アローナー

自分が書いたものを見ると、何語であれ、「友達は、いらない」と、よく書いている。
孤独な人間が書くべき言葉だが、現実は、もともと大変社交的な人間で、呼ばれても、パーティでもパブでも、断ったりはしない。

巧言令色すくなし仁。
色を令して、言を巧みに相手を喜ばせるのも上手であって、世が世なら、結婚詐欺師として大成したのではないかと思う事がある。

個人としての外交能力を他人に取り入るために使う人もいるのだろうが、自分の場合は、他人との距離をおくために使っているもののよーです。

ATMの前に出来た行列をみると、フィンランド人は有名で、一見すると、ひととひとが、ばらばらに、お互いに遠く離れて立っているように見える。
だいたい、3〜4メートル離れて立っている。
ニュージーランド人も、かなり間隔があいていて、もちろん人によって違うが、最近はオークランドのような都会では新しくやってきた世代の人なのでしょう、アジア系の移民の人達に、永遠に割り込まれてATMにたどりつけないのが知識として普及してきたので、日本の人よりもやや間隙がおおきいくらいの距離で立っているが、本来は、2〜3メートル離れて立っているのが普通で、いまでも南島の田舎町や北島の東側へ行くと、むかしながらの、並んでるんだが、三々五々立っているんだが、判然としない距離をおいて立っている。

逆に、これは映画や画像でしかみたことがないが、インドの人は故国では、お互いの距離が、ものすごく近い。
冗談に聞こえるが、ムンバイなどでは身体と身体を密着されて並んでいる。

下品な読書経験をもつ人なら「城の中のイギリス人」を思い起こしそうな光景で、
きっと、写真をみると、カンタック空港で、日本の女の人がスリにあって、「いやあああーん」と大きな声で叫ぶのを振り返った香港人の若い男のようにお下品なニヤニヤ笑いを浮かべてしまっているのではないか。

ある写真についていた解説によると、あれは、ボディランゲージとして観察するべきような文化人類学的な事象ではなくて、ちょっとでも隙間があると容赦なく割り込まれるからだ、と書いてあったが、ほんとうかどうかは、しりません。

自分は、だいたい、大通りの向こうに相手が立っていて、顔はぼんやりとしかみえないが、懸命に手をふればお互いに気が付く、というくらいの距離が好きなようです。
交通量もおおい片側三車線のクルマが次から次に走り抜けていって、なつかしさに、懸命に手をふる。
ときに両手でラッパの形をつくって、なにごとか述べるが、よく聞きとれない。
バスやトラックの大型車が走り抜けると、どうしたことか、いつのまにか姿がかききえている。

友達との距離の理想は、そういうもので、逆に、距離がそのくらいであるときに最も見知らぬ人であった人との切実な友情を感じる。

一方では、同族と感じる人々がいて、このひとびとは、大半が子供のときからの知己・友人です。
しかし、こちらは、やたらと数が多い兄弟や親戚のようなもので、他人が聞いたらぶっくらこいてしまうようなポリティカリー・インコレクトな発言が交換されていて、あるいは、よく考えてみると友達だとおもって意識されていなければ、到底、鼻持ちならないようなエリート意識の固まりのような人間もおおい。
別に友達だから我慢しているわけではなくて、いまさら蛇にうまれついた存在をゲッコーではないと怒っても仕方がないというか、われながらこの例えでは訳がわからないが、ダメはダメなりに友達としては可愛い、ということであるよーです。

むかし、大学にいるときに、「きみは付き合いの長さによってしか友達を評価しないんだよ!」と、えらく憤激した調子でいわれたことがあったが、考えてみればその通りで、その人の趣旨は、当然、新しくめぐりあった友達であっても、相性があえば、旧然の友達よりも、より親しい友達として遇されるべきだ、ということであるらしかったが、なるほどなあ、もっともである、とおもうだけで、では革めましょう、とは一向におもわなかったのをおぼえている。

ときどき、そのときの相手の大憤激の表情をおもいだして、ほんとだよね、と考えてニヤニヤする。

自分だけのことなのか、他の人もそうなのかは知らないが、そもそも友情というものについて意識でないのが原因であるらしいのは、ずっとむかしから判っていて、
どうも、そういうことでは人間として具合が悪くて、付き合いが長い順に信用のブロックチェーンが雲までとどいて頭の上にゆらゆら揺れているのだといっても、その一方で、ひさしぶりに高校のときの友達にあって、「うーむ、こいつって、こんなに退屈なやつだったろうか」とおもったりしているのだから、手の施しようがないというか、なんというか。

