「伝説になっちゃダメなんだよ。生きていかなきゃ、いつ死ぬか分からないんだから」
5年前に急性心不全で他界したbloodthirsty butchersの吉村秀樹が、生前に語った言葉だ。
あまりにも突然の死──
唯一無二の音を生み出し、ジャンルを超えた多くのアーティストから愛され続ける吉村は、自身の思いとは裏腹に「伝説」となってしまった。
残された人々は今、どのような思いを抱えているのだろうか。
ジャイアンな吉村さんが好きでした
── 浅野忠信
俳優業だけにとどまらず、SODA!やPEACE PILL、SAFARI、Rといった数々のバンド活動も行ってきた浅野。彼は吉村の訃報を知ったとき、こうつづっていた。
「俺はこの人にギターの音の作り方を教わったんだ」
もともとbloodthirsty butchers(以下:ブッチャーズ)が好きで、ライブを見に行っていた。
そんな中、ブッチャーズと共演する機会が訪れる。1998年にリリースされた手塚治虫のトリビュート・アルバムで「名も知らぬ星」という曲を一緒に演奏することになったのだ。
浅野が原曲を持ってきて、ブッチャーズがアレンジしていく。スタジオに入ると吉村は「これ使うといいよ」と、エフェクターを手渡してくれた。
それはギターサウンドにこだわる吉村の、ほぼ手作りによるもので、「ロボ秀」とマジックで書かれていた。
「ものすごーく良い音がするんですよ」
サングラスの下の瞳をキラキラと輝かせ、オモチャをもらった子どものように無邪気に笑う。
「『あ、これいただいたんだ』と思って、大切にしてたんだけど、ある日突然『返して』って言われて(笑)」
お金では買えない貴重なものだっただけに、ちょっぴり残念そうに語る。
「あの時のスタジオでも、吉村さんは延々とギターをいじってました。その分、本当に些細な違いが良くなってくるんですよね」
自分の中でしか感じられないものを感じて発見し続けること。職人気質な吉村から学んだことだ。
尊敬のまなざしを送るように、天を仰ぐ。
「バンドってやっぱり、簡単にやろうと思えばできちゃうというか。簡単なことを、ただこなす作業になりがちじゃないですか」
けれど、ブッチャーズは違った。吉村の姿を見て、バンドの難しさを実感した。
「吉村さんは一個一個、自分の弾いた音、跳ね返ってきた音、さらに違う何かを発見しながらやってるんですよね」
「だからブッチャーズの音楽は聞いててとても豊かだし、楽しいし、切ない気持ちになる…」
唇をキュッと結び、確かめるように、うなずきながら語る。音楽の中に景色が浮かぶのは、一つ一つ、音を積み重ねてきたブッチャーズの努力ゆえなのだろう。
だからこそ、一緒にスタジオに入ったことで、ある種の諦めもついた。
「やっぱりブッチャーズみたいなことはできないんだな」
しかし、この「諦め」はネガティブなことではない。むしろ、音楽活動の道しるべとなった。
「おんなじようなサウンドで勝負はできないな、じゃあ僕にできることはなんだろう?」
ブッチャーズのおかげで、自分らしさを体現できる音楽を目指すことができた。
吉村のギターサウンドに関して、もう一つ印象深いエピソードがある。渋谷で行われたライブイベントでの出来事だ。
その日は吉村の後輩にあたる北海道のハードコアバンド、SLANGが出演していた。吉村も訪れていて、客席とは別のフロアでお酒を飲んでいた。
SLANGが演奏を始め、微かに音が聞こえてくる。すると吉村は、眉間にしわを寄せてつぶやく。
「アイツら本当に…!」
そして突然、客席へと走り、そのままステージに乱入。アンプをガンガンいじってギターの音を変えたのだ。
「最初は『この人酔っぱらって何やっちゃってんの?』って思ったんですよ」
浅野は目をまんまるにして、その時の驚きを伝える。
「当時のギタリストの方、すごい見た目がいかつくて、バッと振り返るんだけど、吉村さんだから何も文句言わなくて(笑)」
ギターを弾きながら後ろを向くジェスチャーを添え、臨場感たっぷりに様子を語る。
「…けど、めちゃくちゃいい音になったんですよね」
ほれぼれとした表情で思い出す。とはいえ、やり方が破天荒すぎる。さすがは「ジャイアン」といわれるだけある。
