太平洋戦争へのノート 1

日本の太平洋戦争くらい何がやりたかった判らない戦争はない。
直截の発端は、フランスがドイツに負けて、あっけなく占領されてしまったことで、これによって出来たインドシナの真空地帯を、日本はどうしても手にいれたかった。

のっけから余計な話をする。
ツイッタで「無害なはちへお」@hachiheo さんという、ベトナムに留学後、2007年からハノイに住んでいる豊かな常識をもった人がいて、こっそり愛読しているが、たしかはちへおさんであったとおもう。
ベトナムに戦時中日本がかけた迷惑について話していたら、さっそく「例の類の」と形容したくなる日本人がやってきて、
「白人からベトナムを解放したのは日本人です。そんなことも知らないのですか」と述べていて、はちへおさんのげんなりする顔が思い浮かぶようだったが、
日本がベトナムの欧州人からの解放に手を貸して功績があったというのは日本人だけが信じている伝説で、日本人観光ツアーのガイドがお愛想で述べることくらいはありそうな気がするが、事実ではない。

東遊運動で有名なファン・ボイ・チャウが日本政府に期待したことがあるのは現実の歴史だが、日本の反応はベトナム人を裏切ってフランス側に立つことだった。
はっきりと自分達を欧州人と規定していて、気分を述べれば、いわば連合国側のフランスが倒れたことによって枢軸側の欧州国家としてベトナムを乗っ取りにやってくる。

すっかり欧州国家のつもりで行動した日本の誤算は、「そのくらい大目にみてくれるだろう」と考えていたアメリカが、激怒してしまったことで、石油の禁輸を始めとする強硬策をとり、また、外交的には「日本のようなウソツキ国家のいうことはいっさい信用しない」という態度をはっきりと示すようになる。

それまで暫定協定を結んだりして、ぎこちないなりに外交交渉を行っていたのが、このベトナム進駐からあとは、日本のいうことはいっさい信用しない姿勢に変わっていきます。

いっそ、すがすがしいくらいの外交的な失敗だが、国民に自分達の失敗を知らせる習慣をもたない日本政府は「バスに乗りおくれるな」という世にも品の悪い標語で、ナチの世界支配のおこぼれにあずかりたい一心で新体制運動をすすめてきた国民とともに「棚ぼた」で手に入ったインドシナを、濡れ手で粟の、おこぼれ第1号として歓迎する。

アメリカは戦前日本では、もともと大変な大衆的人気がある国でした。
えええええー! そんなバカな! 鬼畜米英を知らないのか!という人がたくさんいそうだが、例えば、おおきなアルバムくらいのサイズの蒐集帳に5冊、戦前のマッチ箱の絵を集めてあるが、ベティブーブや、分厚く真っ赤な唇に漆黒の肌の誇張されて戯画化された、いまなら当然人種差別的として問題になりそうなアフリカンアメリカンをあしらったマッチの箱は、おもいがけないくらいたくさんある。
これも、たくさんある、スマトラやパラオというような南洋の地名をあしらったマッチ箱絵とおなじくらいの数があるのではなかろーか。

当時のエンターテイメントの中心地、浅草六区の演し物でも洋モノはアメリカのものが最も人気があって、あるいは、例えば1928年の二村定一の大ヒット「私の青空」は、ウォルター・ドナルドソンとジョージ・ホワイティングがつくった「My Blue Heaven」の日本語版でした。

大衆文化から目を転じて軍人の留学先をみても、日露戦争の参謀として日本海海戦を勝利に導いた秋山真之から始まって、山本五十六、大井篤、アメリカに派遣された海軍軍人はたくさんいます。

一方でドイツ、イタリア語圏で具に観察を行った井上成美のような軍人もいて、日本はアメリカ、イギリス、ドイツ、イタリア、というような国について豊富な知識と、より重要なことには、感触をもっていた。
ローマに住んで、イタリアの文化について造詣が深かった井上成美が、こと軍事のことになると、「あんな国と組んだらたいへんなことになる」とよく洩らしていた、というのは鎌倉のような元の海軍将校町に行くと、いまでも語り継がれている。

