17世紀〜18世紀に存在したウクライナの独立国家
ぼくのロシア人の友人でスミノフという男がいるんですが、彼はなぜウクライナがロシアから離れたがっているか理解できないと言っています。
「だって俺たちは兄弟みたいな国なんだぜ?兄弟だったら一緒にやっていくのが当然だろ?」
これはロシア人の素朴で正直な本音だなと思うのですが、ウクライナ人からすると「兄弟かもしれないが一緒にやっていく義理はない」という感想が出てきそうです。
ロシア人とウクライナ人が現代において「兄弟喧嘩」をするに至った大元の理由、そしてそもそもウクライナ人という民族が作られたのも、今回取り上げる「ヘーチマン国家」にあるようです。
1. コサックの登場
武装自治集団コサック
15世紀ごろ、現在のウクライナやロシア南部の地は荒れ果てていました。
13世紀にキエフ・ルーシが解体し、14世紀末にキプチャク汗国も衰退しクリミア汗国などいくつかの汗国に分裂。さらにはノガイ・タタールなどの遊牧民族が跋扈し、ルーシの村を襲って村人を拉致したり農作物を略奪したりなど、リアル北斗の拳状態でした。
それでも地味豊かなウクライナの地で農業を行おうとする者たちは、タタールの襲撃に備えて武装し自警団を作りました。
16世紀初めまでに組織化されて武器を揃えて戦闘力をつけてタタールの襲撃に抵抗できるようになり、今度は逆にタタールやトルコ人、アルメニア人を襲うようになりました。
彼らはタタールを襲う大義名分として、イスラムの手から正教を保護し、拉致されたルーシを奪い返すことにあるとしました。
彼らが、トルコ語で「分捕り品で暮らす自由人」を意味する「コサック」と呼ばれるようになりました。
「ウクライナ」の誕生
コサックは次第に強大化し、コサックが住む町がいくつもできていきました。町に住むコサックを率いるリーダーは「ヘーチマン」と呼ばれ、王に任命された貴族が務めました。
一部の者はより大きな自由を求めてドニエプル川下流に「シーチ」と呼ばれる要塞を作りました。これは「早瀬の向こう」という意味の地名「ザポロージュ」と組み合わせて「ザポロージュ・シーチ」と呼ばれ、ここに住むコサックを「ザポロージュ・コサック」と呼ぶようになりました。後にこのザポロージュ・コサックはウクライナのコサックの中心地となります。
また、この時期にドニエプル川両岸に広がるコサック地帯を「ウクライナ」と呼ぶようになっていきました。
もともとウクライナという言葉は昔からあったのですが、コサックにとっての「祖国」を意味する言葉になっていきます。
コサックという生き方
コサックの男は亜麻布の長袖の上着を着てだぶついたズボンをはき、髪は1房の毛を残して全部剃っていました。満州族の辮髪に似ていますね。
コサックは自由を愛し、自分たちを支配しようとする者を嫌い徹底的に抵抗する。
体は頑強で辛い環境にも耐え、戦いを好み喜んで死地に向かっていく。戦場で死ぬことは名誉なことである。
明日のことはよく分からない。今日食べて飲むものがあればそれで満足である。
便利で豊かだけど全てが為政者に監視される汲々とした社会と、不便だけど何をしようと文句を言われない自由な社会。
現代社会でも、後者に憧れる冒険野郎は多くいそうですね。
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2. 政治勢力へ成長するコサック
コサックが強くなると、周辺各国はコサックの軍事力を利用しようとしました。
最もコサックを利用した国はポーランド。
ポーランドは貴族の力が強く、戦争するにしても王は貴族に許可を得ねばならなかったため、自由に利用できる軍事力としてポーランド王はコサックを随分頼ったのです。
しかしコサックからするとポーランド王に使われてばっかで腹がたつ。待遇も悪い上に自分たちの自由に干渉されては癪(しゃく)である。