「最初に会った時はとても優しかったんですけどね。親しくなるにつれて、どんどんジャイアン気質が出てきて」
ぶっ飛んだ行動に出る吉村の姿を頭に浮かべ、図らずも頬が緩む。それはただ傍若無人というわけではない。
「ジャイアンの時も優しいんです。そんな吉村さんが好きでした。居心地がいいというか、めちゃくちゃ面白いんです」
そんな吉村に、もしまた会えるなら一緒にギターを弾きたい。その思いは、いつまでも胸の中にある。
「ただ一緒に曲をやるんじゃなくて、ずっとずーっとアンプいじりながら、いい音出して…最高の音を作りたいですね」
遠くを見つめながら、そうつぶやいた。
お兄ちゃん以上、親未満の存在
── SLANG KO
これまでの取材の中で、たびたび登場した「ジャイアン」というワード。後輩から見た吉村の姿は、どのようなものだったのだろうか。
浅野の話にも出てきたブッチャーズの後輩、SLANGのボーカル・KOに尋ねる。
「ほんとにジャイアンそのものだったけど(笑)、すごい繊細で寂しがり屋でしたよ」
吉村の性格をそう振り返るKOは、15歳の時に前身バンドの「畜生」と出会った。
「吉村さんがブッチャーズ始めるぞ!」
うれしいニュースを耳にし、ライブハウスへ駆け付けた。1986年11月に札幌で行われた、ブッチャーズのデビューライブだ。
「そのライブがすごい衝撃的で、『ずっと札幌でバンドやっていこう』と決意しました」
特に衝撃を受けたのは、吉村が鳴らすギターのメロディー。何度も吉村に弾き方を尋ねたが、絶対に教えてくれなかった。
「見て覚えろ!」
そう言われ、2年ほどブッチャーズのローディーをやったこともある。
密に付き合いを続けていた2人だが、後輩として吉村と過ごした中で、型破りなエピソードもあったのだろうか。
「俺は後輩の中でもお世話になったり迷惑かけたりしたことが多い方なので、みんなが言うほど、そんなエピソードは無いっていえば無いんだけど…」
悩ましげに答える。
「あるっていえば毎日がそんな感じだったので…上手く言えないですね(笑)」
印象深いのは、吉村にモーニングコールを頼まれた時のこと。
「今日はスタジオだから、俺は職場で寝てるから起こせ」
言われたとおり、公衆電話から何度もかけた。所持金はたったの150円。なけなしのお金を全て使った。
「全部ガチャ切りするんですよ。で、後で『お前なんで起こさないんだよ!』とか(笑)。そんなのばっかりです」
浅野から聞いた、SLANGのライブへの「乱入事件」についても聞いてみる。するとKOは、全く意に介さない様子で笑う。
「『俺がオリジナルメンバーだ!』ぐらいに思ってたんだと思います(笑)」
実は吉村は、正式にボーカルが決まるまで、SLANGのボーカルを務めていたのだ。
勝手に音を変えられたところで、そんなことは話にも上らない。それほど、メンバーからも受け入れられた存在だった。
もちろん、吉村の優しさを感じる思い出も多い。18歳~19歳の頃には、ソーセージを焼いて食べさせてくれた。
吉村自身もあまりお金がなく、苦しい時期だった。塩こしょうを振っている時には「ケチャップじゃないの?」「贅沢言うな!」なんて話をした。
ばくばく食べている間も、吉村は全然ソーセージに手を付けない。全部食べ終わる頃に「食べないの?」と吉村に尋ねる。
すると吉村は怒って答えた。
「ばか!俺、猫舌だ!」
それは吉村なりの優しさだったのか、本当に熱くて食べられなかったのか、いまや確認する術はない。
生前の吉村と最後に会ったのは、亡くなるわずか半月前の2013年5月11日。ブッチャーズとSLANGの2マンライブが行われた日だ。
「あれは本当に僕の中でも一つの目標だったし、一つの区切りだったんです」
「吉村さんも、僕らを誘ってくれたことの意味合いって、普通の2マンとは全然違ったと思いますよ」
ライブを顧みる。あの日は積もる思いが溢れすぎてしまった。それは鉛のようにずっしりと、心に残っていた。
「もう1回やりたかったです。純粋に全力でもう1回やりたかった」
しかしこれが、ブッチャーズとして吉村がステージに立った最後の日となってしまった。