軍人にとっては、陸軍も含めて、ドイツと組むのは危ない、というのは実は常識に近いものだった。
軍事の頂点にある昭和天皇そのひとも、「ドイツと組めば日本は滅びるかもしれない」と何度も口にしています。
「あんな、信義のない国はダメだとおもう」と述べている。
「古来、ドイツ人と組んだ国が栄えた試しはない」とも言っている。

戦後、ジャーナリストや作家のインタビューに応えて、なぜ素人でも危なっかしいと感じていたはずのドイツとの同盟へ、ごり押しにすすんだのかと問われた当時の各省課長級将校だったひとたちは、ドイツ人の規律正しさ、愛国心の強さ、勤勉、几帳面が日本人の国民性とあっていたからだと述べている。

考えてみると、「国民性が似ていたから」というのも、イチかバチかのような投機的軍事同盟を組む理由として酷いが、だいいち、そんなことが理由で、あれほど瘧にかかったような親独運動が軍人たちのあいだに起きるだろうか?という疑問が、少しでも人間性というものへの理解があれば起きるとおもいます。
しかも、つぶさに観ると、ドイツに出張する前は歴とした新英派将校だったひとたちが、帰日した途端に親独、新ナチ、ヒットラーばんじゃい!
になった例が少なからずある。

戦後、水交社のなかでも、正直誠実で嘘がいえない人柄で親しまれた千早正隆という元は海軍中佐だったひとがいます。
お互いに戒め合って箝口令をひいてあった当時の軍人の現実を、明かしてしまったのは、正直だった、この人で、
ドイツ政府は、国家の情報戦略のひとつとして、日本の三十代を中心とする若手将校たちに、「女」をあてがっていた。
それも、ナチの例の手口で、貴族の娘だということに仕立てて、なんちゃら伯爵令嬢、というような女の人達に毎夜、夜伽をさせていたと証言している。

これには、おもわぬ方面、イギリス側からの証言もあって、ドイツからイギリスに出張してきた海軍将校が「申し訳ありませんが、今晩、わたしの相手をなさってくれる女の方はどこですか?」と訊くので、接待の担当士官が「申し訳ありませんが、我が国ではご婦人と同衾するためには、その前に恋愛をなさらなければならないことになっているのです」と応えた、という有名な日本人士官たちについての言い伝えが残っている。

いまでいえばハニートラップで、いまもむかしも、日本の人が女の人とエッチする誘惑に勝てないのは、伝説なだけではなくて、真実でもあるようでした。

とても書き尽くせるものではないが、さまざまな要因によって、勝てないとわかっているほうに賭けた日本の指導層は、指導者の誰に訊いても「勝てるわけがない」と応えていたアメリカ相手の戦争に乗り出してゆく。

日本語の本を読むと、あんまり書いていないようなので、少し解説すると、この「勝てるわけがない」と日本の軍人たちが考えていた理由には、通常言われている「資源の不足」「工業力の劣勢」というようなことのほかに、純軍事的な理由もあって、軍事思想として、日本軍は、陸海軍とも、戦後の自衛隊ではないが、防御的な軍隊でした。

独断専行の伝統を悪用してすぐに国境地帯で紛争を起こす、統帥からいえば下剋上そのものの将校達、例えば辻政信や服部卓四郎のような侵略マニア的な若手将校を常に優遇する癖があった軍隊としては奇妙だが、軍備そのものからみると、現実には防御的だった。
本来、防御用のMG34/42のような重機関銃を軽機関銃のようにも扱えるようにして攻勢戦闘に使えるようにしたドイツ国防軍のような軍隊とは戦争思想が根本から異なる。

推測すると、日本は第一次世界大戦には、義理でつきあった程度の参戦しかしていなくて、近代戦というものが理解できなかったのではないかとおもわなくもないが、「打撃力」という近代戦には必須の思想を欠いていました。

