『蘇因高は蘇馬子の音訳?』
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小野妹子の子の名前も「毛人(えみし)」というらしいです。
「えみし」と言えば蘇我の蝦夷(えみし)が有名ですね。
蘇我の蝦夷の父親は蘇我の馬子ですね。
馬子(うまこ)と妹子(いもこ)・・、名前が似ていますねえ・・。
小野妹子は中国に行って「蘇因高」と名乗ったのだと、日本書紀には書い
てあります。(推古16.04)。
しかし、「蘇」というのは時の大臣であった(と日本書紀に書いてある)
「蘇我の馬子」の「蘇」と同じです。小野(おの)さんは、こともあろうに
大臣の姓とまぎらわしい漢字を使って名乗りを上げたのでしょうか?。
日本書紀によると次のように説明しています。(推古16.04)。
蘇 因 高
↓ ↓ ↓
SO IN KOU
↓ ↓ ↓
↓ IMO KO
↓ ↓ ↓
小 の 妹 子
↓ ↓ ↓
O NO ↓ ↓
↓ ↓ ↓ ↓
小 野 妹 子
しかし、矢印を逆にたどるとおかしなことになります。
「小野妹子」氏が中国側の人に「小野妹子」という漢字で名乗ったのであ
るなら「小」氏となるはずです。
もし、「お (の) いもこ」と名乗ったのであれば「お」氏として記録され
るはずです。
「小」さんや「お」さんが「蘇」氏と漢字表記されるというのは考えにく
いことなのです。
「蘇因高」と呼ばれた人は自分を「蘇(そ)」の「いもこ」または「うま
こ」と名乗ったのではないだろうか?。
--
小野一族は自分たちは「アメノタリシヒコ」という人の子孫だと言ってい
たようです。
「兄天押帯足日子者。<・・小野臣・・之祖也>」(『古事記』孝昭天皇段)
「天足彦国押命。此和珥臣等始祖也」(『日本書紀』孝昭68.01.14)
「大徳小野臣妹子。家于近江国滋賀郡小野村。因以為氏」
(『新撰姓氏録』左京皇別下、小野朝臣条。『日本古代氏族辞典』p.135)
ちゃっかり「皇別」になっています。彼らが「皇別」であるためには紀元前
475年に即位して紀元前393年に死んだ孝昭の子供である「アメノタリ
シヒコ」(天足彦国押命:日本書紀、天押帯足日子:古事記)の子孫である
が故、ということになります。
孝昭01=-475=丙寅[03] ・即位、腋上、池心宮。ミマツ・カエシネ。
孝昭83=-393=戊子[25] ・死ぬ。
しかし、そんな昔の天皇からの分かれであれば、世の中「皇別」だらけに
なってしまいます。むろん、その後の天皇から分かれは「皇別」とはされて
いません。
『新撰姓氏録』で「皇別」とされていたということは、それがちゃんと社
会的に公認されていたということでしょうから、彼らの祖先である「アメノ
タリシヒコ」はもっと近い時代の、歴史的に誰もが承認できる人物であった
に違いありません。
で・・・、
「アメノタリシヒコ」というのは、西暦600年に「蘇因高」を派遣した
ときの天皇として中国側の記録に残っている人物なのであります。
○ 『隋書』の「阿毎多利思北孤」。 岩波文庫 「新訂 魏志倭人伝~隋
書イ妥国伝」p.129。『開皇二十年(=600) イ妥王 姓 阿毎 字 多利思
北孤 号 阿輩 [奚隹]弥遣使 詣 闕(=隋の都)』。
--
小野妹子~蘇因高~蘇我馬子をつなぐ人物として、「ソガの倉」の王とい
う人物もいます。
古事記:「(欽明天皇)春日の日爪(ヒツメ)臣の女、糠子 (ヌカゴ)郎女を娶
して生みましし御子、春日山田郎女、次に麻呂古(マロコ)王(ミコ)、 次に宗
賀之倉王(ミコ)」(講談社学術文庫版、下、p.178)
これが書紀になると「後世の考える人に待とう(後勘者知之:後世のよく考
える人であれば、これを知ることができるはずだ)」などという、とぼけた注
の付いた記述になっています。
「2年春3月、5人の妃を入れられた。 前からの妃の皇后の妹を、稚綾
姫皇女といった。この人は石上皇子を生んだ。 次が皇后の妹で日影皇女
という。--ここに皇后の妹というのは明らかにいえば宣化天皇の女であ
る。しかし皇妃でありながら、母の妃の姓と皇女の名を見ない。どんな書
から出ているのかということがわからない。後世の考える人に待とう。-
-この人が倉皇子を生まれた。」(講談社学術文庫版、下、欽明02.03)
「ソガの倉」という名前は馬子の弟の名前と同じです。
* 蘇我倉麻呂:倉山田石川麻呂、連子(ムラジコ:白村江の直後に死んだ
大紫蘇我連大臣、天智03.05)、赤兄の父親。(日本古代氏族事典、
p.276)。
小野さんの子孫が「アメノタリシヒコ」の子孫として「皇別」として承認
されていたということは、蘇因高の時の天皇である「アメノタリシヒコ」や、
欽明の皇子である「倉王」と馬子の弟の蘇我「倉麻呂」とが同じ名前である
こと、その周辺の事情に関係があるに違いありません。
「蘇因高」さんは「蘇(そ)うま(UMA)こ (KO)」と名乗ったのではないだ
ろうか?。
以下は、関係するニフティのログです。
- FREKI MES( 3):【日本古代史】 日本と漢字文化圏の古代 95/11/15 -
02120/02120 GGB03124 熊 谷 秀 武 蘇我の妹子?