「あの人との出会いがなかったら絶対に今の僕はいなかった」と、何度も公言しているKO。いまだに吉村の死を受け入れられない部分もある。
「いつまでもそれじゃダメなんですけどね…もっと恩返ししたかった」
言葉に、悲しみと後悔がにじむ。10代の頃から慕ってきた彼の全てに影響を受けた。
「僕は不器用なので吉村さんの真似はほとんどできなかった」
「eastern youthの吉野(寿)くんはギターのスタイルとか『全部、吉村の真似!』って言い切ってましたけど、僕の場合は育ててもらったって感覚の方が強いです」
前身バンドの畜生からCHERRY BLOODを経てのブッチャーズ。そして怒髪天とスキャナーズ(後のeastern youth)。
尊敬する3バンドから、特にフロントマンの吉村、増子直純、吉野から三者三様に、多大な影響を受けた。
「誰が欠けても今の僕はなかったと思うけど、吉村さんは家も近所だったし、よく一緒に帰ってた。帰り道とかで何気なく交わす会話がね…」
少しの沈黙。吉村が「なぜ評価されないんだ?」思い悩んでいた姿を想起する。そこからまた新曲に取り組んでいく姿は、今でも忘れられない。
「後輩って立場から、喜怒哀楽いろんな姿を見てきました。『お兄ちゃん以上、親未満』って本気で思ってましたから」
寂しげに、帰らぬ人への思いを明かした。
演奏は勝負。無言で戦い、許し合ってきた
── bloodthirsty butchers 射守矢雄
最後は、ブッチャーズのメンバーとして、そして親友として、吉村と共に過ごしてきた射守矢に話を聞く。ずっと横で見つめてきた彼は今、どんな思いを抱えているのか。
「僕の中では続いてるんですよね。吉村は常に頭の中にある存在だから『あ、5年なんだな』『もうそんな経ったっけ』っていう感じ」
射守矢が転校生として北海道・留萌市の小学校にやってきたのは6年生の時。クラスは違ったが、課外活動をきっかけに吉村と知り合った。
「吉村は出会った頃からああいう見てくれで、体がでかかったんでね、目に入りますよね」
小学生時代を思い出し、笑みがこぼれる。しかし、すごく仲良くなって、常に2人でつるんでいたわけではなかった。
「同じグループの中、友達の輪の中に常にいるっていう感じで」
「僕と吉村は、近からず遠からず、ギリギリでバランス保ってるような関係性だったんで、バンドがなかったら友達にはなってないかもしれない」
2人がバンド活動を始めたのは、中学2年生の頃。40年近く前の田舎に、ギターやベース、ましてやドラムセットを持っている人は少なかった。
楽器を持っていた面々が自然と集まってバンドを結成した。その後、メンバーやバンド名が変わりながらも、2人は共にバンドを続け、ブッチャーズの活動が始まった。
ドラマーの小松正宏が加入し、活動を重ねていくうちに、だんだんと真剣度が増していく。
「吉村はちゃんと『バンドをどうしていかなきゃいけない』とか、『良くなっていくためにするべきこと』とか、考えてたと思う」
「僕は昔っから『演奏できればいいや』みたいに、あんまり踏み込んで考えないタイプでした」
バンドをやる上でのスタンスにおいて、2人の間にはずっと温度差があった。うつむきながら関係を明かした後、ふと顔をあげる。
「だからこそ『吉村がオフィシャルで発信したことはバンドの意志だ』っていうのが自分の中にあって」
はっきりとした口調で語られる射守矢のポリシー。真っすぐ前を見据えたその目は、確固たる思いを感じさせる。
「後々になって『吉村はあんなこと言ってるけど、俺は本当は違うんだよ』とか、そういう話は絶対にしないんです」
バンドというものに真摯に向き合い続けてきたブッチャーズは、「日本のオルタナシーンの先駆者」と評される存在となった。
彼らにとって、音楽を作ることは「勝負」だった。
「必死にやってましたよ。『アイツらがああやって弾いてきたから、俺はこうやってやってやる!』みたいに、演奏で勝負するというか」
「『適当に合わしときゃいいんでしょ』とか、そういう作り方は一切してないですね」
