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なっちゃんのこと

先日、出かけた時に偶然このポスターが目に入り、思わず立ち止まった。

最初に断っておくが、イベントの話ではない。

イラストを見て遠い昔の、ある女の子を思い出したのだった。


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奈津子という19歳の子が、かつて勤めていたソフトウェア開発会社に、アルバイトとして入って来た。

アルバイトなんてこれまでひとりも雇った事のない、興して3年目の小さな会社だった。

社長ったら、一体どこでこの子を見つけて来たのだろう?

他の社員達も同様に「どこから拾って来たんだろうね」等と、まるで野良の子猫のような扱いだった。

ほぼ未経験の私さえ雇う、かなり奇特な社長ではあった。

私がこの会社に入社したのは、二十歳の時だった。当時は同い年の女子社員が4人いて、皆仲が良かった。

仕事帰りには渋谷や新宿で夜遊びした。終電がなくなれば誰かのアパートに泊まり、翌朝一緒に出社した。毎日がとても楽しいと思い込んでいた。

けれどもそんな学生の延長のような日々は、長く続かなかった。私以外の3人が立て続けに結婚を決めて、さっさと退職してしまったからだ。

私はといえば、煮え切らない彼氏を見限って、ひとり暮らしを始めていた。世の中はバブル景気でも、独身OLの生活は貧しいものだった。

「皆が辞めちゃったから、タンポポも寿退職がしたいんだろう?」

と、あからさまに言う人もいた。

誰でもいいから結婚してくれと内心では思っているのに、結婚を前提に付き合おうと言われれば「死んだ方がまし」と、言い放っていた。

そんな無愛想な私だったが、会社の人達は皆優しくしてくれた。仕事が全然出来ないのに、そこに居場所がちゃんとあった。けれど、このままじゃいけない。ずっとこうしてはいられないのだと、自分でも解っていた。

 

突然現れたアルバイトは、ひと目見ただけで”変わった子”だと解る風貌をしていた。

よれよれのTシャツとジーパンにスニーカー。

自分で切ったのかと思うような、短い髪。

すっぴんの丸い顔。ボサボサな太い眉。小柄で痩せているのに、桃色の頬だけがふっくらしていた。口角をキュッと上げて笑顔を作りながら、恥ずかしそうにしていた。

東大受験に失敗して浪人中だとか、実家からの仕送りが1円もない等のエピソードは、人情に厚い社長がいかにも好みそうな身の上話だった。

 

私とは、まるで違うタイプの子……

私は最初、このアルバイトに全く関心がなかった。

 

アルバイトの奈津子を、皆が名字にさん付けで呼んでいた。

私だけが名字ではなく「なっちゃん」と呼んだ。

なっちゃんは、皆が私を呼ぶ時と同じように「タンポポさん」と呼んだ。

実家は大阪で、イントネーションが大阪弁だったが、なっちゃんは「はい」とか「わかりました」の他は殆ど喋らず無口だった。

 

この会社では、昼休みに皆でランチに行くのが習慣だった。お昼になれば誰からともなく「今日はどこにする?」の声が上がり、誰かが食べたいものを言えば店が決まった。

会社の隣のビルにあるカフェに行く事が多かった。

当時のランチセットはドリンク付きで800円。私は殆ど毎日それに付き合い、月末でお金が足りなくなると「しようがない奴だな」と、必ず誰かが奢ってくれた。

なっちゃんは、私達と一度もランチに行かなかった。

最初は誘っていたのだが、毎回なっちゃんが断っていた。苦学生だから節約しているのだろうと、そのうちに誰も誘わなくなった。

 

