サマータイムと時そば 編集委員 塩田 芳久
こんな噺(はなし)を考えた。題して「時そば2020」。
屋台で1600円のそばを食べた客が、古典落語「時そば」に倣い100円玉を1枚ずつ数えて勘定をしている。「6、7、8…、あるじ、ところで今、何時だい」「9時です」「とお、11、12…16」。15枚しか出さなかったのを見た男が「うまくやりやがったな」。後日、同じ頃に屋台へ。さあ勘定。「6、7、8、今、何時だい」「11時です」「12、13…16、ラッキー!(300円のもうけだ)」「11時以降は夜間料金300円いただきます」。サマータイムで時計が2時間進んでいた-。
出来の悪い“考え落ち”だが、本題の「まくら」なのでご容赦を。
東京五輪・パラリンピックの猛暑対策で、安倍晋三首相は自民党にサマータイム(夏時間)の導入検討を指示した。「省エネにつながる」「システムの変更が大変」等々、賛否両論あるが、私たち日本人が長く親しんできた「時間の表現」はどうなるだろう。
例えば本家「時そば」の落ちも、時刻の表現が絡む。勘定をごまかした男がそばを食べた時刻は「暁九つ(午前0時ごろ)」、ごまかし損ねた男が食べたのは2時間前の「夜四つ(午後10時ごろ)」。江戸時代の時法なくしては成り立たない噺なのである。
暁九つの「暁」も、時間帯を表す古い言葉だ。一般的には夜半から明け方までとされる。小林賢章・同志社女子大特任教授は「枕草子」などを読み解き、平安時代には日付が変わる午前3時から同5時ごろを指し、男女の思いが交錯した時間と分析する(著書「『暁』の謎を解く」)。
「曙」「黄昏(たそがれ)」など、今の時代も耳にする時間表現は、日本古来の独特の言葉で、特定の時刻と分かち難い関係にある。夏時間の下、2時間もずれれば、それらに漂う風情は一段と薄れ、単なる慣用句になりはしないか。
作家の小林信彦氏は20年近く前から、エッセーで導入反対論を説き続けている。「両国の花火が明るいうちに打ち上げられた」など、戦後間もない1948年から51年に導入された時の体験をつづり、「寝不足が生じ、頭がフラフラになる」と訴える。
あれこれ想像してみる。
発着時間に制限がある空港では海外発の飛行機の一部が着陸できない? 東の空が白み始める頃に出発する博多祇園山笠の追い山は暗闇の中で始まる? コンビニのおにぎりの賞味期限も変更される?
考えていたら眠れなくなった。結論が出た。夏時間は導入前から人を寝不足にする。
お後がよろしいようで-。
=2018/09/05付 西日本新聞朝刊=