音楽でぶつかり合ってきた3人。その関係はとにかく絶妙なバランスの上で成り立つものだった。
「3人で続けてきて、後半の頃はガチャガチャな状態でしたね(笑)」
苦笑いを浮かべて明かす。そんな中、変化が訪れた。田渕ひさ子の加入だ。
「チャコちゃん(田渕)っていう存在があって、ちょっと安心するところはあったんですよ」
田渕の存在がクッションとなり、3人の関係を和らげてくれた。サウンド面に関しても、どんどん良くなっていく実感があった。
変化しながらも、吉村の圧倒的な存在と共にあり続けたブッチャーズ。中でも射守矢と吉村の関係は特別なものだった。
吉村の奔放な振る舞いに、人から「ブッチャーズやめろ。あんなの付き合う必要ない」と言われたこともあった。それでも射守矢は、吉村の隣に居続けた。
「学生時代、彼に精神的な部分で2回救われたことがあって。その思いがあるから、何があっても付き合えたっていうところはあるんです」
「それに、彼の弾くギターが好きだったんですよね」
共に切磋琢磨して、無言で戦ってきた。お互いに演奏で許し合ってきた。そうやって積み重ねてきた歴史を思い返し、ふっと口元が緩む。
「俺のことをベースで生かしてくれた。『吉村のギターがあるから生かされてるな』ってずっと感じてました」
吉村への思いは、バンドメンバーとしてのものだけではない。むしろ、幼なじみとしての思いの方が強い。
しかし、それをインタビューで語ることはない。それは「公の場ではバンドの一員として答えたい」という射守矢の信条に基づく。
「昔からずっと『ようちゃん、ようちゃん』って呼んで育ってきたんですけど、公の場では吉村って呼ぶように意識していて」
一呼吸おき、力強く話す。
「吉村はバンドの顔なんで、立てるところは立てる、っていうのがメンバーの役目だと思う」
吉村の死後、ブッチャーズのメンバーはどんな思いで、この5年間を過ごしてきたのだろうか。
そう尋ねると、射守矢は目を伏せ、手元にあったハンカチをキュッと握りしめる。
「吉村に対して、メンバーそれぞれ違う思いがあるでしょうけど、僕にとっては代わりのない、ずーっと足かせのようについて回る存在」
「そこまで背負い込まなくてもいいんじゃねぇのって思われるかもしれないけど…」
握った手に、さらに力を込めて自らの感情を吐き出す。
「ブッチャーズや吉村っていう存在は、僕の中ではやっぱどうあがいても常に頭の中にある、どうしようもない存在なんですよね」
一方で、田渕と小松の2人には、そんなふうには考えてほしくないと明かす。
「こんな思いは俺だけでいいかなって。でも、俺ぐらいはそうやって思っててやんなきゃ、ようちゃん可哀想かなって(笑)」
ずっと「吉村」と呼んでいた射守矢が最後の最後、ポロリと発した「ようちゃん」の名に、こらえていた彼の思いが見えた気がした。
【取材・文=奥村小雪(LINE NEWS編集部)、撮影=大橋祐希、動画編集=滝梓】
「わがままに生きてわがままに死んだ」死去から5年、愛すべき吉村秀樹という男(前編) はこちらから。
詳細はスマートフォンから
2013年5月27日、ひとりのアーティストがこの世を去った。
bloodthirsty butchers 吉村秀樹。
急性心不全で、46歳という早すぎる死だった。
突然の訃報を受け、多くの人々が悲しみに打ちひしがれたあの日から5年──
bloodthirsty butchers(以下:ブッチャーズ)の魅力は、いまだ色あせない。
国内にとどまらず、ベックやフガジといった海外ミュージシャンにも認められる彼らの音楽は、多くのアーティストに影響を与えた。
そんな伝説的バンドのフロントマンとは、どんな人物だったのか。残された仲間たちは何を思っているのか。
吉村を愛してやまない人々の証言を通して、彼の人生をたどる。
まだ、この世にいそうな気がしますね
── ASIAN KUNG-FU GENERATION 後藤正文
「吉村さんについて教えてほしい」
全国ツアーの真っただ中、多忙でありながらも後藤は依頼を快諾してくれた。ライブ前の貴重な時間に話を聞かせてもらう。
後藤がブッチャーズの音楽に出会ったのは1996年。アジカンを結成して1年も経たない10代最後の頃だった。