( 3) 95/11/14 23:37 02057へのコメント
#02057 影法師 さん の発言の中で
》 馬とは関係ないですが、小野妹子の子の名前も「毛人」ですってね。
というのを見つけて興味を持ちました。
中国側が「蘇因高」と呼んだ(と書紀に書いてある)人がいます。日本書紀の
作者達は
蘇 因 高
↓ ↓ ↓
SO IN KOU
↓ ↓ ↓
↓ IMO KO
↓ ↓ ↓
小 の 妹 子
↓ ↓ ↓
O NO ↓ ↓
↓ ↓ ↓ ↓
小 野 妹 子
であると断定しています(推古16.04)。
しかし、矢印を逆にたどるとおかしなことになります。
「小野妹子」氏が中国側の人に「小野妹子」という漢字で名乗ったのであ
るなら「小」氏となるはずです。
もし、「お (の) いもこ」と名乗ったのであれば「お」氏として記録され
るはずです。
彼は「蘇(そ)うま(UMA)こ(KO)」と名乗ったのではないだろうか?。
熊 谷 秀 武 / GGB03124
02154/02155 GGB03124 熊 谷 秀 武 蘇我の妹子? その2
( 3) 95/11/23 23:47 02120へのコメント
「日本古代氏族辞典」(雄山閣、佐伯有清編、ISBN4-639-01250-0)で 「小
野」さんの項を見ていたら、おもしろいことを2点ほど見つけました。
小野さんの子孫の証言によると、彼らが「小野」という姓を名乗ったのは、
祖先のIMOKOさんが小野村に住んでいたからだそうです。
「大徳小野臣妹子。家于近江国滋賀郡小野村。因以為氏」
(『新撰姓氏録』左京皇別下、小野朝臣条。『日本古代氏族辞典』p.135)
とすると、小野IMOKOさんは、前には別の姓を名乗っていたことになり
ます。
* 岩波文庫版の日本書紀4、p.111 にも書いてあった。
熊 谷 秀 武 / GGB03124
02155/02155 GGB03124 熊 谷 秀 武 蘇我の妹子? その3
( 3) 95/11/23 23:47 02120へのコメント
同じく「日本古代氏族辞典」によると、もとい、古事記の作者によると小野
一族は「アメノタリシヒコ」という人の子孫らしいです。
「兄天押帯足日子者。<・・小野臣・・之祖也>」(『古事記』孝昭天皇段)
「天足彦国押命。此和珥臣等始祖也」(『日本書紀』孝昭68.01.14)
「アメノタリシヒコ」ってどこかで聞いたことのあるような・・。
熊 谷 秀 武 / GGB03124
02165/02165 GGB03124 熊 谷 秀 武 蘇我の妹子? その4
( 3) 95/11/25 23:21 02155へのコメント
「日本古代氏族事典」をつらつら眺めています。それによると、小野一族は
(1) 和珥(春日)一族の枝族である。
(2) イモコを改氏の祖としている。
(3) 8世紀に外交官を繁出している。
らしいです。まとめると次のようになるでしょうか。
和珥-春日-(妹子、蘇因高、607年)-小野一族
だから、IMOKOさんの前の氏は「和珥」か「春日」あたりになるでしょう
か。だから「蘇我」では有り得ない?。いえいえ、そんなことはないと思いま
すよ。
「宗我倉皇子」という人をご存じですか?。古事記によると次のようになっ
ています。
「(欽明天皇)春日の日爪(ヒツメ)臣の女、糠子 (ヌカゴ)郎女を娶して生みま
しし御子、春日山田郎女、次に麻呂古(マロコ)王(ミコ)、次に宗我之倉王(ミコ)」
(講談社学術文庫版、下、p.178)
これが書紀になると「後世の考える人に待とう(後勘者知之:後世のよく考
える人であれば、これを知ることができるはずだ)」などという、とぼけた注
の付いた記述になっています。
