朝鮮人が井戸に毒を入れている、といった類の流言が事実ではあり得ないことについては、震災当時でも、ある程度の科学的知識のある人々にとっては常識だった。そのことについてはこちらの記事にも書いた。
物理学者の寺田寅彦は、井戸への投毒と爆弾騒ぎについて以下のように書いている[1]。
例えば市中の井戸の一割に毒薬を投ずると仮定する。そうして、その井戸水を一人の人間が一度飲んだ時に、その人を殺すか、ひどい目に逢わせるに充分なだけの濃度にその毒薬を混ずるとする。そうした時に果してどれだけの分量の毒薬を要するだろうか。この問題に的確に答えるためには、勿論まず毒薬の種類を仮定した上で、その極量(きょくりょう)を推定し、また一人が一日に飲む水の量や、井戸水の平均全量や、市中の井戸の総数や、そういうものの概略な数値を知らなければならない。しかし、いわゆる科学的常識というものからくる漠然とした概念的の推算をしてみただけでも、それが如何に多大な分量を要するだろうかという想像ぐらいはつくだろうと思われる。いずれにしても、暴徒は、地震前からかなり大きな毒薬のストックをもっていたと考えなければならない。そういう事は有り得ない事ではないかもしれないが、少しおかしい事である。
仮りにそれだけの用意があったと仮定したところで、それからさきがなかなか大変である。何百人、あるいは何千人の暴徒に一々部署を定めて、毒薬を渡して、各方面に派遣しなければならない。これがなかなか時間を要する仕事である。さてそれが出来たとする。そうして一人一人に授けられた缶を背負って出掛けた上で、自分の受持方面の井戸の在所(ありか)を捜して歩かなければならない。井戸を見付けて、それから人の見ない機会をねらって、いよいよ投下する。しかし有効にやるためにはおおよその井戸水の分量を見積ってその上で投入の分量を加減しなければならない。そうして、それを投入した上で、よく溶解し混和するようにかき交ぜなければならない。考えてみるとこれはなかなか大変な仕事である。
(略)
爆弾の話にしても同様である。市中の目ぼしい建物に片ッぱしから投げ込んであるくために必要な爆弾の数量や人手を考えてみたら、少なくも山の手の貧しい屋敷町の人々の軒並に破裂しでもするような過度の恐慌を惹き起さなくてもすむ事である。
(略)
勿論、常識の判断はあてにはならない事が多い。科学的常識は猶更(なおさら)である。しかし適当な科学的常識は、事に臨んで吾々に「科学的な省察(せいさつ)の機会と余裕」を与える。そういう省察の行われるところにはいわゆる流言蜚語のごときものは著しくその熱度と伝播能力を弱められなければならない。たとえ省察の結果が誤っていて、そのために流言が実現されるような事があっても、少なくも文化的市民としての甚だしい恥辱を曝(さら)す事なくて済みはしないかと思われるのである。
彼らは科学者だから一般人とは違う、と思うかもしれないし、実際、寺田寅彦はこれを、判断基準としての科学的常識の必要性、という文脈で語っている。しかし、科学的知識などまるで持ち合わせない庶民であっても、偏見に歪められていない冷静な判断力さえ持っていれば、進行しつつある事態を正確に見極めることができた。作家・佐多稲子の文章にその一例を見ることができる[2]。
暮れかけてきて、どこからともなしに伝わってきたのは、朝鮮人が井戸に毒を投げた、という噂であった。その井戸は近くだし、あっちでも朝鮮人が毒を投入する瞬間につかまえられた、そしてそれは打殺され川に投げられた、という。
(略)
夜になって、私は年寄りを連れ、工場わきの空地へ逃れたが、そこには身ひとつでここまで逃れてきた老人夫婦もうずくまっていた。私は持っていた夜具の一枚を分けて、その一夜を心細く、とび口を抱いて地べたに坐っていた。この空地の周囲で、いわゆる朝鮮人騒ぎが起っているからであった。
アラララ、と聞える高い叫び声は朝鮮語らしく聞える。竹刀でも激しく打ち合うような音も聞える。朝鮮人がこの大動乱に乗じて暴動を起したという筋書を疑う力もないから、空地の周囲の叫び声や、打ち合うもの音を、朝鮮人との戦いなのだ、と私はおもっていた。異常な経験の中にいるから特に恐怖というものもない。私にはむしろ、銀色に光るとび口の重さの方がものものしかった。
私はこのときのことをおもい出すたびに、同じ長屋で親しくしていたひとりのおかみさんの言った言葉を同時におもい出す。日頃から気性の勝った人だった。夫は旅まわりの劇団についてまわっている貧しい興行師で、その留守中、病人の舅と幼い娘を自分の内職で養っている、そういう人であった。とにかく騒然とした一夜が明けて、長屋のものが半壊のわが家のまわりに寄り合ったとき、ひとりが自分のゆうべの恐ろしかった経験を話し出した。話し手の彼女は、一晩中朝鮮人に追いかけられて逃げて歩いた、というのだ。それを聞いたとき、興行師のおかみさんは、利口にその話を訂正した。彼女はこう言ったのである。朝鮮人が暴動を起したなんていったって、ここは日本の土地なんだから、朝鮮人よりも日本人の数の方が多いにきまっている。朝鮮人に追いかけられたとおもっていたのは、追われる朝鮮人のその前方にあんたがいたのだ。逃げて走る朝鮮人の前を、あんたは自分が追われるとおもって走っていたに過ぎない、と。
私はこの訂正を聞いたとき、強いショックでうなずき、かねてのこの人への尊敬をいっそう強くした。全くそのとおりだとおもったし、しかもそういう判断にいっこう気づかなかった。ということにショックを受けた。
あの動乱のとき、この怜悧な判断を持ったのは、庶民の知恵というものだろうか。朝鮮人を特に軽蔑する感情もなく、むしろ同情する貧しい生活者の知恵というものだったろうか。これはたまたま私がこういう怜悧な人の言葉を聞くときに居合せたことだったかもしれない。多くの庶民があの流言蜚語に迷ったのも事実にちがいないのだから。
私も見たのだが、近くのどぶ川にうつぶせに浮んでいたのは、町の住民に殺された朝鮮人の死体であった。工場街である寺島のあたりは朝鮮人騒ぎの大きかった所と聞いている。この問題は今日明らかになっていることだが、貧しい興行師のこの妻のような怜悧で正しい判断は、あの当時住民の多くは持ち得なかった。政府の流した蜚語は、大地震という自然の脅威におののいている住民の、異常な神経を煽った。このことは今日、多くの人が知っておく必要がある。
朝鮮人を蔑視しながら、心の底ではいつか仕返しをされるのではないかと怯えていた大多数の日本人には、このおかみさんのような冷静な判断はできなかった。ひるがえって、現在の日本人はどうか?少しはマシになったのだろうか。
関東大震災当時でさえ、当初の混乱が収まった後には、大規模な朝鮮人暴動などという噂は作り話に過ぎなかったことが理解されていた。ところが震災から90年以上も経って、その実態がほぼ解明されつくした現代になって、逆に荒唐無稽な当時の流言蜚語を事実だと主張するヘイト本が出版され、しかもそんな妄想を簡単に信じ込む一定の層が存在する。これは、当時と比べてさえ日本人の認識能力や判断力が少しも進歩していないのではないかと疑わせるに十分な事実だろう。
[1] 寺田寅彦 『流言蜚語』 東京日日新聞 1924年9月 (青空文庫)
[2] 佐多稲子 『下町の人々』 中央公論 1964年9月号
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