世界に広がる「“弱者の大義”に憤る人々」とどう向き合うか

侮辱の応酬を超えて
望月 優大 プロフィール

トニーはヤーセルに似ている

ケムニッツの極右デモの話から始めて、ドゥエイリの映画からもヒントをもらって話を進めてきた。ここで最初の問いに戻ろう。世界中で広がる「“弱者の大義”に憤る人々」に私たちはどのように向き合っていけば良いのか。

この映画が素晴らしく、そして恐ろしいのは、ドゥエイリがインタビューで言っていたように、「トニーがヤーセルによく似ている」という真実を伝えているからだ。

この真実はややもすると対立する社会的な「陣営」の双方にとって、それぞれの運動体内部の一体感に水を差す不都合な真実なのではないかと思う。

極右デモに参加する人々はカウンターに参加する人々のことを知らないし、カウンターに参加する人々は極右デモに参加する人々のことを知らない。それぞれのコミュニティはそれぞれの内に向かって強く閉塞していて、双方とも自分が天使で相手が悪魔だと思い込んでいるのだ。

普段の生活の中で、トニーとヤーセルが友達になる可能性は少ない。第三者である私たちがトニーとヤーセルの両方と友達になる可能性も低いだろう。それが、「社会が分断されている」ということの現実的な意味だ。

私たちは他者について何も知らないときこそ、その他者のことを単純化されたイメージで「理解した」と思い込むことができる。むしろ、他者のことを知れば知るほどわからなくなるものだ。

もちろん、誰もが高潔だと言いたいわけではない。しかし、どちらの陣営にもトニーがいて、ヤーセルがいるのだ。もしあなたがヤーセルならば、壁の向こう側にはトニーがいるのである。

 

「向こう側の人々」にどう向き合えば良いのか

イギリスでBrexitが選ばれ、アメリカで白人至上主義が勢いを得ている。先進諸国では「極右」や「ポピュリスト」と表現される政党や運動が力を増している。

こうした事態に困惑した(私を含む)多くの人々は、極右デモに参加する人々、排外主義的な言説を振りまく勢力に共感的な人々に対して、「あいつは極右だ」とか「ネトウヨだ」などと安易なレッテル貼りをして話を終わらせてしまいがちだ。

しかし、ドイツでAfDの支持率が高まり続けていることからもわかるように、そうした安易なレッテル貼りこそが、「自分こそ犠牲者」と信じる人々の憤りに火に油を注いでしまっているのかもしれない。今、世界中がそんな罠にはまっているような気がする。

侮辱の応酬が支配するとき、世界は内戦化する。

私たちは難民や外国人、自分もその一員でありうる様々な少数派とうまくやっていきたい。そして、だからこそ、同時にそうした「他者」を自らの同一性を傷つける「敵」として恐れ、憤る人々ともうまくやっていかねばならないのだ。

排除による解決ではなく説得による和解を目指すなら、連鎖して止まらない侮辱の応酬を乗り越えなければならない。この難題に直面するとき、向こう側にトニーがいる、向こう側にヤーセルがいると知っていることは一つの僥倖ではないだろうか。そんなことをこの映画は示しているような気がする。

(念のため書いておくが、「うまくやっていく」というのが「少数派に泣き寝入りを強いる」という意味でないのは当たり前のことだ。批判されるべき物言いや行動はいつだって批判される必要がある。そのうえで、という話をしている)

どうやったら私たちは「向こう側」の人々と話し合うことができるだろう。そして、この問い自体を真剣に設定している人は一体どれくらいいるだろうか。

「トニーなら話せる」「ヤーセルなら話せる」そんな微かな感覚にのみ、怒りや憎しみの対象との間に対話の可能性を切り開くチャンスが眠っているのかもしれない。

トニーもヤーセルもそこにいる。一度すれ違った私たちが出会い直すにはどうすればいいだろう。映画を観てぜひ考えてみてほしい。