ポーランドからすればいつ手を噛んでくるか分からない危険な連中でした。
そこでポーランド王は「コサックの登録制度」を考え、登録したコサックは王の地位を認め統制に従うように求めました。
その代わりコサックたちには給料を支払い、土地の所有を認め、指導者ヘーチマンも自分たちで認めることを許可しました。
そのことでポーランド王はコサックを自由に使うことができ、コサックは経済的利益と政治的自治を得られるようになったのですが、この登録制度を利用したコサックは地主化し、あくまで自由を求める流浪コサック集団との間に大きな格差が生じていくことになります。
最初の偉大なヘーチマン、ペトロ・サハイダチニー
登録コサックの中で早くに活躍したのが、ペトロ・サハイダチニー。
彼は勇敢で規律を守り頭も良い男でコサックたちの指導者となりました。彼はコサック軍の軍規や階級を作り、ゲリラ的軍から正規軍への転換を果たしました。
ポーランド王のためにモスクワ公国やオスマン・トルコ、タタールとの戦いに従軍し、なんどもポーランドを危機から救ったのでした。
サハイダチニーはウクライナの文化と教育の振興と、正教の保護に尽くした人物でもあります。
ポーランドへの反乱の時代
1622年にサハイダチニーが死んだ後、コサック内で待遇面などでポーランドへの不満が高まり、1630年代には何人かのヘーチマンがポーランドへ反乱を起こしますが、いずれも鎮圧されてしまいます。
ポーランドの干渉が強まり、コサックの自治は制限され、登録コサックに数も大幅に削減され、不満がさらに高まっていくことになります。
ポーランドへの本格的な反抗、そしてヘーチマン国家の独立を果たすのが、ウクライナの英雄ボフダン・フメリニツキーです。
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3. ウクライナの英雄ボフダン・フメリニツキー
フメリニツキーの反ポーランド蜂起
ボフダン・フメリニツキーの半生はごくありふれたコサックの生き方で、登録コサックになってポーランドのために戦い名を上げ、領地を得て経営し、経済的には不自由ない暮らしをしていました。
ところが1647年、ポーランド貴族でチヒリンの副代官チャプリンスキという男がフメリニツキーの土地の所有権を突然主張し始め、領地を襲って子を殺し、彼の再婚相手を拉致してしまった。
フメリニツキーはポーランドの裁判所、議会、王にこの貴族の悪行を訴えますが全く相手にされません。それどころか、チヒリンの代官の命令でフメリニツキーは逮捕されてしまう。
我慢の限界にきたフメリニツキーは、脱獄後にコサックたちを説得し、ポーランドに対する反乱を呼びかけました。
ポーランドへの不満が鬱積していたコサックたちは次々のフメリニツキーの元に馳せ参じ、彼をヘーチマンに推挙。コサック軍はこれまで敵対していたタタールと結託しポーランドに侵攻してポーランド軍を打ち破り、首都ワルシャワにまで迫りました。
ここでポーランド王ヤンカジミシェが「土地の貴族には従わなくて良い」といった和平案を提示したことで、フメリニツキーはウクライナに軍を引き上げたのでした。
ヘーチマン国家の成立
キエフに戻ったフメリニツキーは人々から「ルーシの解放者」「正教の守護者」と歓喜の声で迎えられました。
そうして今度は自分自身のためではなく、ルーシや正教のために戦うことを決意。
すぐに軍を起こして再度ポーランドに侵攻し、ズボリフでポーランド軍を撃破し新たな協定を結び、登録コサックの増加、ウクライナをコサック領とすること、正教府主教にポーランド議会の議席を与えることなどを認めさせました。
ここにおいて、ウクライナの独立ヘーチマン国家、正式には「ザポロージュのコサック軍」というコサック国家が成立しました。
モスクワ公国の保護下に
