「東大的なもの」の進化

 これから書こうとするのは、「反東大」の思想史である。ただし、東京大学という教育・研究機関の批判ないし誹謗中傷をもくろむものではない。学界に身を置く者であれば、東大出身の精鋭の頭脳に衝撃を受けた経験は一度や二度ではないだろう。そのような英才を輩出する機関にケチをつける能力は、残念ながら筆者にはない。明らかにしたいのは、近現代日本に漂う閉塞感の根源に「東大的なもの」があり、日本の思想史にはそれに立ち向かった人々の血が流れている、という事実である。
 現代は、〈多様〉な個性や生き方が認められるようになりつつある時代、またそうなるべき時代だと、一般的には考えられている。2011年の内閣府「親と子の生活意識に関する調査」では、1996年度に生まれた当時中学3年生の保護者4000人に「(子供に)社会的に高い地位についてほしいか」と尋ねたところ、「あてはまる」「どちらかと言えばあてはまる」と答えた親は35.7%にとどまり、62.5%が否定的な回答をした。「やりがいが感じられる仕事をしてほしいか」という質問に98.2%の親が肯定的に答えているのとは対照的である。現代は、一高東大に象徴される「末は博士か大臣か」の時代ではなく、「やりがい」の時代であることがわかる。
 日常生活で東大の威光に圧倒される機会もそう多くない。日本近現代文学の最盛期とは違い、東大出身の小説家もずいぶん見なくなった。官界でも学界でも、私大出身者が目立つようになってきた(ちなみに筆者は、ある分野で東大出身者より早稲田出身者が目立ってくることは分野そのものの衰退の兆候だと考えているが、その話はひとまず置いておく)。
 しかし、にもかかわらず、現代は「東大的なもの」の時代である。間違っても「反東大」の時代ではない。東大を頂点とする体制とそれに即した価値観は現代的に進化を遂げ、学問や教育の世界を越えていたるところに張りついている。

 
 

〈リベラル〉と〈学歴万能意識〉の癒着

 いま話題の医学部不正入試を「東大的なもの」の一例として示したい。私大支援事業で便宜を図る見返りとして、文部科学省の役人の息子を裏口入学させる不祥事が東京医科大学で起きた。ついでに、目下こちらのほうが社会的憤激の対象となっているが、女性の受験生や多浪生を入試で差別していたことも発覚した。この差別は、どうも全国の医学部で長年当たり前のごとく行われていたのではないか、とささやかれている。
 もちろん女性や多浪生の差別があってよいはずがなく、個別大学のレベルでも早急な改革は急務である。だが、ここでいいたいのはそのことではない。ほかにもいろいろと医学部の問題が明るみに出ていながら、医学部受験熱が揺らぐ気配がまったくないのはなぜか、ということである。医学部受験が特定の属性の者に不当に狭められていること、そして古典的な汚職の問題が非難されるだけで、医学部に入ることは素晴らしいという価値観自体には、なんの疑問も持たれていない。
 受験生のなかには、医者になって苦しんでいる人を助けたい、弱者に寄り添いたいという動機を持つ者も多いだろう。だが現在の社会的な医学部受験熱は、そういった崇高な動機とはあまり関係がないように見える。
 子供4人全員を東京大学の理科Ⅲ類に合格させ、その著書がベストセラーになった母親がいる。東大理Ⅲに合格した子供のうち2人は医者になりたかったわけではなく、「18年間勉強してきた集大成として、自分がどこまで通用するか、一番難しいところ受けてみたい」(原文ママ)という動機で受験したという。母親も「偏差値の高さで、まず医学部を選ぶのは批判に値することではありません」とその動機を肯定し、「医者として働かなくてもいい?」という質問には、「将来のことは、それぞれに任せています。自分の努力でつかんだ資格や学歴などは自由に使ったらいいと話しています」と答えた(朝日新聞デジタル2017年9月14日)。
 この談話が示しているのは、要するに偏差値が高い子供は東大医学部を目指すのが当然だ、という思想である。医者になるかならないかは子供の自由。親の仕事は「医者にも乞食にもなれる」自由を提供すること。ここでは、子供の将来を子供自身の意志にまかせる〈リベラル〉さと、強烈な偏差値万能意識がごく自然に癒着している。つまり、〈多様〉な個性や生き方を積極的に認めようとする開かれた価値観と、「学歴」「資格」をなによりも重視する価値観が、古くさいいい方だがズルズルベッタリに共存しているのである。
 ところで、この母親の教育観や子育て論を熱心に紹介し、各地で講演会を開いて重用しているのが、これまで日本社会の学歴信仰を批判してきた朝日新聞である。そもそも、この母親の著書の主要版元のひとつは、朝日新聞出版なのであった。朝日新聞は受験地獄や学歴差別を問題視し、学歴にとらわれない〈多様〉な生き方を尊重する一方で、東大医学部合格という価値についてはほぼ手放しで賞賛していることになる。