「2年春3月、5人の妃を入れられた。 前からの妃の皇后の妹を、稚綾
姫皇女といった。この人は石上皇子を生んだ。 次が皇后の妹で日影皇女
という。--ここに皇后の妹というのは明らかにいえば宣化天皇の女であ
る。しかし皇妃でありながら、母の妃の姓と皇女の名を見ない。どんな書
から出ているのかということがわからない。後世の考える人に待とう。-
-この人が倉皇子を生まれた。」(講談社学術文庫版、下、欽明02.03)
怪しげですねえ。こういうの大好き。(^_^;)。考えてあげなくっちゃ。
ともあれ、この人=和珥・春日氏系の宗我倉皇子=はトヨミカケシキヤ(推
古)さんの兄妹/姉弟にあたるので、蘇因高、アメノタリシヒコが出てくる6
07年の時代にもいた人だろうと思います(記紀を信ずればの話ですが・・)。
* 岩波文庫版の書紀3を見てからでないと、危ないかな?。
熊 谷 秀 武 / GGB03124
02170/02173 GGB03124 熊 谷 秀 武 蘇我の妹子? その5
( 3) 95/11/26 23:17 02165へのコメント
小野妹子の前の名前は「かすが」か。とすると。かれは「 カ 蘇 ガ いもこ」
と名乗ったのかもしれないな。で、「が」は日本語では「之、of,von」の意味
です、と説明したら、「蘇因高」になった。でも最初の 「カ」はどこに行った
んだ?。
02171/02173 GGB03124 熊 谷 秀 武 蘇我の妹子? その6
( 3) 95/11/26 23:18 02165へのコメント
蘇我の馬子の弟は倉麻呂(※1)というらしいです(日本古代氏族事典、p.276)。
「蘇我倉麻呂」ですね。「宗我倉皇子」とよく似た名前だ。
※1:蘇我倉麻呂:倉山田石川麻呂、連子(ムラジコ:白村江の直後に死んだ大
紫蘇我連大臣、天智03.05)、赤兄の父親。
02172/02173 GGB03124 熊 谷 秀 武 蘇我の妹子? その7
( 3) 95/11/26 23:18 02165へのコメント
雑談ですが・・。
書紀によると、469年(雄略13.08)に春日小野臣大樹が文石小麻呂(アヤシコ
マロ)を殺しています。 それから180年 (3巡)たった649年 (孝徳05.
03.17)には蘇我倉山田石川麻呂が死んでいます。
「石小麻呂」は「石川麻呂」とちゃうやろか?。
* 「干支シフト仮説」については、#01689、#01708 参照。
02183/02183 GGB03124 熊 谷 秀 武 妹子と蘇我氏・和珥氏
( 3) 95/11/30 00:12 02174へのコメント
■「蘇因高」は小野妹子ではおかしい(#02120)
》「蘇因高」は彼の自称であり、自分の名前を中国用に改名したという通説で
》いいと思います。
でもね、その当時の大臣の名前が「蘇我」だとすると、大臣の方も恐らく「蘇」
さんですよね。蘇我さんと関係ない小野さんが、「蘇でございます」と名乗れる
んでしょうか?。
■妹子と蘇我氏・和珥氏
》 妹子が(母方等で)蘇我氏と関係があり、何らかの理由で「小野(和珥)妹子」
》ではなく「蘇我妹子」という名前を使った、という筋書きはどうでしょうか?
きゃはは、「蘇我妹子」説の賛同者お一人さま お着きっ!?。
墓の所在や地名に関しては詳しくないので、ありがとうございました。考えて
みよッと。
》 気になるっているのは、妹子の母親の出自です。手元に資料がないので不明
》です。
妹子さんの父親は分かっているんですか?。母親の出自も分かった時点で教
えてくださいね。
02190/02191 GGB03124 熊 谷 秀 武 RE:とりあえず「蘇我妹子」まとめ?