1651年、フメリニツキーは再びポーランドとの戦いを再開しますが、この時同盟を組んでいたタタールが戦場から離脱したことでコサック軍は総崩れになり、フメリニツキー自身もポーランド軍の捕虜となってしまいました。
後に解放されますが、領土が減らされ登録コサック数も制限されるなど妥協を迫られ、フメリニツキーはコサック軍のみでウクライナを守ることは難しく、近隣の国のいづれかと同盟を結ぶ必要があると考えるようになりました。
そこでフメリニツキーは様々な国と交渉した結果、同じ正教徒のモスクワ公国に庇護を求めることで話がまとまりました。
コサックとウクライナ人はツァーリに忠誠を誓い、新たなヘーチマンの即位もモスクワに報告しなくてはいけないが、コサックの伝統的な権利は維持されるし、ツァーリはコサックへの軍事援助も行う、というものでした。
後代のロシアとソ連は、この協定において
「ポーランドの支配によって分裂していたルーシは、民族の悲願であった統一を成し遂げた」
と見なしますが、ウクライナ人は
「あくまで一時的にモスクワと手を組んだだけであり、モスクワとの一体化など決して望んでいなかった」
と考えます。
記事の冒頭に上げたロシア人とウクライナ人の認識のずれはここで発生しているわけです。
実際、モスクワはウクライナの地を「小ルーシ」と呼んで自らの領土の一部とみなすようになり、コサックの自治に対し干渉をするようになります。
フメリニツキーはモスクワと手を切り新興国スウェーデンと結ぼうと画策しますが、突如モスクワは敵であったポーランドと和平協定を結びスウェーデンと対決。フメリニツキーはスウェーデン軍の南下に従ってポーランドへ侵入しますが失敗。
その途上でフメリニツキーは死亡しました。
4. イヴァン・マゼッパの挑戦
英雄フメリニツキーの死後、周辺各国を巻き込んだ戦争や、ドニエプル川西岸のヘーチマンと東岸のヘーチマンの対立、さらには独立系コサックの反乱が頻発し、国土が荒廃。この時代を「荒廃(ルイーナ)時代」と呼びます。
この時代に登録コサックは貴族化し、一般コサックは農奴化し経済格差が拡大。モスクワは一般コサックに肩入れし対立を煽って武装蜂起させ、ヘーチマンがコサックを弾圧するとヘーチマンを捕らえてシベリア送りにするなどして内部対立を深め、モスクワへの従属体制を強化していきました。
そんな中でモスクワに歯向かってウクライナの自主性を回復しようとしたのが、イヴァン・マゼッパという男。
マゼッパはいわゆる「人たらし」の才があったようで、ワルシャワで勉学中にポーランド王ヤン・カジュミシェが最も信頼する臣となり、その後モスクワに送られた時はピョートル1世の南下政策に最も忠実なコサック軍指揮官となって信頼を勝ち得ました。ピョートル1世はマゼッパを大変気に入り、2万箇所もの荘園を与え、ヨーロッパ有数の大土地所有者にのし上がりました。
さらにマゼッパは東岸ウクライナに攻め入り、一時は東西ウクライナを支配し久方ぶりに統一ウクライナを再現したほどでした。マゼッパはウクライナの自立を求め、得た富を文化振興や正教の保護に惜しみなく使い、人々の支持を得ました。
しかしピョートル1世は中央集権国家の構築を目指し、マゼッパの目指すウクライナの自治の拡大とは根本的に相反していました。
マゼッパはウクライナの自治のためにいつかはピョートル1世と対決しなくてはならないと考えていましたが、その時は1708年に訪れます。
18世紀前半、新興国スウェーデンは新国王に軍事の天才カール12世が就き、バルト海沿岸とポーランドの支配を目指していました。1708年秋、スウェーデン軍はリトアニアに攻め入り、その後ウクライナに侵入。ピョートル1世はマゼッパに対し、スウェーデン軍を迎え撃つように命令します。
ここでマゼッパはピョートルの命令に逆らい、スウェーデン軍に合流しモスクワと戦うことを決意。