全共闘に完全勝利した「東大」

 このような時代には、いまから約50年前に書かれた次のような一文は、もはや理解不能なものだろう。

医師とは何か。どの社会でも「医師」は「聖職」とされている。だが、資本主義社会で公害や労災で傷ついた労働者をいやして収奪の場へ返す仕事は崇高などころか、社会の矛盾を隠蔽するだけではないか。人間を真に救ったことにはならない。医学生がここまで認識を深化させたとき、結論は現在の医療行政のなかで国家試験を受け、博士号をとることを拒否することであった(『知性の叛乱』)。

 これは、東大全共闘議長だった山本義隆が、東大医学部でおきた紛争について1969年に書いた一文である。現在でも、多くの人が心療内科に通い、薬を飲みながら過酷な職場に通っている。そのことを思うと、山本の提起は決して古びていない。だが、偏差値に見あった「学歴」や「資格」を得るために東大医学部に入る者が増えているとすれば、生命線である医師国家試験や学位の放棄など、到底考えられないことだろう。
 社会の価値序列を疑い、それを転倒しようとした闘いは、50年前に終わった。バリケードが解除され、大学の授業が再開された後の世界は、いまも続いている。
 東大紛争のさなか、政治学者の丸山眞男は「法学部教授」の権威を振りかざす知識人として攻撃対象となり、全共闘学生の大群による激しい吊し上げに苦しんだことはよく知られている。だが授業再開後、ほぼ完全に攻守が入れ替わったことについてはあまり語られていない。少数派になり学内ですっかり浮き上がった全共闘学生は、丸山との議論の継続を望むも教室に入ることすらできず、「圧倒的な秩序派と丸山親衛隊」の学生に包囲されながら「懇願するように」丸山に問いかけるのが精一杯の有様になったという(清水靖久「銀杏並木の向こうのジャングル」『現代思想』2014年8月臨時増刊号)。

丸山眞男

 東大をはじめとする全共闘の敗北は、次のような教訓をもたらしたと思われる。少なくとも生きている間に〈革命〉が起こる見通しはまったく立たない。そのなかでの体制への〈反逆〉は、一度しかない人生を苦界にし、屈託まみれにすることを意味する。だとすれば、体制に順応し、自分の能力に見あったポジションを得て、それなりに生きるしかない。「学歴フィルター」に引っかかるのも、怠惰の証だからしかたがない。それが嫌だったら努力して学歴を手に入れればいいのだ。――こうして人生を安全・安心にできるよりよいツールを求めていくと、やがて最高位の東大に突きあたる。
 現代は、文部科学省が入試、定員管理、カリキュラムにいたるまで、国公立と私立とを問わず全国の大学を一元的に統制し、いたるところに学力と規模が違うだけの同じような大学があるシステムを完成させた時代といえる。東大を頂点とした大学ピラミッドのなかに、旧帝大、地方国立大、早慶上智、関関同立、日東駒専などの層があり、学生たちはそれぞれの〈分〉に応じたポジションの獲得を目指し、社会全体のピラミッド形成に協力しているのである。