雑誌で評価され、音楽好きの間でも話題となっていたブッチャーズのアルバム「kocorono」。少し背伸びをして、CDを手に取った。
「『kocorono』は日本のロックシーンに残る名盤。この先ロックを語っていく上で絶対に外せない一枚だと思います」
拳に力を込め、はっきりと語る。
「オアシスなら1stや2nd、ウィーザーだったらとりあえず『ウィーザー (ザ・ブルー・アルバム)』と『ピンカートン』聞いてみな、みたいなね」
知っているのと知っていないのとでは話が違ってくる、重要なアルバム──「kocorono」もそのひとつだと言い切る。
とはいえ、ブッチャーズが奏でる音楽は、そんなに簡単なものではない。
「多分ね、最初のうちは分かんないかもしれない。ある程度、音楽を好きになって見えてくるところもあると思う」
ディープな音楽だからこそ、聞き続けると見えてくる景色がある。感じる思いがある。
後藤は真っすぐ前を見つめて続ける。その声にはより一層、熱がこもる。
「音楽や文学って、食事とかと違って、一回食べて『口に合わないな』と思って諦めちゃうと、損をすることってよくあるんですよ」
「逆に『いろんなミュージシャンがこんなに良いって言ってるのに、なんで俺には良さが分からないんだろう?』って考えたほうが、後々プラスになることはありますよね」
ブッチャーズのサウンドといえば、響き渡る骨太な轟音(ごうおん)が印象的だ。それは数多くの「ジャイアン伝説」を残した吉村の気質を感じさせる。
実際、後藤と初めて出会った日のエピソードも、吉村らしいものだった。
2003年5月、アジカンが初のワンマンライブを行った日。打ち上げの場に突然、吉村は現れた。
「メンバーだけで飲んでたのに『行くぞ!』って首根っこをつかまれて、全然知らないバーに連れて行かれたんです」
しかし吉村はバーにいた別の人と話し込み、後藤は放置状態…。初対面で困惑しそうな話だが、後藤はいたく楽しそうに話す。
「だからその時に会話した記憶はあまりなくて…謎の会なんですよ(笑)」
その後も何度か共演することはあったが、距離がグッと近づいたのは東日本大震災が起こった後。
後藤が岩手・大船渡へ炊き出しに行った時、吉村もその地に足を運んでいた。一緒に弾き語りをして、いろいろなレコードの話をするようになった。
そうしてかわいがってもらううちに、吉村の気遣いを感じることも増えていった。目を細め、当時を思い起こす。
「大船渡で弾き語りした次の日、吉村さん入院しちゃったんです。それで僕は陸前高田の中学校でひとりで歌うことになっちゃって」
実は、入院する前の晩から兆候があった。夕飯の支度を買って出た吉村は、得意だというキムチ鍋を振る舞ってくれた。
「とても味が濃くて、僕はおいしく感じなかったんですよ。だけど、みんな気を使って『吉村さんうまいっす〜』って言ってて」
しかしこの時、吉村は体の調子が悪く、何も食べられない状態だったという。そのような状態であることを隠し、味見をせずに鍋を作っていたのだ。
「吉村さんも気を使って、みんなも気を使うっていう…」
後藤は少しうつむいて、苦笑してみせる。
ジャイアンといわれるような振る舞いをしているときにも、吉村の気遣いは見えた。
「後輩がわーっと集まってくると、ジャイアンのスイッチが入った吉村さんが『脱げ!』とか『氷食え!』とか言って、よく分かんない催しが始まるんですよ」
「けど、僕はそういうのあんまり言われなかったです。僕みたいな、のび太キャラには優しいんですよ。『映画の時のジャイアン』みたいな」
実は優しく、思いやりのある人だった。型破りな言動も、愛されたがりな吉村なりの愛情表現だったのだろう。
「多分、サービス精神でやってるところもあったと思うんですよね。面白くしよう、場を楽しませよう、みたいな」
だからこそ、みんなに囲まれていながら、ポツンと所在ない表情の時も多かった。生前の吉村の姿を思い出しながら、ポツリとつぶやく。
「孤独な雰囲気というわけじゃないんだけど、独特の寂しい顔をしてる時があって…僕にはそう見えていました」