ある日、私は小声で「たまには行かない?私がなっちゃんの分も払うからさ」と、誘ってみた。なっちゃんは一瞬、嬉しそうな笑顔を見せたものの

「ウチ、お昼はこれ食べるからええねん」と言いながら、私に大きなパンを見せた。

それは、スーパーで100円のフランスパンだった。

「このパンなあ、こんな大きいのに安いんよ。朝昼晩と食べられるから、好っきやねん」

私は驚いた。お弁当でも作って持って来ているとばかり思っていた。

「毎日ひとりで、つまらなくないの?」

「そんなん、平気やねん。ウチな、食べ終わったら絵を描いたり昼寝したり、好きな事してるしな。タンポポさん、ありがとう」

私は遅れてカフェに行き、なっちゃんを誘ったけれど断られた事を皆に伝えた。なっちゃんが安物のパン1本を、朝昼晩と食べている話もした。

「ああ、あの子。いつも大きなパンをかじってたね」

「知っていたんだ。私、知らなかった。毎日あんなパンを食べて、飽きないのかな。栄養だってきっと、足りないよ」

「いいんじゃないの?本人が好きでやっているんだからさ」

意外な事に、皆が素っ気ない反応をしたので、私はそれ以上言わなかった。けれども社員達の間で、なっちゃんの噂話が始まった。

「あの子、もう少し身なりを整えた方がいいよね。あれでも一応は、女なんだしさ」

「パンもそうだけど、毎日同じような格好してない?」

「小学生の男子にも見えるよな」

皆がゲラゲラと笑っていた。

「仕方ないじゃない。お金がなければおしゃれも化粧も出来ないんだから」

「いや、あれはお金があってもしないタイプでしょ」

ああ、この男どもは何も解っていない。なっちゃんの顔立ちは私よりずっと整っていて、磨けば光る原石だった。今は誰も、本人さえも気付いてはいないけれど。

この日以来、なっちゃんが気になりだした私は、時々コンビニのサラダやゆで卵を買って来て、こっそりと渡した。

なっちゃんは、申し訳なさそうにそれを受け取った。私も、ただの自己満足だと思いながらもつい、あげてしまうのだった。

自分の生活も苦しいけれど、この子ほどではない。私はちゃんとしたパン屋さんの、焼きたてでバリッとしたフランスパンでなければ嫌だった。

次第になっちゃんは打ち解けて、私にいろんな話をするようになった。

なっちゃんが休憩中に描いたというイラストも見せてくれた。それはアニメの模写で、驚くほど上手に描けていた。

「アニメージュ」という雑誌を宝物のように持ち歩き、いつも読んでいた。

「ウチな、この人の絵、めっちゃ好っきやねん」と言って見せてくれたのが、確かあのポスターの人の絵だった。

「なっちゃんはさ、受験するのやめてイラストとかアニメの専門学校に行けばいいんじゃない?」

「だってウチ、どうしても東大に行きたいんよ」

「東大に行って、何がしたいの?」

「それはな、入ってから考える。とにかく、東大に行く。絶対行く。東大じゃないとあかんのよ」

なっちゃんは東大以外の大学に入るつもりがないので、滑り止めさえも受けないのだった。

「来年受からなかったら、どうするの?」

「来年こそ受かる。落ちたら再来年も受ける。また落ちたら、その次の年も。ウチ、絶対に諦めへん」

私も、周りで聞いていた人も怖くなった。なっちゃんにとって、東大以外の大学には何の価値もないらしい。

なっちゃんは、物凄い早さで仕事を覚えた。2年以上いる私をすぐに追い越して、プログラミング技術を自分のものにした。

これには社長も、他の社員達も舌を巻いた。なっちゃんの天才的頭脳に、男達は嫉妬したのかも知れない。

もし、なっちゃんが東大受験に失敗しても、アルバイトではなく社員としてこの会社に残れるだろう。なっちゃんがそれを望むかどうか解らないけれど、社長が彼女を手離したくはないだろうと思った。

なっちゃんはお金がなくて予備校に行っていなかったが、夏期講習には通う事にした。

アルバイトと夏期講習で睡眠時間が削られて、見るからに辛そうだった。

ちょうどその頃、恋愛と金銭問題を抱えた私は、スナックでアルバイトを始めた。

昼間の仕事がおろそかになっても、なっちゃんがいたお陰で業務が滞らずに済んでいた。

私の心と身体も疲弊していた。会社では、水商売の事を誰にも気付かれないように振る舞っていた。

ある日、なっちゃんと私は他愛のない会話をした。なっちゃんは以前よりも明るくて、たくさんお喋りをしていた。

すると、ある社員が口を挟んできた。

「お前、ここは東京なんだからさ、その大阪弁直せないの?俺、お前の声を聞いてるとイライラしてくるんだよね」

「えっ?」

なっちゃんの表情が強張った。私は唖然とした。酷い。そんな風に言うなんて。

「すみません」

小柄ななっちゃんが、ますます小さくなって頭を下げたので、私は腹を立てた。

「なっちゃんが謝ることないよ。なっちゃんは大阪の子なんだから、大阪弁を話すのは当たり前でしょう?なっちゃんの大阪弁、可愛いから私は好き」

「俺は、嫌なんだよ」

「そんなもん知るか。直す必要もない。なっちゃんに謝って。ちゃんと謝って!」

「私はいいんです、いいんです」

「ちっとも良くないよ」

「解った解った、俺が悪かった。タンポポもどうしたのさ?こんな事でムキになるなんて」

私はドキッとした。もしかすると、夜の世界が私の何かを変えたのだろうか。

そんなはずない。私は何も変わらない。これからも、ずっと変わらない。

 

それから間もなくして、私はこの会社を辞めてしまった。

なっちゃんの受験結果が気になっていたけれど、それを確かめる術がなかった。

なっちゃんは果たして東大に行けたのだろうか。東大を出て、どんな職業に就いたのだろう。

東大を諦めてあの会社に残り、SEになったかも知れない。

大阪に戻って、大阪で結婚をして、大阪のおばちゃんになっているだろうか。

もう一度会って、昔話がしてみたい。

急に、勝手にいなくなった事を、謝りたい。

 

なっちゃんに会いたい。