( 3) 95/12/04 00:53 02184へのコメント
#02184 スズメ男 さん おはようございます。(。_゚)?
■アメノタリシヒコについて
》 「アメノタリシヒコ」は、小野氏や和珥氏だけの先祖ではないですし、
「日本古代氏族事典」で関係ありそうな氏族を35ほど見つけてリストして
みたのですが、断片的で、『和珥系図』『新撰姓氏録』やそれらの研究書(岸
俊男さん?)を見てからでないと、コメントできません。
といいつつ・・。妄想を立ててみないとおもしろくないので・・。
134ページ 小野: 天足彦国押人命 彦オケツ命 米餅搗大使主命
彦オケツ命[オケ=女+老、ツ=津] = 舒明前紀 (推古36.09:628)に
「毛津の稚子」として歌に歌われている人。
米餅搗(タガネツキ)大使主(オオオミ)命 = 7世紀に外交関係で活躍していた誰か。
突っ込まないでね、これは本当に(根拠なしの)妄想なんだから・・。
》 「タリシヒコ」は称号(接尾辞)的なもののように理解していたのですが…。
そすっと、「わかタラシヒコのすめらみこと(成務)」は「若様天皇」?。
冗談はさておき、「タリシヒコ」が称号なのか、固有名詞なのか、本人や、
その名前を裴世清さんに教えた人に聞いてみないと分かりませんね。
隋書の原文が本棚から行方不明なので、MES 14 の #02203 の中山道さんの
発言から孫引きさせてもらいますが。
》 中公新書の『倭国』には、(p 3)
》 「紀元六〇〇年のことである、東方海上の倭国から隋の都の大興に使者が
》 やって来た。・・・中略・・・隋の接待の係官の質問に答えて、使者が語
》 った所によると、倭王は姓名を「阿毎多利思北孤」、号を「阿輩鶏弥」と
》 いい、王の妻は号を「鶏弥」という。 太子は 「利歌弥多弗利」と名付け
》 る。・・以下略」とありました。(鶏=奚隹)
* 原文見つけた。 岩波文庫 「新訂 魏志倭人伝~隋書イ妥国伝」p.129。
『開皇二十年(=600) イ妥王 姓 阿毎 字 多利思北孤 号 阿輩 [奚隹]弥
遣使 詣 闕(=隋の都)』。
これによると、 少なくとも中国の人々は 「阿毎多利思北孤」が個人名で、
「阿輩鶏弥」(大王)が称号だと理解していたことが分かります。
それよっか、3人の「タリシヒコ」天皇の全員が庚午年に死んだ、と書紀の
作者達が主張している(#02173)、ことについてはどう思われます?。
ちなみに、僕は、7世紀初頭の「阿毎多利思北孤」が8世紀の「和珥氏」全
体の始祖であるとまでは、今のところ、考えていません。むしろ、 「和珥氏」
にとって「阿毎多利思北孤」が特別重要な意味を持つ大王であった。それを、
紀記の作者達が抹消しようとしたために、「自分達の遠い祖先」でもいいから、
入れてくれ。と作者達に頼んだ。 紀記の作者達にしても、和珥氏が「皇別」
であるという事実まで消すことはできないので、遠い過去の天皇の子供として
「天足彦国押人命」を入れることにした。というように考えています。
* あれ?。なんで和珥氏全体が「皇別」なんだ?。
■おまけ:欽明の后妃関係について
■宗賀倉皇子について
》 思わせぶりな発言をしてしまった責任もありますので、後日別にレスを立てます。
》よろしければ、お付き合い下さい。 →→→→みなさん
「みなさん」に僕も入れさせてください。
■「蘇因高」は小野妹子ではおかしい
■妹子と蘇我氏・和珥氏
》 「“蘇我妹子”という名前を使った」というのは逆に言えば「本当は“蘇我妹
》子”ではない」ということです。
スズメ男さんの本名を○山◎夫さんだとすると、○山◎夫さんが「“スズメ
男”という名前を使った」というのは逆に言えば「本当は“スズメ男”さんで
はない」ということですね。
言わんとすることは、「小野妹子」は「蘇我氏」の人間ではない、という意
味でしょうね。(スズメ男さんは雀ではない)。
しかし、これだと「蘇我氏」とはなんぞや、「和珥氏」とはなんぞや、とい
う話を先にやらなければならなくなってしまいます。
この問題を考えるに当たって、知りたいことがあるので3点ほど次の発言で
質問させてください。 >みなさん m(_._)m
熊 谷 秀 武 / GGB03124
02198/02198 VYH02230 スズメ男 阿毎多利思北孤と小野妹子
( 3) 95/12/10 23:40 02190へのコメント
熊 谷 秀 武さん、レスが遅れてすみません。
どうも話が見えなくって…。熊 谷さんのお考えの全体像が?