カール12世からは、ウクライナの保護とモスクワからの自由を得るまでは和睦しない約束を取り付けました。
マゼッパはモスクワへの反感が強いコサックの大部分は自分に味方をすると信じていましたが、一般コサックの大部分は大領主で貴族の味方マゼッパを快く思っておらず、予想に反して大部分がモスクワに付きました。
ただザポロージュ・コサック8,000はマゼッパの側に付き、1709年7月にスウェーデン・マゼッパ軍連合軍2万8,000と、コサック軍を含むモスクワ軍4万が激突しました。ポルタヴァの戦いです。
この戦いはモスクワ軍の圧勝に終わり、スウェーデン・マゼッパ軍は約9,000の死傷者を出して壊滅。大北方戦争はこうしてスウェーデンの野望が絶たれ、モスクワが帝政ロシアを成立していくに至ります。
敗れたマゼッパはオスマン・トルコに逃亡し、その後ベッサラビアで客死。
その後コサックは新ヘーチマンにオルリークという男を選出し、再びスウェーデンの援助の元でウクライナの領土を回復するために戦いますが、1713年までに鎮圧されてしまいました。
5. ヘーチマン国家の終焉
ボルタヴァの戦いの後、ロシアはツァーリの代理人をウクライナに派遣し、代理人の許諾なしにはヘーチマンが何も決済できないようにしました。
さらには、首府をキエフからロシア国境に近いフルフヒに移動させ、ロシア軍二連隊を常駐させました。
1734年にアンナがロシア帝位に就くと、ヘーチマンの選出が禁止され皇帝の命令によってコサックは動員されるようになり、1736年から始まったオーストリア・ロシア・トルコ戦争では大量のコサックが動員され3万5,000人が死亡しました。
1765年、エカテリーナ2世はコサックの自治を禁止し、次いでザポロージュ・コサックを廃止。シーチも破壊されました。
この背景には、ロシアが第一次露土戦争の勝利によりオスマン・トルコと結んだキュチュク・カイナルジ条約によって黒海沿岸の領土を獲得し、クリミア汗国の宗主権の蜂起を認めさせロシアの保護下にした事実がありました。
これにより、オスマン・トルコとクリミア汗国との対決に必要だったコサックの利用価値がなくなったのでした。
コサックたちはロシア軍に編入させられたり、アゾフ海の沿岸に入植して定住したり、トルコ領に移住したりしました。
そして最終的に、1780年にエカテリーナ2世によってウクライナを支配してきた小ロシア参議会は廃止されてロシア本土と同様の知事が置かれ、ヘーチマン国家は正式に廃止されました。
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まとめ
ウクライナはその後、第一次世界大戦後のウクライナ人民共和国の成立までロシア帝国の支配を受けます。その後もソ連の支配を受け、ソ連崩壊後の1991年にようやく独立することになります。
しかし現代でも、ロシアの強い影響下にある東部と、西側諸国への接近を求める西部という状況があり、国内政治も親EU派と親ロシア派がいて、国内外の政治勢力が暗躍し陰謀に満ちた不安定な国となっています。
しかも2014年にはクリミア半島がロシアの侵攻を受けて一方的に独立、次いで併合させられ、ロシアという国の強い影響下に未だに敷かれています。
ウクライナという国があそこにある以上、ロシアの強い影響を受けざるを得ないのですが、血が濃い分憎しみも濃いというか、ロシア人の一方的な秋風と、ウクライナ人の拒絶は続きそうです。
参考文献・サイト
物語 ウクライナの歴史―ヨーロッパ最後の大国 中公新書 黒川裕次
" Hetman state" the Encyclopedia of Ukraine, vol. 2 (1989) Lev Okinshevych, Arkadii Zhukovsky