昨日、メールボクスを開いてみたら、なつかしい名前があって、ダブルクリックしてみると、長大なemailが出てきた。

奥さんとの、そもそものなれそめから、結婚した理由、行き違いや交感の歴史が書いてあって、奥さんに愛人ができて、離婚することになっったと書いてあった。
冗談ではなくて浩瀚な文章で、出版するためにはボリューム1とボリューム2に分けたほうがよさそうな手紙でした。

読んでいるうちに、涙でみえなくなって、鼻をばっちくずるずる言わせながら読んでいたら、折悪しく、モニがカクテルのトレイをもって部屋に入ってきて、はなはだしくバツの悪いおもいをした。

その手紙を、ほとんどおいおい泣きながら読みおわって、盛大に鼻をかみながら初めに考えたことは、脈絡がないといえば脈絡がない、
「自分はモニとあわなければ、結局、ずっとひとりでいただろう」ということだった。
恋人もなく、友達ともだんだん疎遠になって、中年に至るころには、大きな家に、家の世話をしてくれるひとびとと、ひとりで住んで、案外それで幸福だったのではないだろうか。

自分のことをかんがえると、 特に用事があって、この世界に生まれてきたようには思われない。
やりたいことは、たくさんあって、どうやら、よっぽどのんびりに見えるらしい自分の影の、いろいろな人達が考えるよりも、ずっとたくさんのことをおこなって暮らしているが、しかし、どれもただの好奇心で、自然に興味があれば数学を身に付け、いや、数学を身に付け、などというと気難しいに決まってる数学の神様が怒るだろうから、数学の方法を身に付け、人間の社会に興味をもてば、自然言語を習得する。

前に書いたように日本語という自然言語を身に付けようとおもいたったのは、自分のまわりを見渡して、ふたりの例外を除いて、誰にも読めない言語で、都合がいいことに、日本語は相当に高度な普遍語として機能してきた歴史をもっていて、始めたことには、すでにもう死相がでていて、どんどん死語が生まれて、表現できる世界が、年々、狭小になりはじめていたが、多分、最後はいっそ水村美苗の「私小説」のように、足りないところは英語でもなんでも補って、混ぜて書いてしまえる文体を発明すればいいだけのことで、そういう言い方をすれば、巨大な独り言の体系として身に付けたかった。

いくつかの言語を身に付けて、自然や世界を記述して、ひとりでヨットに乗って、360度どこにも陸地がみえないブルーウォーターを渡れば、誰にでも理屈ではなくて実感されるように、人間はみなひとりで、人間が社会的動物であるのは本質であるよりは方便で、サバイバルの方法論が定着しただけで、それが証拠には人間の言語は伝達ということに最も向いていない。
垂直に見下ろしたり、高いところを見上げるには向いていても、同じ地表に立っている他の人間に、自分の思惟の内容や感情を伝えることに全く向かない。

「友達は、いらない」と述べる自分は、ゲートのインターコムを鳴らして、
「ガメ、一杯飲みに行こうぜ」と電話もしないでやってきた友達に、
「おお、いいね」と述べて、パブにでかける。
パブに到着すると、見覚えのある顔があって、やあ、こっちに来て、一緒にやらないかい?という。

楽しい時間を過ごします。

だいたいはスモールトークで、あるいはバカ話で、例えばニュージーランドにいれば、ときに首相のブレストフィーディング休暇や、オーストラリアのてんでばらばらな、ガリポリでの若い連合王国将校の「オーストラリア人ほど規律がなくて集団行動ができな国民はみたことがない。第一、この国民は喧嘩と戦争の区別がついていない。かっかして、個々に塹壕を飛び出しては、ひとりずつトルコ兵に射殺されて、こんなひどい兵隊はみたことがない」という怒りとうんざりの感情に満ちた戦場日記をおもいおこさせる政治、イギリスのダメダメぶり、アメリカのナチ化、と話が遠くにいってしまうこともあるが、ときどきは、お互いに消息を知っている誰彼の話になって、
若いのに癌で死ぬなんてと、みなでしょんぼりしたり、愛人がいるのがばれて、奥さんにぶん殴られて頬骨を折って入院した先で、事情を知る看護の女の人に手荒に扱われて、もっか地獄を通行中の哀れな男の境遇を、失礼にもゲラゲラ笑ったり、
友達たちと、夕方を愉快にすごす。

1時間もすれば帰ります。
笑い顔や、泣き顔を背にして、
木に触って、パブにも神様にも支払いをすませて、
あるときは、立ち止まって、振り返って、別れを告げ。

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