ええと、
○ 『隋書』の「阿毎多利思北孤」が当時の大王をさすとしても、誰である
かが不明であること。
○ 遣隋使だった小野妹子の祖先が「天足彦国押人命」となっていること。
という点を足かがりに、他の材料(干支シフト仮説?)も合せて、
◎ 記紀の編者達は7世紀初頭の「阿毎多利思北孤」を抹消したが、彼に特
別重要な意味を持っていた和珥(小野)氏が、辛うじて「自分達の遠い祖
先」として記紀に記載させた。
という仮説を立てられた、と受け取っていいでしょうか。
ううむ、そうかもしれない。(^ ^;
でも、ちがうような気もする。(^ ^;
■「タリシヒコ」は称号(接尾辞)的なもの について
結論から言うと、私は、
〉 そすっと、「わかタラシヒコのすめらみこと(成務)」は「若様天皇」?。
でもいいと思っているんですが…。(^_^)
ある時期、天皇に当たる言葉が「タリシヒコ」だった、という説をどこかで読ん
だ記憶がありまして、それであまり疑問を感じないできました。
また、『続紀』和銅7年6月己巳条には、
若帯日子の姓は、国の諱に触るるが為に、改めて居地に因んで之を賜ふ。
という記事があります。「若帯日子」という姓が8世紀になっても国諱として意識
されたのは、成務(ワカタラシヒコ)天皇個人が特別に大切だと考えられていたというよ
りも、その名に含まれる「タラシヒコ」が問題であったと考える方が無難です。
『隋書』にいう「多利思北孤」も、天皇をさす言葉の1つ(もう一つが「阿輩鶏
弥」)だった、というので良いと思うのですが。
■「蘇我氏」とはなんぞや、「和珥氏」とはなんぞや について
ここについては、熊 谷さんのおっしゃる意図がわかりません。
フウーに「氏」を取っていたつもりなんですが、熊 谷さんの考える「氏」の定
義をお聞かせいただけませんか?
#02191のご質問についても、(私は専門家でもないし)全くお手上げです。何を
調べたらいいのか、見当もつきません。
何より、どうしてそんな「深み」に行ってしまうのでしょうか…。
■最後に、疑問点です。
疑問1:なぜ記紀の編者達は7世紀初頭の「阿毎多利思北孤」を抹消したのでし
ょう。その理由をどうお考えですか?
疑問2:この件と、例の「蘇因高」とはどうつながるのですか?
よろしくお願いします。m(..)m . .
<<( v )>> チュンチュン!
スズメ男でした / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄″ ̄″ ̄ ̄/\
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
02202/02203 GGB03124 熊 谷 秀 武 RE:阿毎多利思北孤と小野妹子
( 3) 95/12/13 01:16 02198へのコメント
#02198 スズメ男 さん おはようございます。(。_゚)?
》 どうも話が見えなくって…。熊 谷さんのお考えの全体像が?
うぐ。「考えの全体像が?」自分でも分かりません。疑問の塊です。
》 ええと、
》 ○ 『隋書』の「阿毎多利思北孤」が当時の大王をさすとしても、誰である
》 かが不明であること。
》 ○ 遣隋使だった小野妹子の祖先が「天足彦国押人命」となっていること。
》 という点を足かがりに、他の材料(干支シフト仮説?)も合せて、
》 ◎ 記紀の編者達は7世紀初頭の「阿毎多利思北孤」を抹消したが、彼に特
》 別重要な意味を持っていた和珥(小野)氏が、辛うじて「自分達の遠い祖
》 先」として記紀に記載させた。
》という仮説を立てられた、と受け取っていいでしょうか。
YES。
》 また、『続紀』和銅7年6月己巳条には、
》 若帯日子の姓は、国の諱に触るるが為に、改めて居地に因んで之を賜ふ。
8世紀には「若帯日子」なんていう名字の人が居たんですね。
なんでこんな「だいそれた」名前がそれまで許されていたのか。どんな由来
の人々が名乗っていたのか、興味がありますね。
講談社学術文庫版の『続紀、上』p.151 (※1)の(たぶん宇治谷さんの)
カッコ書きでは「成務天皇の実名が若帯日子」となっていました。
他に「タラシヒコ」姓の人が居たかどうかが分からないと、何ともいえない
ですね。(他の「タラシヒコ」姓が放置されたのなら個人名だったことが問題
だったことになり、他の「タラシヒコ」姓も改姓させられたのなら、その名に
含まれる「タラシヒコ」が問題だったことになる)。
※1:買ってしまった・・。最近の文庫版はばかにならないな。3冊で32
00円。でも結構おもしろい。斉明が即位した655年が元正の即位
した715年の干支シフトにあたることが分かってしまった・・。ど
ちらも足姫。
》 『隋書』にいう「多利思北孤」も、天皇をさす言葉の1つ(もう一つが「阿輩鶏
》弥」)だった、というので良いと思うのですが。
資料の評価(意見・仮説)の問題なので、自由です。ただし、それが真実だ
と思うのは危険でしょう。(もちろん僕の評価も仮説です)。
》 フウーに「氏」を取っていたつもりなんですが、熊 谷さんの考える「氏」の定
》義をお聞かせいただけませんか?
