「“弱者の大義”に対する憤り」とも言うべき現象が世界中に広がっている。巷ではポピュリズムが広がっているとも言われるが、その多くがこの憤りを養分にしている。
つまり、この憤りへの向き合い方を考えなければ、ポピュリズムにしろ社会的な分断にしろ正しく対処することができないのではないか。対処の方法を誤れば、対立の火に油を注ぐことにもなってしまうかもしれない。
アメリカ、ヨーロッパ、日本。世界のいたるところで、人々はこんな風に憤る。
なぜ自分たちの生活を犠牲にしてまで難民や外国人、あるいは貧乏人や様々なマイノリティを保護しなければいけないのか。
世の中は「弱者」や「少数派」に対して過剰に配慮しすぎており、それによって自分たちが本来受けるべき正当な配慮や承認が妨げられているのではないか。
「公正」や「正義」を語る少数派や人権派、あるいは外国人たちによってこそ、我々が正しく享受すべき「公正」が歪められているのではないか、と。
こうした憤りやそれに基づく示威行動、社会運動に対して、「少数派の人々の人権が今まで以上に守られるべきだ」と考える人々はどのように向き合い、応答していけば良いのだろうか。
感情的な非難の応酬ではなく、理性的な対話と説得による社会の漸進的な改良は今もなお可能なのだろうか。可能であるとすれば、一体どのようにして?
8月末にドイツのザクセン州ケムニッツで極右集団による大規模なデモが行われた。そのきっかけは8月26日の外国人2名(イラク人とシリア人)によるドイツ人男性の殺害事件への憤りだった。報道にはこう記されている(日経新聞)。
ケムニッツの集会では、「われわれが国民だ」「ヨーロッパを守れ」といった排外主義的なスローガンが連呼され、ナチ式の敬礼を行う者もいたという。さらに、デモ参加者によって移民や外国人たちが追い回されたという話も出ている。
極右に反対するカウンターのデモ隊も現れ、機動隊が両者の暴力的な接触を防ぐ一触即発の事態となった。
こうした内戦的な緊迫状況の到来にはもちろん背景がある。近年、ドイツでは「AfD(ドイツのための選択肢)」という名の極右政党が支持を伸ばしており、ケムニッツがあるザクセン州でも、メルケル首相のCDUの支持率を抜いてトップに躍り出そうな勢いだ。
また、同じザクセン州の州都ドレスデンでは、2014年にPEGIDA(ペギーダ:西洋のイスラム化に反対する欧州愛国者)という反イスラムを掲げる大規模な大衆運動も立ち上がっている。
こうした状況を背景に、8月26日の殺人事件は極右集団が自らの主張をアピールするための恰好の「ネタ」として利用され、大規模なデモとしてブレイクアウトすることになった。
「リベラルでお行儀の良い人々がえこひいきする移民や難民によって、我らドイツ人の生活が脅威にさらされているのではないか」
人々のそんな憤りが透けて見えてくるようだ。