慶應と早稲田

 近年になって、東大を蹴って海外の一流大学を選ぶ進学校の生徒に関するニュースが増えた。日本の国際的地位の低下にしたがって今後も見られる現象と思われるが、国内では、東大を脅かす存在はあらわれそうにない。1886(明治19)年に東大の前身である帝国大学が発足して以来、その最強者としての地位はどんどん強固なものになり、敗戦を経て現代につながっている。
 では、最初から東大があらゆる分野で卓越した地位を確立することが約束されていたかというと、そうでもない。たとえば実業界では、慶應義塾の優位があった。阪急創業者の小林一三は、1901(明治34)年ごろから三井銀行で帝大卒業生の採用がはじまり、その際に帝大卒と慶應卒のどちらが優秀かをめぐって論争が起きたことを記録している。戦前は、出身学校によって給料に差があるのは当たり前だった。慶應出身者が力を振るう三井銀行でも帝大卒を優遇すべきか否かで意見が分かれたのである。

小林一三


 その論争では、一高や帝大にガリ勉で入学した者と、バカバカしい受験勉強を回避して私大を選んだ者は優秀さという点で等価に扱われていた。しかも、帝大から三井銀行に来る者は、高等文官試験に落ち、日銀にも興銀にも入れなかった相対的劣等生である。優等生のみを選抜して送り込む慶應の卒業生のほうが優秀だから、むしろ帝大卒の給料を低くするべしという意見まで出されていた(『逸翁自叙伝』)。
 東京専門学校のちの早稲田大学には、政党そしてそれと結びついた新聞界という得意の分野があった。圧倒的な「官」優位の時代にリスキーで待遇の悪い業界を選ぶ帝大生は少ないだろうが、実業界、新聞界が発展するにつれ、帝大出身者が続々と進出し、支配的勢力となっていく。メディア学者の河崎吉紀氏は、1910年から1945年までの朝日新聞、毎日新聞の経営陣の学歴を調べた結果、朝日では東大出身者が早稲田出身者より多く、毎日では慶應と東大が多数派を占めていた事実を明らかにした(「新聞界における社会集団としての早稲田」)。日本のメディア産業が確立するなかで、早稲田出身者の多くは得意の分野ですら「一介の文筆労働者」としてしか命脈を保てなくなったのである。
 世の中が固まっていない時代には、雑多な出自で学力も怪しい者が活躍する余地があるが、規模が大きくなり制度が整うと東大の天下がやってくる。では、そのときに地位を脅かされ没落の危機に瀕した者たちは、諦めるほかなかったのだろうか。そうではなかった。たとえば、「官」による私立学校抑圧と帝大の勢力拡大の問題が慶應義塾の創設者福澤諭吉の脳裏を離れたことはなく、それは大隈重信をはじめとする早稲田大学創設者にとっても同様であった。後発帝国大学である京都帝国大学にしても、東大という存在への対抗を軸にして自己を形成せざるを得なかった。すべての学校が、多かれ少なかれ東大を意識して生存戦略をひねり出し、悪戦苦闘の末、現在のシステムにたどり着いたのである。

福澤諭吉
大隈重信

「反東大」の戦い

 明治から昭和にかけて活躍した思想家、三宅雪嶺は「東大的なもの」の出現に早くから警鐘を鳴らした人物のひとりである。東京大学文学部哲学科出身の雪嶺は、明治の末年になって、近代日本に大学ができて以来、そこから大人物がほとんど輩出されなかったことを強く批判した。政界では、大学で教育を受けていない維新の元勲や、後藤新平、犬養毅などの政治家が活躍し、実業界でも三菱財閥の二代目岩崎弥之助や渋沢栄一といった大学とは縁のない人物が力を持っている。すでに最初の東大卒業生は六十歳近くになっているのに「自身の手腕を以て新たに領分を開拓」した人物がほとんど出てこない、というのである。大学卒業生の世界は、いくら政府や財閥で要職を占め、高給をもらったとしても「事務官」「番頭」「手代」の世界にすぎない。在職中は自分の雇用の安定をなによりも気づかい、無事に勤め上げれば隠居し、能動的になにも生み出さない他者依存の生活を送る。そういう人物は、学んだ知識を提供する「良参謀」にはなれても「良司令官」にはなれない。新しい領域に先頭を切って進んでいく人物があらわれないということは、西洋諸国と互角に戦い、それらを凌駕するイノベーションが続々と起きる可能性が少ないということである。