海軍は机上の推定でしなかったが「航空艦隊」と「潜水艦」という打撃力を準備していた。
航空機、特に零戦のような1000キロを進空して敵地上空を制圧するというような兵器は、当時の軍事常識を遙かに越えたもので、これと空母を組み合わせることによって、ちょうどグデーリアンが戦車を洋上の艦隊として作戦したのと同様に、一級の打撃力として働くのではないかと期待されていた。
一方の大和や武蔵は46センチの巨砲といっても、明治時代とは異なって、すでに第1次世界大戦のユトランド沖海戦であきらかになっていたとおり、結局は敵が近海に侵攻してきて、決戦を求めてきてくれるというかなり空想的な戦争展開になったときにのみ有効な防御的なスーパー兵器だったことは言うまでもない。

現実には、この机上の打撃力も計算通りではなくて、実は潜水艦隊におおきな期待をかけていた海軍は、決戦への漸減作戦用くらいに考えていた航空機が、実際には巨大な打撃力として戦争を支配する力になるとは夢想もしていなかった。

その考えをあらためたのは、根っからの賭博好きだった山本五十六大将が考えた投機的な作戦である真珠湾奇襲に成功してからです。
実際にしようしてみると、この空母+零戦+九九式艦爆+九七式艦上攻撃機という組み合わせは、1941年当時最強の海上打撃戦力で、真珠湾でおもわぬ戦果をあげたあと、西はインド洋のコロンボにまで進出して空襲したりしている。
あっというまにハワイ以西の太平洋全体を制圧してしまう。

面白いことがある。
1991年に出た、Betrayal At Pearl Harborという本があります。
筆者のJames RusbridgerはCIAから小遣い稼ぎにキューバ産砂糖の価格暴落調略を請け負ったのをきっかけに戦後はMI6のスパイを稼業にしていた人です。
経歴が経歴なので、というべきか、経歴が経歴なのに、というべきなのか、陰謀論の大家で、陰謀史観に基づいた本を何冊か出しているが、自分が陰謀を実現するために働いていたので、そんじょそこらの陰謀史家とは、やや異なるといえなくもない。

ともかく。

この人がFECB(Far East Combined Bureau)は1945年11月25日に山本五十六連合艦隊司令部から南雲忠一の機動部隊に対してJN-25に拠って発令した命令を解読していた、と証言している。
Far East Combined Bureauというのは、主に対日諜報を担っていた香港とシンガポールに本部をおくスパイ機関です。

「機動部隊はヒトカップ湾を11月26日朝出撃、12月3日午後に集結ポイントで会合して、速やかに燃料を補給すべし」

これは軍事知識があれば、たいへんなことで、少なくともイギリス海軍省は、日本海軍が機動部隊の全力を挙げて、

1 真珠湾
2 マニラ
3 シンガポール

のどれかを奇襲しつつあることを知っていたことになる。

理論的に可能な軍事拠点は1〜3の三箇所でも、どんなに勘が悪くても目標が真珠湾でしかありえないことは、当時の海軍軍人ならば、誰にでもわかったはずで、この情報は25日の夜にはチャーチルの手元に届いていました。

やがて、12月8日、アメリカ大統領特使アヴェレル・ハリマンと共に夕食を摂っていたウインストン・チャーチルは、日本の真珠湾攻撃を伝える電話連絡をうけとって、小躍りして喜んだという。
ブラック・ドラゴン然としたナチと激闘を繰り返して疲労困憊していてるところに、日本がインドシナに進駐して殆ど戦争準備が行われていないシンガポールという大事な裏庭を脅かす事態に苦しんでいたウインストンじじとしては、神の救済というか、法悦の至りで、何度も「これで戦争に勝てる」と何度も述べたというが、
天にも昇る心持ちだったでしょう。

一方、ドイツ国防軍の将軍たちは、日本の真珠湾奇襲の報を聞いて、激怒していた。
ジューコフのソ連軍を東方に足止めしておくという暗黙の約束を、のっけから日本が踏みにじったからで、その瞬間、シュリーフェン・プランの破綻とおなじ状態に陥った、あるいは、より悪い状態にドイツ国防軍は陥ったわけなので、当たり前といえば当たり前の怒りでした。

