第8回
「ムード」に消される声
モヤついたり、イラついたり......。
性格上、あんまり「ブチッ!」とくることはないけど、ここ数年は「モヤモヤ」もしくは「イライラ」することが多くなってきた。
たぶん、子育てしていることが関わっていると思う。「子どもが言うこと聞かずにイラつく」ことがないわけじゃないけど(というか普通にあるけど)、話の中心はそこじゃない。
「次の世代」のことを考えると、政治とか社会とか世の中の仕組みとか、そういったことに「心がざわつく」ことが多くなってきたのだ。
制度よりムード?
確か、息子が1歳になったくらいの頃。少し年下の知人と産休・育休の話題になったことがある。
その人は世間的に「エリート社員」と言われるような人。育児にも積極的に関わっているらしく、周囲からの評判も良い。ぼくも以前から知っている人だけど、その人の口からこんなフレーズが出たのだ。
「産休・育休って、制度そのものより(取得できる)ムードが大事なんだよね」
同席した人たちは「そうそう」みたいな感じで頷いていたけど、ぼくは何だかモヤモヤとイライラが同時に押し寄せてきて大変だった。
ぼくがイラついたポイントは2つある。
1つは、この発言をしたのが「彼」だったという点。彼は社内では若手の筆頭で、すでに責任ある職を任されていて、将来は№1~2くらいのポストに就くと目されている。
つまり、「社内のムードを作る側の人」が、そのムードに関して他人事みたいな口ぶりで話しているのにイラッときてしまった。
これと同じ発言を、「社内で立場の弱い人」が、「制度はあるのに、取得できるムードがなくて困っている」という文脈で言ったとしたら、ぼくはイラつくことはなかっただろう。親しい人であれば、むしろその悩みに寄り添いたいとさえ思ったかもしれない。
もう1つは、「制度よりムード」という発想の怖さに無自覚だった点。「立場の弱い人」がムードに頼って生きていかなきゃいけないのって、むちゃくちゃ恐ろしいことだ。
これって、ひっくり返せば「立場の強い人は、立場の弱い人を、その時々のムードに合わせて処遇できる」ということになる。そんなことさせないために、きちんと制度を整えなければならないのだ。
マジョリティにとってムードは空気みたいなものだけれど、マイノリティにとっては檻みたいなもの。決して誇張ではなく、本当に怖いものだ。
「権利」に鈍ければ「差別」にも鈍くなる
某医大入試での女性差別が話題になった。報道を見た日は無性に腹が立って、何かしたわけじゃないけど怒り疲れて、夜には一人でヘロヘロになっていた。
これって、制度よりムードが優先された最悪の事例だと思う。「女は使いにくい」というムードが、入試という厳正な制度を骨抜きにしてしまったのだろう。「日本に女性差別はない」とは思ってなかったけど、ここまで露骨に見せつけられたのはショックだった。
この報道を受けて、SNSには「差別したんじゃなくて区別して扱っただけ」という表現がちらほら見かけられた。「差別と区別は違う」というのは、障害者差別が起きたときにも出てくる定型句。「ここにも出てきたか」なんて思っていると、さらにぐったりしてしまった。
とりあえず入試に関して言うと、「差別」は不当に「されるもの」であり、「区別」は不利益が生じないように「してもらうもの」(例えば「拡大鏡の使用」など)。「不利益の生じる区別」は「差別」だし、そもそも属性を理由に「不利益」を押しつけることは許されない。
「差別と区別は違う」というフレーズが出てくるのは、「それは差別だ!」と批判された側が思わず口にするというパターンが多かったように思う。でも、SNSなんかを見ていると、直接は関係ない人まで野次馬的に使っていることがあって、何だかここでもモヤモヤが収まらない。
そもそも、「男社会」が作ったムードに女性の人生が左右されるのは差別だと思うのだけれど......。
この社会は「権利」という概念に鈍いけど、それと対になって「差別」への感性も鈍い。「差別」への感性を鈍らせないためにも、ぼくらは「権利」に敏感でなければならない。
女性たちの障害者運動
「権利」や「差別」について知るためには、障害者運動のことを調べると良いと思う。こうした問題を知るためのヒントがたくさん詰まっているからだ。
ただし、障害者運動にも「反面教師」として学ぶべき点がある。こうした運動の内部にも、女性が軽視されたり、差別されたりした事例が存在した。
以前、「日本脳性マヒ者協会「青い芝の会」神奈川県連合会」に所属した横田弘(よこた・ひろし)さんを紹介した。「青い芝」の神奈川県連合会といえば、数々の反差別闘争を繰り広げてきた有名な団体。「障害者のままで何が悪い!」と主張して、主に70年代の福祉業界に激震をもたらした人たちだ。
「青い芝」には、脳性マヒ者同士で結婚し、夫婦で運動に関わった人たちも少なくない。当時は、障害者が結婚して家庭を作ること自体「社会との闘い」だった(現在でも風当たりは強い)。とてもラディカルな挑戦だった一方で、彼らの性役割認識はかなり古風だった。
