笹島康仁
「おまえは見捨てられたんだ」 職員の暴言、自殺者…… 入管施設の“異変”
9/6(木) 6:51 配信
「すごい地震で、暗くて、怖くて」と、ナイジェリア出身のアヒンバレ・ケリーさん(31)がガラス越しに言った。面会室は狭い。ガラスは厚く、向こう側が少し歪んで見える。ケリーさんは、長崎県大村市の大村入国管理センターに収容されていた2016年4月の未明、熊本地震の大きな揺れに遭遇した。ところが、照明はなかなかつかず、地震の情報もない。鹿児島に住む息子への電話も許されない。何より、当直職員の言葉に耳を疑ったという。「電話は必要ない。おまえは家族に見捨てられたんだ。国へ帰れ」————。全国の入国管理の現場から、収容をめぐる“異変”が相次いで伝えられている。収容期間が長引き、人数も急増。暴言・暴力を訴える声が途切れず、自殺者も出ている。いったい何が起きているのか。(笹島康仁、末澤寧史/Yahoo!ニュース 特集編集部)
熊本地震の夜 収容施設でパニックに
大村入管で起きたある刑事事件の被告人として、ケリーさんはこの7月、長崎刑務所(長崎県諫早市)の拘置区にいた。取材はその面会室で続いた。
17歳で来日し、日本人女性と結婚した。2015年に離婚。その女性から身元保証を受けられなかったことで、福岡入国管理局に収容され、その後、大村入管に移された。中学生の息子とは電話で連絡を取り続けており、2016年4月の熊本地震の際は、とにかく息子の安否を確かめたかったという。
ケリーさんは、当直の男性職員に「家族に見捨てられたんだ」と言われた後、こう問い返した。
「どうしてそんなこと言うの? あなたにも家族がいるでしょう」
すると、職員は「おまえの息子と、おれの息子とではレベルが違う」と言ったという。職員は笑っており、ケリーさんは見下されていると感じた。「アフリカ人はアフリカに帰れ」。そんな言葉も聞こえた。素足を靴で踏みつけられもした、とも訴える。
「殺されるかと思った」
熊本地震の夜、出来事はまだ続いた。
ケリーさんによると、職員への怒りと地震への恐怖でパニックになり、電気ポットを投げて、壊した。トイレに入り、こもっていると、複数の職員に裸のまま引きずり出された。首元を押さえられ、「力を抜け」と何度も怒鳴られたという。
「息ができなくて、殺されるかと思った」と、ケリーさんは振り返る。収容はその後も2年近く続いた。長引く収容へのストレス、不安から洗剤やピンを飲むといった自傷行為に走ったこともあったという。
同センターはしばらくしてから、ケリーさんが電気ポットを壊したり、職員に頭突きしたりしたとして、被害届を出した。その後、今年1月末になって、彼は器物損壊などの容疑で大村警察署に逮捕され、刑事裁判の被告人になった。
ケリーさんが訴える職員の発言などについて同センターに確認したところ「お尋ねのような事実は承知していません」との回答を寄せた。
東日本では自殺者も
「事件」や「異変」が起きているのは大村の施設だけではない。
東日本入国管理センター(茨城県牛久市)では2010年にブラジル人男性、韓国人男性が相次いで自殺。14年3月にはカメルーン人男性が体調不良を訴えたにもかかわらず適切な医療を受けられず、死亡した。同じ月にはイラン人の男性がのどを詰まらせて死亡。法務省は同年11月になって、カメルーン人男性について「医療態勢に問題があった」との見解を示している。
この施設では、昨年3月にも体調不良を訴えていたベトナム人男性がくも膜下出血で死亡する出来事があった。待遇の改善や再発防止を求め、施設内ではハンガーストライキ、施設外では家族や支援者らの抗議が続くが、今年4月にはインド人男性が自殺した。朝日新聞の報道によれば、この5月にも3件の自殺未遂があったという。
大阪入国管理局(大阪市)でも昨年7月、職員数人による「制圧」でトルコ人男性が骨折する大けがを負う事件があった。
“異変” の始まりは2016年?
