○7月3日から6日にかけて吐噶喇列島を訪れて来た。7月3日午後11時50分に鹿児島港を出港して、目的地の宝島に到着したのは4日の午後1時過ぎであった。約13時間を要したことになる。
○帰りも、宝島を出港したのは6日の朝の7時で、鹿児島港には午後8時10分であったから、行きと同じく13時間を要している。鹿児島から口之島まで204�。口之島から宝島まで130�。つまり、鹿児島から宝島までは334�あることになる。
○十島村のホームページの拠ると、トカラの名の由来については、以下のように記述されている。
十島村は、「トカラ」とよばれていますが、その名の由来については、沖縄・奄美地方で沖の海原
を意味する「トハラ」から派生したという説、宝島に乳房の形をした女神山があることから、アイヌ
語の乳房を意味する「トカプ」に由来するという説、また、「宝島」の「タカラ」から派生し、列島
全体を指すようになったという説などさまざまですが、決め手になるものはありません。古くは、
「日本書紀」で述べられているのが初見であり、近世に入り、三島村を含めた有人十島をあわせ「じ
っとうそん」と呼んでいましたが、昭和27年の日本復帰後は、三島村の三島と分離し、七島だけを
「としまむら」と呼ぶようになりました。
○つまり、トカラの名の由来説には、主に三説あるという。
�沖縄・奄美地方で沖の海原を意味する「トハラ」から派生したという説。
�宝島に乳房の形をした女神山があることから、アイヌ語の乳房を意味する「トカプ」に由来すると
いう説。
�「宝島」の「タカラ」から派生し、列島全体を指すようになったという説。
���説とも、ある意味、もっともであるが、トカラの語源を説明するのは、どれも十分ではない気がする。特に�のアイヌ語説は、一時期、地名起源では一世を風靡したものであるが、現代ではとても認めることは出来ない。
○寛政七年(1785年)の「麑藩名勝考」で、白尾國柱は、河邊郡七島の項で、トカラについて詳述している。
【寶島】
・(日本)書紀作吐火羅。亦作都貨邏・都貨羅。
・琉球録作土噧喇。并に七島の統名。後僅かに寶島の一島に其の名を存す。
・諸国記作渡加羅は一島の名なり。
�孝徳紀曰白雉五年夏四月、吐火羅國男二人・女二人・舎衞女一人、被風流來于日向。
�斉明紀三年秋七月丁亥朔己丑、覩貨邏國男二人女四人、漂泊于筑紫。言、臣等初漂泊于海
見嶋。乃以驛召。辛丑暮、饗覩貨邏人。
�斉明紀五年三月丁亥、吐火羅人、共妻舎衞婦人來。
�斉明紀六年、覩貨邏人乾豆波斯達阿請曰、願得贈送暫還本國。當留妻以為質。許之。即與数十人入
西海路。
�天武紀三年、吐火羅及び舎衞女献薬種珎貨。
�和訓栞曰、とからしま、薩摩の洋中にある島なり。日本紀に吐火羅に作る。中山傳信録に土噧喇に
作る。(以下略)
�注揖琉球使禄云、七島云々、人不満萬。唯寶島較大。國人統呼之曰土噧喇。或曰、即倭也。
然國人甚諱之。殊不知有日本者。
�琉球國誌略云、一説七島本國属尚寧王被襲割地與之、王乃帰。即七島也云々。
○この後に、白尾國柱は、吐火羅國舎衞國が七島、即ちトカラ列島であることを看破している。また、白尾國柱は、臥蛇島・小臥蛇島の項で、次のような記事を載せる。
按ずるに、書紀所謂舎衞國、疑ふらくは是の島の原名歟。
つまり、白尾國柱は、寶島が吐火羅國で、舎衞國が臥蛇島ではないかと云うわけである。なかなか卓見で恐れ入る。
○岩波古典文学大系本「日本書紀」などでは、日本書紀が記録する吐火羅國や舎衞國を、西域の国であるとか、タイ国のドヴァラヴァティであるとか、舎衞はインドの国であるとか、途方もない話を載せているが、とんでもない話である。余程、江戸時代の白尾國柱の意見の方が的を射ている。
○しかし、本当は、吐火羅國はトカラ列島であって、舎衞國は硫黄島と言うのが妥当な線ではなかろうか。吐火羅國が宝島で、舎衞國が臥蛇島であれば、七島だけでも七国が存在することになる。それはいくら何でもないだろう。七島で一国、三島で一国と言うのが自然であろう。
○トカラの正式表示は「吐噶喇」であると言う話だが、この表示であれば、すべて表音文字であって、字義は一切関係ないことになる。それに対して、「吐火羅」であれば、トカラ列島が火を噴く島々の羅列と言うことになるから、一応字義は存在することになる。それが「渡加羅」島であれば、トカラ列島は中国へ渡る島々と言う意味となる。「寶島」は、中国人が宝島の豊かさを形容した表現と見るのが妥当な線ではないか。何しろ、中国の人々には、散々倭冦・和冦に悩まされ続けて来た歴史がある。東方見聞録のジパングではないけれども、東海の小島に寶島と言う島が存在し、金銀財宝で溢れかえっていると言うのであれば、誰もが憧れるし、夢見る異郷である。
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