ただひとり、不思議にも怒りらしい怒りを見せなかったのは、真珠湾の報に接してアメリカに即座に宣戦を布告したアドルフ・ヒットラーそのひとで、当初、まじめにアメリカの参戦を1970年代と踏んでいた独裁者は、多分、骨の髄からの人種差別主義からくる日本人への軽蔑によって、日本人の裏切りは問題にするに足りないという姿勢をみせたかったのではないかとおもわれる。
ヒットラーの日本人に対する態度は、このときに限らず、終始一貫して、ドイツに忠義をたもつ未開民族への寛容に満ちている。

さて、この連続するはずの記事を、わしは、自分のための備忘録として書いています。
自分の戦争観を日本語練習を兼ねてまとめてみたくなったからで、とりあえず、日本人にもおおいに関係がある太平洋戦争から始めようと考えた。
わしについて、「戦争オタクの一面もあって不思議なひとだ」と書いている人がいたが、たしかにオタクなんだけどね、しかし、日本の人に較べると、英語人、特にイギリス、ニュージーランド、オーストラリアの三国の人間は戦争、なかんずく兵器や作戦について話したり本を読んだりするする機会が多い。

若い女の人でも、スピットファイア各タイプの最高出力や武装くらいは諳んじている人はたくさんいます。
このくらいで戦争オタクならば、いわば国民を挙げて戦争オタクなのであって、この三国の人間が一般にたいへん反戦的なのは、戦争について大量に読書している人が多いからであるとおもう。

こんなことを言うと、ぶったまげてしまう人が多いのは判っているが、太平洋戦争で、日本は二度、戦略として勝つチャンスがあった。
GDPの80%を軍備に費やしてしまうような正に気違いじみた軍事国家だったが、それだけ戦争に国ごといれこんだだけのことはあって、案外、太平洋ではうまく戦争をやっている面もあった。

例えばオーストラリアの昔のVJデー記念番組を観ていると、判で捺したように「優勢で物量豊富な日本軍」という表現がでてきて、日本側がつくった戦争ドキュメンタリとは、まるで印象が異なっている。

そういうことも含めて、おもいつくままに、書いていこうと思っています。

だから、「戦争の話なんて読みたくなあーい」という人は、このタイトルの記事は避けるとよいと思われる。

ふたつの太平洋戦争

https://gamayauber1001.wordpress.com/2014/06/05/pacificwar/

は、連合国側からみた(特にVEデー以降の)太平洋戦争への最も常識的な観点が日本語では意外に書かれていないことに気が付いて、日本語でも書いておいたほうがよさそうだ、と考えて書いたが、
この続き物になるはずの記事は、英語人が英語側の知識をもって日本側に立って太平洋戦争をみるとどうなるか、という倒錯した観点に立っている。
リデル・ハートが採用したやりかたで、なぜそんなヘンタイなことをするかというと、日本語人にとって必要な太平洋戦争観、ひいては日本社会への観点は、そうすることによって最も得やすいと考えられるからです。

ひとつ、述べておくと、日本の人が考えるのとはかなり異なって、戦争は発起から展開、終了に至るまで、実は兵器という要素におおきく依存している。

日本が開戦を決意したのは極端ないいかたをすると零戦があったからです。
日本が終戦を決意したのは異論があることを承知でいえば、やはり原爆を落とされたからでした。

だから兵器についての話も増えるかもしれなくて、お退屈様であるとしかいいようがないが、まあ、やってみます。

About gamayauber1001

ver.6 https://leftlane.xyz もあるよ
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One Response to 太平洋戦争へのノート 1

  1. Tomotada Yamamoto says:

    こういうのは本当に、日本人が書いても説得力がないのですが、ガメさんのような方に書いていただけると、説得力があります。
    文章に残していただけるだけでも有難いことです。

    最近思うのは、情報の比較検討ができない中で、”善”を信じる方々の危うさです。
    日本だけではなく、全世界共通ですが、現代だけでなく、過去のドイツや日本にもそういうことがあった。
    現代のそこを、どうガメさんがご覧になっているかが気になります。

    ”裂けた星条旗”の投稿は、全くの同感でした。

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