随想 『伯爵夫人』の時代と私のかかわり
[レビュアー] 瀬川昌久(評論家)
かねがね敬愛する蓮實重彦さんが「新潮」四月号に「伯爵夫人」という小説を書いて評判になっている、と聞いて早速本屋に走ったが、既にどこも品切れだった。間もなく第29回三島由紀夫賞を受賞された時の記者会見で、小説を書くきっかけの一つに、「ある先輩が日米開戦の夜にジャズをきいていたこと」を上げられた、という情報を友人たちが連絡してきて、「あれは貴方のことだよ」と告げてくれた。どういう意味でか判らぬながらも、受賞そのものは非常に嬉しく思っていたところ、やっと本を入手して急いで目を通してみると、主人公の二朗が長い遍歴の末帰宅して眠り込みやっと目をさますと、夕刊に米英との開戦が報じられている、と末尾に書いてある。
「新潮」七月号の受賞インタビューの中で、蓮實さんは、私の名前を出して「トミー・ドーシー楽団による『Cocktails for Two(愛のカクテル)』のレコードを派手にかけられたら、ご両親から『今晩だけはおやめなさい』とたしなめられた」ことを引用して、私が戦争中もジャズをずっときいていたのは、戦前の日本に豊かな文化的環境があった証左だと述べておられる。これを読んで、今度は私の方が深い感銘を受けた次第であるが、小説「伯爵夫人」の中には、残念ながら音楽の話は出てこない。しかし蓮實さんは、映画を通じて、音楽にも極めて造詣が深く、昨年映画と音楽について対談した時に、日本映画がいかにアメリカのモダンな手法を採り入れていたかの例として、エディ・カンター主演の「突貫勘太」(一九三一年)の冒頭の歌が、PCL映画「ほろよひ人生」(一九三三年)にそっくり流され、更にエノケンの「青春酔虎伝」(一九三四年)のオープニングに、ダンサーやエノケン、二村定一らの長々と歌い踊っている場面を映像を通じて説明された。その時エディ・カンターを囲んで華麗に歌い踊るゴールドウィン・ガールズのまばゆいばかりの大群舞の場面を指して、「みんな背中は何もつけてないガールズの一糸乱れぬグループを使ってこんな題材を作っちゃうんだから、そんな国との戦争など勝てるはずもない」と申されたので皆大笑いした。
次に文中出てくる二朗の数人の級友の中に、「文士を気どるあの虚弱児童」の「平岡」の名が出てくる。「新潮」のインタビューでも「仮面の告白」評が出てくるので明らかに三島由紀夫(本名平岡公威)のことであろう。私はたまたま三島とは初等科から大学まで同級で、文学面を離れて親しく友達付き合いを重ねた。彼が体育や教練を好まず見学することが多かったのは事実だが、病弱で休むことはなかった。勿論作文の才には秀で、高校時代から小説を書いて注目されていた。大学にも一緒に入ったが、兵役は丙種不合格で、私の新調したばかりの制服を彼に貸した覚えがある。小説にはよくいわれる彼の変質性が強調されている嫌いがあるが、それは彼の一種の遊び心であったと思う。戦後学生のダンスパーティが盛んになった時は、我々の仲間の常連になって、きれいな女性パートナーを追っかけ廻したものだ。彼の著書「旅の絵本」にも出てくるが、彼が昭和32年夏にニューヨークに来た時私も前年から滞在していたので、始終顔を合わせた。彼は戯曲「近代能楽集」をブロードウェイで上演する話がすすんで、プロデューサーを決めて出演俳優のオーディションや劇場の手配を行うのに立ち会い、年内オープニングを目指していた。親友のドナルド・キーンの手配によるものだったが、その手順が次々に延びてしまって、彼はイライラしていた。流石の彼も資金を節約するためグリニッチ・ヴィレッジの安宿に引っ越して耐乏生活を始めたので、慰労の意味で、彼の好きなスパニッシュダンスを見せるスペインレストランに誘ったりした。「何故これ程芝居公演にこだわるのか」と訊ねると、彼はいたずらっぽく笑って答えた。――「先ずニューヨーク・タイムズ紙の日曜日の演劇欄に、僕の芝居の記事がいかに書かれるかを読みたい。それは芝居の初日、芝居がハネると、プロデューサーや劇評家たちが続々と集まる『サーディス』というレストラン・バーで、彼等が作品について議論する結果によって、作品の運命が決るんだ。僕は当日『サーディス』の片隅にそっと座って、彼等の議論に耳を傾けるスリルを味わいたいんだ。それだけだよ」。残念ながらその時は上演に至らず、彼は失意のまま帰国した。その彼は結婚して白い塔のある豪奢な自宅に、ドナルド・キーンと私共夫妻をよんで会食しながら、あの時のことを語ったものだ。「仮面の告白」にある「下司ごっこ」などについては、何れ蓮實さんと二人だけでワインでも飲みながらお互いの体験を語り合う機会を楽しみにしたい。