娠についての知識が極めて乏しいことが明らかになった」(136頁) としている。

 

この書籍はIFDMSの質問項目をいくつか引用している (136–137頁) が、その際に文言を改変している。たとえば「女性は36才を過ぎると受胎能力が落ちる」という質問文の末尾に助詞「か」を挿入して引用している。原文は、36才までは受胎能力は落ちない、という含意を感じさせるが、その末尾に「か」をつけて疑問形に変えることで、焦点が述部に移り、そのような含意を感じにくくなっている。

 

「今日では40代の女性でも30代の女性と同じくらい妊娠する可能性がある」は、最初の「今日では」を削除した形で示している。原文は近年の生殖医学の進歩が誇大に喧伝されてきたことを背景とした質問であるが、「今日では」を削ることで、普遍的現象としての妊孕性低下について訊いているようにみせかけている。「この調査、大丈夫なのか?」と疑問に思う読者が出てこないよう、また著者のえがくストーリーに沿った理解に導くよう、周到に編集されているのである。

 

 

まとめ: ボーダレス時代の社会調査

 

以上の経過をみると、本来、国際比較に使えないはずのIFDMSの調査結果が、「日本人の妊娠・出産に関する知識レベルは国際的にみて低い」という主張の根拠として日本社会で受容されてきたことには、3つの要因があることがわかる。

 

海外の自然科学系学界による権威づけ
もしこの研究成果が日本の社会科学系学会誌に投稿されたとすれば、調査の致命的な欠点を指摘されて終わりだったはずである。ところが、日本語訳の精度や社会調査の方法論に興味を持つ人がいないところでは、学術的な研究成果として通ってしまう。

 

日本国内の学術団体による政治利用

学校教育への介入をめざす国内の産婦人科系団体にとって、日本の知識レベルが低いというデータは、「少子化」をめぐる危機感をあおるのに都合のよいものであった。科学的根拠の薄弱さなど、彼らにとってはどうでもよいことだっただろう。

 

言語の壁
IFDMS は情報をほとんど公開していないが、公開している場合もたいてい英語だけである。そのため、疑問を持った人がいたとしても、批判のための資料を集めるのに要する労力が大きい。また、日本語で引用される際にも、カムフラージュが施され、読者が直感的な疑問を持たないよう細工されている。言語の壁は、批判を封じる上で有効にはたらいている。

 

この事例は、ボーダレス時代に対応した社会調査の質保証という新しい課題を提起する。今日では、ある程度の研究費を確保しさえすれば、翻訳業者と調査会社に丸投げして、インターネットを利用した国際調査が簡単にできる。その適当な調査で出した結果を対象国の政府・メディア・学会に売り込んだ場合、学問的なチェックを受けることなく通用してしまうことが起こりうる。

 

こうした調査結果は、対象国の政府や学会にとって、自らの政治的主張を正当化する「科学的」根拠として利用価値がある。一方、当の研究者にとっても、その調査プロジェクトの「社会的インパクト」として評価してもらえるメリットがある。

 

日本においても、他の国においても、隠れて進行している同様の事態が、たくさんあるのだろう。 IFDMSをめぐる一連の問題は、おそらく、氷山の一角に過ぎない。

 

この記事は、2016年3月17日の第61回数理社会学会大会での報告に基づいています。くわしい内容は、学会報告の資料 <http://tsigeto.info/16z> をごらんください。

 

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