大村の施設に収容された人々を支援する牧師の柚之原寛史さん(50)は「2016年の春ごろから状況が目に見えて悪くなってきました」と明かす。その一例は「仮放免」に表れている。人道的な配慮から収容中であっても拘束を解くこの許可が、なかなか出なくなったのだという。
「それまでは半年ほど収容されていたら仮放免の許可が出ていました。それがほとんど許されなくなった。理由を聞いても答えてくれません。ストレスや不安からか、彼らの表情が明らかに変わり、それぞれの持病もどんどん悪くなっている。このままの状況が続けば、自傷行為が増えるのではと危惧しています」
大村入国管理センターの収容者数は増え続け、今年4月1日現在、ブラジルやイランなど23カ国の男性93人。人数は3年前の3倍超になった。ほとんどが半年以上の長期収容だ。ここに来る前の別施設と合わせた収容期間が5年9カ月に及ぶ人もいる。
「刑務所の方がまし」
「収容が長引くと、まず目が悪くなる」と柚之原さんは言う。「緑がない。自然のものがないんです。一日中、コンクリートの部屋の中。やることもない。僕だったら、数日間で音を上げますよ」
別の支援者によると、職員たちの暴言は例えば、「俺を怒らせたらすぐに強制送還するぞ」「ぼけ」といったもの。汚れた運動靴を食べ物と同じ容器に入れられたと訴える人もいる。
柚之原さんは「刑務所の方がまし」と漏らす人にも出会ったという。「刑務所には仕事(役務)がある。自分がなぜ入れられて、いつまでいればいいのかも分かる。入管にはこれら全てがないんです」
「プライバシー」で取材は難航
この7月中旬、柚之原さんと共に大村入国管理センターを取材することができた。
ただし、制約は大きかった。当日示された「協定書」には「当該被収容者が個別具体的に識別できる質問はしない」とあった。その後撤回されたが、最初の説明では「名前」「国籍」も聞いてはいけない、とされた。
写真撮影は「被収容者が特定できないよう必要な編集・加工を行う」ことが条件。顔全体にぼかしを入れるよう求められた。「プライバシーの保護を確保する」目的とされたが、取材予定者の中には、柚之原さんを通じて事前に「顔の撮影や名前の掲載もOK」という人がいた。実際に話を聞いてみると、むしろ、「話を伝えてほしい」と希望する人ばかりだった。
プライバシーは施設側ではなく、個人が判断するものではないだろうか。その点を尋ねると、同センター総務課長の池田和義さんはこう答えた。
「プライバシーを『本人の自由』という意味では捉えていません。ここに誰々がいると分かると、知らない人が来て、抗議活動などで業務に影響する恐れがある。彼らの家族や関係者が責められることもあり得ます」
事情は一人ひとり違う
柚之原さんは言う。
「(収容された)彼らの話を聞いていると、それぞれ事情が違うことが分かります。仮放免を受けたい、弁護士を探したいという人、とにかく家族と会いたい、写真だけでも欲しいという人。励ます中で、母国に帰る決心をする人もいます。帰国を勧めることもあります。彼ら一人ひとりの必要を満たすことが私たちの役割です」
柚之原さんに同行し、それぞれの事情に耳を傾ける取材は、こうして始まった。
インドネシア出身のアリフ・グナワンさん(40)はブローカーから「日本に行けば稼げる」と聞き、技能実習生として来日した。費用は祖国の「危ない組織」に借りたという。「日本で働けばすぐに返せる」という説明だった。収容所生活は2年7カ月。「(帰国は)無理です。帰ったら(組織に狙われ)命を失う」と言う。
「毎日が同じ。起きて、食べます。何も変わらない。病気もあるから外の病院と相談したいのに。ここの医者は『大丈夫』だけ。助けてください」
ネパール出身のラジンドラ・ボーデルさん(35)は難民申請を続けているが、認められていない。2005年に留学生として来日。大学へ進学した後、学費用の180万円を盗まれ、学業を続けられなくなった。精神も病み、許されていた滞在期間を超えてしまったという。
ボーデルさんはまた、今年4月に牛久市の施設でインド人男性が自殺したことを聞き、心を痛めた。
「(法務省は)仮放免という紙一枚のために人を殺しています。仮放免にして、何か問題があったなら施設に戻せばいい。死んだ命は戻ってきません……。(世の中には)入管自体を知らない人もいる。状況がどんどん悪くなっていることをいろんな人に知ってほしいです」
大村入管で聞いた声をさらに紹介しよう。
グエン・ヴァン・フンさん(46)は「最近、施設内でのトラブルが増えた」と感じている。17歳の時にベトナムから来た。ベトナム戦争が生んだいわゆる「ボートピープル」の1人だ。1975年のベトナム戦争終結後、社会主義体制になった国々から逃れたインドシナ難民は300万人を超え、日本も1万人以上の難民を受け入れた。フンさんは、法務大臣が難民としての定住を認めた証明書を今も持っている。日本人女性と結婚し、日本国籍を持つ娘たちもいる。
ところが、その後、万引きで捕まって有罪となり、3年前に入管施設へ。娘たちのいる関東から引き離された。何度も仮放免を申請しているが、許可は出ない。
「何が足りないから(仮放免が)だめなのか分からない。どうしようもありません。でも、娘たちには会いたい。ベトナムにいたら命がありませんでした。だから、子どもたちは頑張って勉強して(命を助けてくれた)日本の国に恩返ししてほしい」
2015年まで「長期」避ける傾向
実は、数年前まで全国の収容者数は減少傾向にあった。収容理由の大半を占める不法残留者は、1997年の約28万3000人から減り続け、2014年には6万人を割った。全国の年間延べ収容人員数も8万2306人(06年)から、1万3639人(14年)に。2015年9月には、定員300人の「西日本入国管理センター」(大阪府茨木市)が収容者数の減少で閉鎖されたほどだ。