例えば、神奈川県連合会には、妻たちが連帯して立ち上げた「婦人部」という部署がある。
「青い芝」にはいくつか支部があるけど、「婦人部」が存在したのは神奈川県連合会だけ。こうしたセクションが存在したというのは「神奈川の妻たちが強かった」というわけじゃない。実態はむしろ逆。女性たちが「神奈川県連合会」と名乗ることに対して、出過ぎた真似だと快く思わない風潮があったようだ。
つまり、当時の障害者運動の内部にも、「女は内(家)、男は外」「女は一歩下がるべき」というムードが存在したのだ。
「夢とロマン」対「日々の生活」
長い目で見れば、「青い芝」は創立者3人のうち1人は女性だし、総代表に女性が就いたこともあるし、女性が中心になって闘った反差別運動もある。
だから「女性が『青い芝』の運動に関わらなかった」とは言えないけど、「運動内部に女性が軽んじられる風潮が存在した」ことも指摘しなければ、フェアじゃない。
神奈川県連合会「婦人部」の人たちが、こうした事情を本にまとめてくれている。タイトルは『おんなとして、CPとして』(CP女の会編、1994年。「CP」とは脳性マヒのこと)。
女性目線から障害者運動を捉えた超絶的名著だけど、残念ながら絶版で、再版の可能性もないらしい。
この本の中で、内田みどりさん(1939-2015)という方が次のように書いている。
男たちは、障害者運動に夢とロマンをかけ、女たちは、日々の生活をかけた。
この言葉、少し解説しておこう。
「青い芝」が歴史的に語り継がれるような反差別闘争をしていたとき、婦人部の妻たちは「運動」とは違う種類の困難に直面していた。
例えば子どものこと。彼女たちの子どもは障害のない「健全児」だったから、地域の学校に通い、隣近所の子どもたちと共に生活していくことになる。親たちも子どもを通じて新しい人間関係ができていく。
もちろん、良い関係ばかりとは限らない。「障害者の親をもつ子ども」「障害のある親」という隣近所の目線が心を波立たせることも多くなる。
それから、「家族」を維持するためには、「家のこと」(家事・家計・育児などなど)をやりくりしなければならない。そうした懸案を引き受けるのも(引き受けさせられるのも)妻たちだった。
婦人部の人たちも、毎日のように障害者差別を実感していたから、運動にも積極的に参加していた。でも、路上でビラをまいたり、行政と交渉したりしているその瞬間にも、子どものいる人は家で留守番させている子どものことを心配していた。もっと小さい子どものいる女性は家で育児に追われていたから、そもそも運動の現場に行きたくとも行けなかった。
どんなに障害の重い人でも生きていける社会を作りたいという理念と、毎日子どもの世話をし、家庭を維持しなければならないという現実的な懸念。この二つが運動家の妻たちを悩ませた。
内田さんが「女たちは、日々の生活をかけた」というとき、その「日々の生活」を守ることがどれだけ苦しいことだったか、それを想像しないといけない。そして、こうした苦労が「歴史」に残りにくいことも知らなければならない。
「障害者差別」と闘うために、「家と子ども」を任せっきりにして運動に出ていく夫の背中を、妻たちはどんな思いで見送ったのだろう。きっと複雑で、割り切れない思いがあったはず。いつか「運動家の妻」というテーマで文章を書いてみたいと思っている。
「女性の声」が忘れられていく
かくいうぼくも、反省しなければならない点がある。
学生時代、たびたび横田弘さんのところに通って話を聞いていた。実はその時、内田みどりさんに何度もお会いしていた。いつもニコニコしていて、きさくで、朗らかな人だった。
ぼくも神奈川県連合会に「婦人部」があったことは知っていた。内田さんがそのメンバーであり、かつ大変な名文家であることも知っていた。
でも、ぼくは「内田みどりさんにお話をうかがう」ということを一度もしなかった。
横田弘さんのお話をうかがうことで頭が一杯で、そこまでの余裕がなかったのは事実だ。横田さんの難しい話を理解するだけでも精一杯だったから。でも、それも陳腐で薄っぺらい言い訳にしかならない。
結局、ぼくも障害者運動を「男の夢とロマン史観」で見ていたということだ。
「反差別闘争の歴史」を書こうとしていながら、「男たちの成果」ばかりに目を向けて、日々の生活を闘った女性の言葉を聞こうとしなかった。内田さんの言葉は、「反差別闘争の歴史」から、生活をかけた女性の声が忘却されることへの警鐘だったのに。
*
ぼくにも家族ができて、「日々の生活を維持すること」がどれだけ大変で、どれだけ大切なことか、その一端がわかってきた。だからこそ、後悔して、反省して、学び直そうと思う。
そしてぼく自身、どちらかと言えば、この社会のマジョリティとして、「ムード作る側」として生きてきたのだから、ムードによって消されている声に敏感でいたいと思う。