三宅雪嶺


 大学が大人物を生み出せないのは、その教育システムが若者の「気力」を奪っているからだ、と雪嶺は考える。大学生は、受験の失敗や落第の恐怖におびえながら詰めこみ教育を受け、読みたくない本を読み、暗誦することを命令される人生を生きてきた。どんな命令にもしたがい任務をこなすことは、徐々に彼らの習性となっていく。そのシステムの原型が、東京帝国大学である。東京帝大には、設立当初に高等文官試験での免除特権があり、法曹試験での帝大特権はさらに長く続いた。よい就職先への斡旋も含めれば、成功者となるか失敗者となるかの鍵は、もっぱら大学の命ずるところにしたがって及第し、推挙を得ることができるか否かにかかっている。このような上意下達の教育が学生から「気力」を奪い、新しい領域を切り開く人材をスポイルする。雪嶺はこう説いた。
 ではそれに対する私立大学はというと、口でこそ帝大の官僚的な態度を嘲笑しているが、実態はあらゆる点で官立大学の模倣に必死であり、劣化版の官大に成り果てている(「教育は青年の気力を減ずるか」)。
 上に命令されるとおりに試験のための勉強をし、試験の結果によって序列化され、その後の人生が決まる社会。そのなかで、上の者の意にしたがう気風、既存の秩序に逆らわない気風が生まれる。東大が高級官僚を輩出する仕組みを劣化コピーして私大は下級官僚を輩出し、その気風は全社会に蔓延する。
 では現代はどうだろうか。雪嶺が批判した東京帝大的な上意下達の詰めこみ教育、それが生み出す「上の意を迎へ下を屈服する」官僚性や硬直性、新たな領域を切り開く「気力」の喪失などを「東大的なもの」と呼ぶならば、その問題性を最も強く意識してきたのがほかならぬ東大自身だということは、ベストセラーになった教養学部の基礎演習テキスト『知の技法』などに代表される90年代以降のカリキュラム改革と組織改革を見ても明らかであろう。

『知の技法』(1994年刊)


 それに対応してかどうか、最近よく見られる「東大」という名を冠したバラエティ番組では、日本最高の学歴のほかに美貌や〈人間力〉まで持ちあわせ、ギャグセンスもあり、起業もする〈多様〉な東大生を目にすることになった。だがその一方で、世の大半の大学生は相変わらず些細な大学の序列に一喜一憂し、「学歴フィルター」や社会の眼に苦しめられ、全国津々浦々で昔ながらの官僚性や硬直性にあえいでいるという現実がある。「東大的なもの」は頂点に近づくほど現代化しソフト化しつつ、社会に根をおろしている。
 学問や教育から疎外された者も、「東大的なもの」と無関係ではない。将来なにごとかを行おうとすれば、東大を頂点とするヒエラルキーは〈ガラスの天井〉となり、ときに〈鉄の天井〉となる。それをどう打破するか、あるいはどう折りあいをつけて生きていくかという問題意識は、近現代日本の思想の底を流れ続けている。そして、そういった人々の「反東大」の苦闘のなかに、日本社会を変革する数多くのヒントが秘められている事実も見逃すことができない。
 かつて福澤は、『文明論之概略』のなかで「自由の気風はただ多事争論の間にありて存するものと知るべし」といった。社会に多元的な勢力と価値が並存し、それぞれが強烈に自己を主張してせめぎあう状態こそが「自由」を生み「文明」への原動力となる、ということである。だとするならば、「東大的なもの」の価値の優越を自明のものとして拝跪することは、社会を窒息させ退化させることにつながる。東大以外のさまざまな学校や、学問とは無縁な労働者、独自の知識や技術を持つ職人などが、それぞれ努力してみずからの個性を磨き、互いに主張をぶつけあう状況こそが、上から与えられたものではない「自由」を生み、世の中を「文明」へと進めていく。
 後期の福澤の教育論をはじめとする社会構想は、実はこういった認識に基づくものだったように思われる。まずは、近代日本の教育をリードした福澤がどのように「東大的なもの」の登場を認識し、それとの戦いを開始したのかを見ていくことから話をはじめたい。