「氏」というのは、人間の観念の中にしかない共同幻想だと思っています。
一次的に実在するのは、人間と、親子関係と、その人間の社会的行動です。共
同幻想も、社会に存在する人々の観念の中に存在するという意味での二次的な
実在性を持っていると思います。
「氏」は「帰属意識」くらいに一般化できると思うのですが、いずれにして
も、「私はこの氏に属する」という本人の自覚意識と、「彼はあの氏に属する」
という他人の承認意識によって支えられています。
こういう系譜を考えてみましょう。
天皇A - 皇子B(ソガ皇子) - 子(ソガ某) - 子孫(ソガ某s)
ここで、子孫(ソガ某s)の段階では、彼らは 「ソガ」氏に属するという帰
属意識を持っていることでしょう。
しかし、天皇Aの段階では「ソガ」氏に属するという帰属意識を持っている
ことは有り得ませんので、天皇Aはソガ氏ではありません。そもそも天皇Aの
段階では「ソガ氏」は存在しません。
では、皇子B(ソガ皇子)の段階ではどうでしょうか?。たぶん、彼の段階
でも、ソガ氏は存在しませんから、彼は(後のソガ氏の始祖ではあっても)ソ
ガ氏だとは自覚していなかったはずです。
要するに、氏は時代とともに生成・変化・消滅する概念であり、時代を特定
しないで「一般的に」使うことは危険だ、ということです。8世紀の段階での
「蘇我氏」と7世紀の段階、6世紀の段階での、それ以前の段階での「蘇我氏」
とは異なります。
》 #02191のご質問についても、(私は専門家でもないし)全くお手上げです。何を
》調べたらいいのか、見当もつきません。
僕も専門家でないのでお手上げです。8世紀以降の文献の中で、自分はxx
の子孫だと称する人が居るかどうかを、総当たりしないと分からないので、素
人には無理です。専門家なら、反証を一つでも知っていれば、
xxさんは馬子の子孫を称しているよ、とか、
yyさんは和珥氏の分氏の時期をzz天皇の時代だと称しているよ、
という指摘が可能でしょう。
僕が「日本古代氏族事典」で調べた限りでは、#02191 の様なことが言える
のではないかと思うのだけれど、自信がない。専門家の反証を待ってから発言
しないと、みっともないことになるので・・。
》 何より、どうしてそんな「深み」に行ってしまうのでしょうか…。
性格でしょうかね?。
》 疑問1:なぜ記紀の編者達は7世紀初頭の「阿毎多利思北孤」を抹消したのでし
》 ょう。その理由をどうお考えですか?
白村江の敗北の後の状況は、戦勝国の唐が占領軍を派遣してきた状態だと思
っています。と、同時に、滅亡した百済からの亡命人が大量に畿内に入ってき
た状態でもあります。と、婉曲にお答えしておきます。
》 疑問2:この件と、例の「蘇因高」とはどうつながるのですか?
「この件」?。「阿毎多利思北孤」と「蘇因高」とのつながりですね。これ
は、同時代人であり、一方が消されて、一方が明記されている、という関係に
ある。ということかな。
「この件」とは「蘇我氏」とはなんぞや、「和珥氏」とはなんぞや のこと
かな?。ひょっとしたら「和珥氏」「蘇我氏」という「氏」は「蘇因高」の時
代では意味を持たないのではないか、ということです。(上記参照)。
熊 谷 秀 武 / GGB03124
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