ところが、近年は不法残留者が増加に転じ、収容人員数も2017年には1万8633人に増えた。半年以上になる長期収容も増えている。
NGO神戸外国人救援ネットの草加道常さんによれば、2015年までは長期収容を避ける傾向があった。2010年の法務省と日本弁護士連合会との話し合いにより、人道的見地から仮放免を出していくことが確認され、長くても半年から1年で仮放免になることが多かったという。
「ところが、ある日突然、仮放免が認められなくなった。どうしてだろう、おかしいな、と。さらに収容の長期化は進み、17年末にはっきりしてきた。その頃から長期収容の人が大村の施設に送られることが多くなりました」
長期収容の理由はなんだろうか。草加さんによると、刑法犯のほか、オーバーステイ(許可された日数を超えた滞在)などが多い。そうであれば、長期収容もやむを得ないように思える。
「どうでしょうか。家族、子どもがいるケースでも収容しています。日本国籍の妻と子どもがいても、です。罪を償った後で、家族と生活しながら更生することを全く想定していない。それ以上に問題なのは、こうした措置を入管だけで全部決めている、ということです」
「主要国では、第三者委員会や裁判所が関与する制度を持っています。例えば、英国では収容に裁判所が関与し、被収容者の人権は保障されています。日本でも、刑事事件では逮捕から72時間が過ぎると、裁判所の判断を仰がないと身柄を拘束できません。その制約が入管にはないんです」
入国管理局による収容は入管難民法に基づいて「入国警備官」が一手に行い、裁判所の判断などを経る必要がない。そのうえ、強制退去とする場合は、実際の送還まで無期限で収容できる。草加さんは「何年にも及ぶ拘束を一つの行政機関の判断で行っている。ほかの先進国なら、絶対に容認されないこと」と指摘する。
草加さんは、2015年9月に法務省が出した通達が「異変」のきっかけになったと考えている。仮放免の運用を厳格化する内容だ。
この通達は「送還を忌避し、収容期間が長期化する被収容者が増えている」とした上で、それまでの「収容6カ月で仮放免の必要性・相当性を検証する」という方針を、1年を超える長期収容も選択肢に入れた内容に変えたのだ。
「この通達以降、仮放免が出にくくなり、収容の長期化が進みました。仮放免中の監視も厳しくなった。職員が毎月抜き打ちで来たケースもあり、その時は職員が冷蔵庫を開けさせ、『買ったのか、お金はどうしたのか、もらったのか、誰からか』と。今年1月からは難民認定も厳しくなり、母国での非政府組織による迫害を理由に挙げる人は、申請をほとんど認められなくなった。けれど、政府自体がしっかりしていない国はいくらでもある。命の保証がないから日本に来ているわけです」
長期収容の問題について、法務省の基本姿勢は「あくまでもわが国から送還することによって収容状態を収束させるべき」(今年5月15日、参議院法務委員会での和田雅樹入国管理局長の答弁)というものだ。日本で働くことを目的に来日し、送還を拒否する人が相当数いるから、収容が長期化しているという。
だが、草加さんはこう言う。
「確かにブローカーを頼って就労目的で来る人はいるし、その対策は必要でしょう。ですが、母国の国籍を失っていたり、帰国すれば処罰される恐れがあったり、どうしても国に帰れない人がいるんです。彼らを長期間にわたって劣悪な環境の下に置き、病気の治療も認めず、長期の収容によって精神的・肉体的に疲弊させて、そして国に帰しているとすれば、それは拷問ですよ。国際社会でも今後問題になるでしょう」
「国に帰りたい。けど、帰れない」
この7月下旬、器物損壊の罪などに問われたケリーさんに対する判決が長崎地裁大村支部で出た。求刑の懲役1年6月に対し、判決は懲役10月。
ケリーさんは言う。
「ぼくにも悪い部分はあった。けど、同じようなひどい扱いが、入管で起こらないようになってほしい。そのために、多くの人に今の状態を知ってほしい」
「国に帰りたい。けど、帰れない」とも言う。頭にあるのは鹿児島県に住む息子だ。もう中学生になった。昨年のクリスマスには、支援者を通じて黒のダウンジャケットを贈った。サイズを選ぶために身長を聞くと、最後に会った時からずいぶん大きくなっていたという。
「息子に会いたい。息子がいなかったら(故国に)帰ってるよ。でも、帰ったら二度と会えないよ。あの子の父親は私だけ……会いたいよ」
入国管理をめぐる「異変」の核心は何か。柚之原さんは「入国管理局が国際的な基準ではなく、独自のルールで(収容者を)管理しようとしている」ことだと言う。
そして、こんなことも話した。
「日本でオーバーステイになったらどうなるか。『なぜそれを知らずに彼らは日本に来たんだ?』と思うこともあります。でもこの日本で、外国人がとてつもなくつらい思いをしていることを、ほとんどの日本人は知りません。そのことが不幸を招いていると思います。いつの日か、日本から難民が出るかもしれない。その時に初めて、彼らの気持ちが分かるのではないでしょうか」
笹島康仁(ささじま・やすひと)
高知新聞記者を経て、2017年2月からフリー
末澤寧史(すえざわ・やすふみ)
ライター・編集者。共著に『東日本大震災 伝えなければならない100の物語⑤放射能との格闘』(学研教育出版)、『希望』(旬報社)ほか。
[写真]撮影:笹島康仁、末澤寧史 提供:アフロ
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