轟音の中に緻密な構成が織り込まれたブッチャーズの音楽。それは、豪快でいて、実はとても繊細だった吉村の姿そのものだったのかもしれない。
吉村が急逝した日、アジカンは初のヨーロッパツアーを控えていた。成田のホテルで過ごしている時、BRAHMANのTOSHI-LOWから電話がきて、訃報を聞いた。
「呆然としましたね…なんとも信じられないという感じ。『本当かよ?』みたいな」
言葉を詰まらせながらも、思いを明かしていく。
「亡くなっちゃったんですけど、まだこの世にいそうな気がしますね。フェスやイベントの楽屋に、ふらっと入ってきそう」
その一方で、音楽的に言えばむしろ喪失感があった。
「音作りとかエフェクターの話とか、ギターまわりのことで『吉村さんに教えてもらえばよかったな』と思うことがたくさんありますね」
「どういうふうにチューニングして、ギターをどう握ってるかとか、もっと話を聞いておけばよかったな…」
そのうち一緒にスタジオに入って、いろいろなことを尋ねて──
そんな想像はしていたが、叶うことはなかった。
バンド仲間という以前に、友達だからね
── 怒髪天 増子直純・上原子友康
吉村と同郷で育った増子と上原子。彼らに、よりパーソナルな吉村の姿を尋ねる。さすがは長年の盟友、2人は飾らぬ言葉で率直な思いを語る。
増子「5年か…早ぇなあ」
上原子「昔からの幼なじみだけど、1年や2年会わないことは結構あったし、5年経った感じはしないですね」
増子「俺はなるべく葬式や墓参りは行かないようにしてるからなあ、友達とか知り合いとか。行くとこう…腹立ってくるからねえ」
腕を組み、やり場のない思いを吐き出す。
増子「認めたくないっつうか…あまりにも現実的というかさ」
増子「それまで、いろいろとはみ出して生きてきたのに、急にそういうところだけカッチリされても、本人も不本意だろうなと思うしね」
上原子「そういうのやってないから、余計いまだに実感がないのかもしれない。『おう!久しぶり!』って現れそうというか」
北海道・留萌市で、吉村と幼少期を過ごした上原子。しみじみと当時の光景を思い浮かべる。
上原子「小学4〜5年生の時かな。僕が通ってた小学校にようちゃん(吉村)が転校してきたんですよ。家も歩いてすぐの近所で」
今年、ツアーで故郷を訪れた際、たまたま吉村が昔住んでいた家を通り掛かった。
上原子「何十年ぶりぐらいかに、いろいろと思い出して…」
じわりじわりと、思い出がよみがえる。
「よしむらくーん」
登校する時は、いつも上原子が迎えに行き、そう呼びかけていた。早めに吉村の家へ着くが、返答はいつも同じ。
「上がって待ってろよ、今準備してるから」
毎日、遅刻ギリギリ。2人で学校まで走った。子どもの頃からガキ大将のような一面があった。その一方で面倒見が良く、優しかったところも昔から変わらない。
溢れる感情をグッとこらえる上原子。頬を震わせながらも、無理やり笑顔をつくりながら話し続ける。
上原子「すぐ友達もできるし、社交的で。増子ちゃんと知り合ったのも、ようちゃんが紹介してくれたのが最初だし」
同じタイミングでギターを始めた吉村と上原子。ブッチャーズの前身バンド「畜生」で、共にバンド活動をし、それがきっかけで増子と出会った。
18歳の頃、パンクバンドで活動していた増子は、札幌でライブイベントを企画する。出演バンドを探していた時、うわさになっていたのが畜生だった。
「留萌にいいバンドがいる、かっこいいぞ」
それを聞いた増子は、吉村に声をかける。出演を快諾した吉村が、メンバーに呼びかけた。
「札幌で今度ライブやるぞ。増子っていう全部仕切ってるやつがいるからよぉ」
突然のことだったが、社交的な吉村のおかげもあり、畜生のメンバーは同い年の増子とすぐに打ち解けた。イベント後は増子の実家に泊まって、みんなでカレーを食べた。
上原子「それがなかったら、今こうやって怒髪天もやってないし…やっぱり、すごく大事な人ですよね」
増子「まあ本当、人生のあらゆるところで大きく関わってきたからね。友達でもありバンドとしてのライバルでもありさ」
増子「やっぱ特別なんだよなあ。仲間以上というか、家族というかね」
