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人間が「どうなっているか」と、人間が「どうあるべきか」の間で問いつづける哲学『人間の解剖はサルの解剖のための鍵である』

 わたしの人間観を更新する一冊。

 もっと正確に言うと、進化心理学・行動経済学・認知科学の研究を通じ、わたしが抱いている「人間とはコレコレである」人間観がアップデートされつつあることを教えてくれる。

 本書は、吉川浩満氏の論文・インタビュー集である。発表媒体によりモチーフは異なれど、テーマは「人間とは何か?」になる。「人間とは何か?」という問いかけを、「人間がどのように”見える”か?」という人間観にした上で、その変遷を、人工知能、認知バイアス、利己的遺伝子、人新世という様々な斬り口から掘ってゆく。

 よくあるサイエンス・ノンフィクションと異なるのは、「(人が)どうなっているか」の科学的解説に、道徳哲学の「(人が)どうあるべきか」議論をぶつけているところ。おかげで、認知科学の進展を呑気に喜んでいるばかりでなく、それが突きつける問題が実装されていることも、その未来も(選ばないも含めて)選ぶ必然性があることも知らされる。

計算できる道徳=功利主義

 たとえば、功利主義の議論が面白い。

 「5人を助けるため1人を殺してもよいか」というトロッコ問題や、「1人を殺してより多くの人を助けるのはよいことか」という臓器くじの問題について、功利主義の回答は明確である。だが、多くの人々の道徳的な直観には反する。「人を殺すなかれ」という義務論的な直観にも支配されているからだ。

 有用性や公益性の高さで判断する、功利主義の基本的な考え方には賛同できる。だが、それを「あるべき」にまで推し進めると問題になる。極端な話、社会全体のために個人を犠牲にするディストピア思想につながる。これを、扇情的な哲学ポルノとして排除することもできるが、吉川氏は「功利主義をどこまで受け入れる用意があるか」という問いを立てる。

 まず、「どうなっているか」という観点からは、功利主義をもてはやす風潮を指摘する。まず、経済低迷や格差拡大が引き起こす弱者切り捨て論が、功利主義との親和性が高いこと。さらに、人の心を計測対象とする「道徳の自然化」が、より吟味しやすい(計測しやすい)ものとして、義務論的直観よりも功利主義的を採用する点。さらには、AI技術が、「計算できる道徳」として功利主義を求めることを指摘する。

 そして、「どうすべきか」という観点の例として、自律走行車に搭載されるAIの仕様を俎上に乗せる。事故が避けられない状況となったとき、誰を犠牲にすべきかといった議論が、哲学教室の思考実験ではなく、プログラムに実装される方式として展開される。そして功利主義のみが、目的に対する答え(功利、効用)を計算可能なものとして扱えるが故に、採択される可能性が高いという。

 興味深いのは、どの道徳原理を採用するかについて、ある種の二重思考(ジョージ・オーウェルのダブル・シンク)が必要になるという点だ。著者は、義務論的直観と功利主義的思考の両方を使い分けることで、功利主義の美しさとグロテスクさをともに引き受ける未来を提案する。

 これは、「人間からだと言いにくい現実を、統計やAIというガワを被せて伝える」テクニックに似ていて面白い。「こうなっている」ミもフタもない現実は「統計によると......」とAIに言わせ、義務論的な「あるべき」は人が担う(もちろんAIの功利主義的な判定パラメータは、人が設定しているんだけどね)。

アップデートされる倫理観

 重要なのは、認知科学の進展により人間観や倫理観のアップデートが、今まさに行われている現実だ。これ、十年ぐらい後になって、更新後の「常識」が制度化・内面化され、今という過渡期を奇妙な時代だという目で見たときに、明らかになるだろう。その意味で、本書は一種の状況証拠のように扱われるに違いない。

 ただし、人間が生来「こうなっている」からといって、そのまま「こうあるべき」に導こうとするのは危うい。本書のあちこちで、この「である-べき問題(Is-Ought Problem)」が顔をのぞかせる。

進化論のレトリック

 その危うい取り違いとして、進化論の「適者生存」の例が出てくる。

 世間一般では、「優れたものが勝ち残る」「劣ったものは淘汰される」メタファーとして「適者生存」という言葉が用いられるが、これは誤りだという。適者生存とは、「生存する者を適者とする」という前提で、これをもとに環境の変化に適した形質が何かが検討される。ところが、「生存するものを適者とする」定義をひっくり返して、「適者は生存する」という結論=自然法則のようなものを考えてしまったという。

 なぜ、前提と結論を取り違えたのか? 本書では、都合のいい「言葉のお守り」だと説明する。自然法則のように見えるが、実際は「適者(生存するもの)は生存する」といった同語反復でしかなく、何も言っていないに等しい一方、あらゆるものに当てはめることができる。

 本書では言及されていないが、いわゆる「適者生存」が優勝劣敗のロジックとして持ち出され、弱者切り捨てのエクスキューズとして使われたのは、小泉構造改革の時代だったと記憶している。具体的には、2001年9月の小泉内閣総理大臣の所信表明の演説に出てくる。

私は、変化を受け入れ、新しい時代に挑戦する勇気こそ、日本の発展の原動力であると確信しています。進化論を唱えたダーウィンは、「この世に生き残る生き物は、最も力の強いものか。そうではない。最も頭のいいものか。そうでもない。それは、変化に対応できる生き物だ」という考えを示したと言われています。
第百五十三回国会における小泉内閣総理大臣所信表明演説より

 そしてこの後、「改革なくして成長なし」のワンフレーズに結びつけている。小泉構造改革により、労働者派遣法が改正され、(短期的には失業率を減らしたものの)長期的には派遣切り・ワーキングプア問題を生み出し「産業の空洞化」にもつながったことは現在進行中の問題である。

 格差の拡大をもたらした原因は、この「適者生存」における前提(こうなっている)を自然法則のようなものとみなし、「こうあるべき」に結び付けたことだと考える。進化論では、「変化に対応できないもの」はそういうグループに入るだけで、生きるか死ぬかは運と環境の話になる。「対応できないものは死ね」とは言わないし、さらに「対応するために改革すべし」という主張は違う話になる。自然界ではこうなっているのだから、人間界でもこうすべし、というレトリックがうまく隠されている。

おわりに

 長くなるのでこのへんで。

 ここでは、2点―――「計算できる道徳としての功利主義」と、「進化論のレトリック」に絞って書いたが、全部で29章あるうちの2章だけで、めっちゃ濃い議論になっている。科学が示す人間が「どうなっているか」と、倫理が示す人間が「どうあるべきか」の間に立ち、検証する姿勢を見習いたい。

 他にも、『ブレードランナー』『ブレードランナー2049』のレプリカントこそが、「人間であるとはどのようなことか」を学べるという議論や、人間活動が地球に地質学的なレベルで影響を与えているという「人新世」のアイデアは、宇宙論における人間原理の登場のようであるといった指摘は、読んでてニヤリとさせられるだけでなく、別の斬り口から捉え直したくなる。同時に、今がまさに「人間とは何か?」という定義が更新されている時代なのだとゾクゾクしてくる(半分期待・半分恐怖)。

 自分の中の「人間観」が更新されていることに気づける一冊。

Ninngennnokaibou

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