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琉球文化創世記

沖縄に女神なる存在の歴史上の人物

(遥か昔より沖縄本島及び周辺島々(琉球文化圏)に伝えられる言語・童謡・歌集・流歌・神話・宗教・信仰・風習・行事・伝説から推測する)


阿摩弥 姑 (アマミ キユ)西300年
 アマミキユとされる琉球神話の琉球の地を開いたとされる開祖の神。

 阿摩弥 姑とその夫・志仁礼 久(シニリキユ)の一族が遠い昔、天帝より遣わされ「ギライカナイ」より琉球へ渡り住みついたと伝えられる。

琉球へのルートは奄美大島から伊是名島、伊平屋島、諸島々を渡来し久高島を最後に本島玉城村百名へ渡り住みついて稲作を始めたとされる。

1589年島津統治下摂政とし琉球藩主となり進貢交易だけの琉球国王となり廃藩置県後神話化されてしまう。

 私の推測によるが沖縄のシャーマニズム(祈祷)と相まって儒教文化はこの頃アマミキユから始まって先祖祭祀や自然祭礼(御嶽祭礼)が行われたのであろう。

また、とても頭のいい人または優秀な人を現在の沖縄方言で「シニリキユン」という。

語源はここからであろう。つまり、儒教の価値観の仁・義・礼・孝などを備えた秀才で徳があり称えられた人であったであろう人の名を準えての言葉ができたのであろう。

阿摩弥 姑(古くは母系集団であったがために阿摩弥 姑の名が知られるようになった)は御嶽祭礼の元祖たる存在で現在でも玉城村には祭地として残る。

阿摩弥 姑 (アマミ キユ)と夫である志仁礼 久の一族が儒教的慣習を沖縄に伝来した開祖だろうし天帝より遣わされたというのは儒教の敬天思想そのものである。

彼ら阿摩弥 姑一族は琉球を島伝いに諸島渡り歩き祭祀祭礼思想と伝説を名とて残し奄美、伊是名、浜比嘉島を出て久高島から最終地の玉城村百名へ住み儒教の統治技法をもって治めるのである。

徳ある者が天命を受けて王に成るとする徳有利論で先住民族集団に祭礼として御嶽を造り天・地・海の神々を鎮めて聖地として住地、農地開拓させ農耕儀礼を伝え暦を伝え神の怒りを買わぬよう(奉)納めさせて先祖祭祀の招魂儀礼などの法を説き先住民集団を治めて長い年月とともに部落に根人・根神を置きやがては世主を置き統治の基礎創り始めていった。

 では彼らがどこから来たのか足がかりとしては沖縄の北方から来たとする説は有力だがその先は大和の卑弥呼一族一派かも知れないし、朝鮮や中国かも知れないし、仮に大陸から流れてきたとしても彼らは渡り歩くにつれ辿りつく地の言語を吸収するくらいの才はあったのだろうか?

無文字とされていた時代に異言語の文化に対し言語や文字をひろめるよりも農を実践し貢物を納めさせ儒学の法を説き治めるほうが遥かに容易いのである。

また、日本から渡来説となれば大和地方としての名が残るだろうし言語自体は沖縄方言も日本語を源流としたものの分類となるので文字文化もすでに開かれたであろうが文字はまだずっと後の1187年である。

言語そのものはその後の王府時代に中国や周辺諸国との中継交易によってもたらされた物などは日本語にもない独特の沖縄方言として現在も残っているのである。

外来語まじりの沖縄方言である。(例えば猫のことをマヤーと言うがこれは広東語に近い) 何処から来たとしても現在では阿摩弥 姑一族の子孫となる人も多く現代の遺伝子の解析によって今後明らかとなるだろう。