上原子「札幌出た時も、よく一緒に遊んでたしね。お互いバンド仲間という以前に、友達だからね」
1991年、ブッチャーズや怒髪天、eastern youthなど、札幌のバンドがこぞって上京した。みんなで近所に住み、何かにつけて集まった。
お互いに気心の知れた関係だ。わざわざ音楽やバンドの話をすることは少なかった。しかし、吉村は「これ絶対いいから聞け」と勧めてきた。
上原子「音楽を見つけてくるのが上手だった。どこで仕入れてくるのか…振り返ってみれば、ようちゃんは小学校の時から洋楽聞いてたな」
上原子「誰よりも先に留萌のちっちゃいレコード屋で取り寄せて聞いたりしてたし」
増子「どこで知るんだろうね、ほんと謎…まあ細かいもんね。調べるのも好きだし、マメだった」
インターネットなんてない時代。吉村はとにかく音楽に貪欲だった。アンテナを張り巡らせ、海外でこれから起こるムーブメントも予見していた。
だからこそブッチャーズは、「オルタナティブ・ロック」という言葉が日本で広く知られるようになる前から、独創的な音楽を生み出すことができた。
増子「ダイナソーJr.とかニルヴァーナとかが入ってきた時、『遅ぇな、今ごろ?』って思ったもん。先にブッチャーズ聞いてたから」
上原子「後々聞いて『あ、これブッチャーズじゃん』ってなること多いよね」
増子「現に向こうのバンドもブッチャーズ聞いてたっていうし。早すぎたんだよな、ブッチャーズは」
増子「海外評価もすごい高かったのに、それが日本で反映されないことに、ようちゃんはいっつもヤキモキしてたよね」
上原子「うん…」
増子「自分が望むところ、行きたい場所が高いところにあったから、そこに一気に行けないことへのフラストレーションがいっつもあった」
当時の吉村の胸中を思い、唇をかんで、目を伏せる。
増子「まあ本当に芸術家体質というか、生きづらかったんだろうなあ」
増子「ブッチャーズのすごさは、全部後から分かるんだよなあ…最初は分からない。対象物がでかすぎて、やってることが進みすぎていて」
上原子「ひたすらブレずに音を一つ一つ積み重ねて、曲作りを追究するって、なかなか、できるようでできないからね」
5年、10年と経った後、「こういうことだったのか」と気付かされる。ブッチャーズは、それだけ先を行っていた。
それでいて、曲の中に感じる空気、見える景色、湧き上がる感情は、吉村らしいものだった。
増子「わがままに生きてわがままに死んだな。そういう生き様が、音楽に全部表れてる…人懐っこさとか、寂しがりやな部分とか」
上原子「それに、すごく北海道の音楽だなって感じる。北海道の景色があるし、留萌の景色もあるし」
増子「一生聞けるバンドってそうそうないと思うんだけど、ブッチャーズはそれに値するバンドだよ」
上原子「それに、後輩のバンドからブッチャーズ好きって聞くと、やっぱりうれしい。『ああ、ようちゃんがやってきたこと残ったな』って」
増子「ブッチャーズの良さを理解できる人が、若い世代にどんどん出てくるっていうのはすごく理想的だしね」
上原子「ようちゃんはきっと、『な?』『だろ?』って言ってるだろうね」
ふふっとほほえみ、天国の吉村に思いをはせた。
吉村さんの誘い、断らなきゃよかったな
── 宮藤官九郎
脚本家、監督、俳優など、多岐にわたって活躍している宮藤。グループ魂のギタリスト・暴動としても知られる彼は、吉村の訃報を受け、ブログでこうつづっていた。
「吉村さんのように全身全霊で音楽と向き合う方にとって俺みたいな片手間ミュージシャンが目障りなんじゃないかな。怖くて訊けませんでした」
しかし、異業種だからこそ見えた姿もあるのではないか。宮藤から見た吉村の姿をたどっていく。
「昔、ダイナソーJr.やソニック・ユースみたいな、音がでかくてハウってるようなバンドってよく分かんなかったんですよね」
首をかしげ、眉間にシワを寄せる。
「正直、俺これ分かんねえな…」
それが当時の感覚だった。そんな時に聞いたのが、ブッチャーズの「kocorono」。
「やっと『分かる!』って思って」
ハッとしたように目を見開き、世界が広がった瞬間について、喜々として語る。
「ブッチャーズを聞いた後に、もう一回ダイナソーJr.とか聞いてみて『ああ、やっと分かるようになった気がする』って感じたんです」
そこからブッチャーズの過去の作品をさかのぼり、新しい作品が出れば聞き続けてきた。
目をつむり、吉村が聞いていた世界をイメージする。
「『普通の人には聞こえない音が、吉村さんには聞こえてたんじゃないかな』って、時々ブッチャーズの曲聞いてて思うんですよね」
「バーッ!」と爆音でギターを鳴らした時の残響、耳鳴りのように脳内に響く音── それら全てを含めて音楽として成り立っていた。
「聞き間違いみたいな音まで含めて、狙ってやってんのかなあって思ったり」
「最初にCDきいてるとき、3人のバンドの音じゃないなって思いました」
宮藤と吉村が出会ったのは、グループ魂がNUMBER GIRLと初めて対バンした日。ライブが終わった後のことだった。
打ち上げでNUMBER GIRLのメンバーが即興で演奏する姿を眺めていると、吉村がステージに上がる。
弾き語りで「august/8月」を披露するが、酔っぱらっているためか、何度も間違える。
「あ!違う!」
そう言って、何回も曲の頭に戻る。
「何度も何度も同じ歌詞が出てきて『そもそも長い曲なのに、いつまでも終わんねえな』って思ったのが最初でしたね(笑)」
自分の曲を間違えたとしても、他の人には正解なんて分からないだろう。それでも吉村は正解を求め、弾き直し続けた。
「『なんちゃって』でやり切っちゃえばいいのに、何回も戻るっていうのは、繊細な人だったからこそなんじゃないかなあ」
天を見上げ、生前の姿を思い返す。
とあるライブで、吉村が「いいちこ」の一升瓶を片手に歩いているかと思えば、いつの間にか空になっていたことがあった。
そんな酒好きな姿でさえ、繊細さからきているのではないかと思えてくる。
「酔っぱらってないと、いろいろ考えちゃう人だったんじゃないかなって」
しかし当時は、「ジャイアン」の呼び名にふさわしいうわさも、たくさん耳にしていた。吉村の繊細さよりも怖さを想像することの方が多かった。
そのせいで、いまだに悔やんでいることがある。それは、吉村と一度も共演できなかったことだ。
チャンスはあった。吉祥寺の銭湯で行われていたイベント「風呂ロック」をたまたま見に行ったときのことだ。
その日は、ブッチャーズのメンバーである田渕ひさ子が出演していて、吉村も会場を訪れていた。
「風呂ロックすごい良かったですね」
吉村に声をかけたところ、後からメールで誘いがきた。
「今度、友康と風呂ロックやるから出てくんねえか?」
しかし宮藤は、出演をためらってしまった。どうしても怖いイメージが抜けず、いまひとつ踏み切れなかった。
迷っているうちに、仕事が入ってしまい、風呂ロックに出ることはできなかった。ライブを見ることすらできなかった。
「あれ、断らないで無理してでも出ときゃよかったなって、今でも思うんですよね」
うなだれながら、後悔を口にする。
結局、人から聞いた「怖い体験」は、自身に対して起きることはなかった。
「僕もバンドはやってますけど、もともとが異業種で、片足しか突っ込んでなかったので、優しくしてくれたんだろうなあって思います」
数々の伝説を多くの人々の記憶に残し、パチンと泡がはじけるように、この世から姿を消した吉村。
誰よりも愛されたがりだったという彼は、今もなお、たくさんの人々に愛され続けている。その証拠に、仲間たちから聞く吉村の話は、どれも愛に満ち溢れていた。
愛のある言葉に縁取られるようにして、はかなくも純粋に、そして豪快に生きた彼の姿が、明瞭に浮かび上がってきた。
吉村のことを、ブッチャーズのことを、後世に伝えたい──。語り部たちのそんな思いに応えるべく、彼の轟音に魅了された者たちのもとを、さらにたずね歩くことにした。
「伝説になっちゃダメなんだ」死去から5年、愛すべき吉村秀樹という男(後編) に続く。
【取材・文=奥村小雪(LINE NEWS編集部)、撮影=大橋祐希、動画編集=滝梓】
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