 彼らが島に渡りおこなった独自の統治技法は実を結び史実として名を残していくのである。

系附やトートーメーなどの伝えによると後に国王となる天孫子王と英祖王、察度王は直系の子孫であり他の王の妃や按司も子孫であり沖縄での総元祖にあたる。

 沖縄の歴史を知るうえで儒教の本質を知らなければ琉球の歴史始まりも王朝の歴史も神話的に感じられ根本理解しがたいが史実であることが見えてくる。

 アマミ キユの子は天孫子の時代まで全て名前の最後にシーまたは子がつくが儒教において子というのは先生(師)という意味で、加那志(ガナシー)シーというのはあとから当て字で加那子が正しいであろうう。儒教の孔子、孟子と同じである。

 アマミ キユの子・天美人加那志(女)、巣出美人加那志(女)、(夫)南海大神加那志(瀬長島) 男女12人とされる 。

※「ギライカナイ」とは海の彼方の理想郷といい「ニライカナイ」というのが今では一般的だが古書などによると儀来可内(ぎらいかない)(儀の国から来たる者としたのか定かではないが)となっている字もあるがすべて当て字としてひらがなに漢字が付けられたもので漢字を当てはめるとすれば儀礼彼方「ギライカナイ」のほうが私としてはピッタリくると思う。

 つまり中国儒教の儀礼(ぎらい)が始まった地方、彼方(かない)とするのが正論であろう。

敬天思想というのは万物の根源を天と称し、天の神を天帝と呼んで畏敬した信仰に基づくものです

(てぃーらぬかん信仰=太陽信仰)

古琉球見聞録



  300年ごろ来たとされる開祖のアマミキヨの後の300年後に中国から来て史実として残っている隋書琉求國伝をみてみよう。

 「琉求は海島の中に居り、建安郡の東に当り、水行5日で到着する。土に山洞が多い。

 王の姓は歓期氏、名は渇刺兜、その由って来るところは知らないが、国は相当にふるい。王を人々は可老羊といい、その妻を多抜茶という。

 王のいるところを波羅檀洞といい、塹柵を三重にし、環らす流水を以てし、樹束を垣とする。王のいる舎は十六間、禽獣(鳥)を彫刻してある。

闘鏤樹が多く、橘に似て葉が密生し、条繊が髪のように下に垂れている。

 国四十五師あって諸洞を統べている。洞には小王があり、あちこちに村があって、村には鳥丁師(うらすい)なるものがいる。どちらも善く戦う者がこれになり、自ら戦って一村治をめている。

 男も女も白紵の縄で髪をつかね、首の後ろから巻きつけて額まで持ってくる。男は鳥の羽を用いて冠となし、装うに珠具を以ってし、赤い毛で飾り、形はいろいろである。

 婦人は羅紋のある白布を以って帽とし、その形は真四角。闘鏤樹の皮や雑色の紵類および毛で衣服をつくる。

形や裁き方は一様ではない。 毛を綴り、縲貝を垂れて飾りとするが色々のものが雑ざって下のほうへ小貝を垂れる。

それが珮球のような音で鳴る。 鎖をつないで腕飾りとし、珠を首に懸ける。籐を編んで笹とし、羽毛を以って飾る。

 刀、鉾、弓矢、槍のようなものがある。そこには鉄が少なく、刃は皆薄く小さい。多くは骨や角でこれを補っている。

カラムシを編んで甲とし、あるいは熊や豹の皮を用いる。

 王は木獣に乗り、左右をしてこれを挙げて行かしめる。導従するもの十人に過ぎず、小王は机(倚椅子)に乗り、これには獣形をちりばめてある。

 人は昔、驍健善く走る。死を恐れず創に耐える。 諸洞各々部隊をなし、互いに救助しない。両人相当るに勇者は三五人すすみでて跳燥する。

言を交えて互いに罵りそれから討ったり射たりする。勝てないと一群全体が皆走り逃げて、人を遣わして詫びをいれて、和解する。

戦って死んだ者は、皆集まって食う。 そして髑髏(ドクロ)を王の所に持っていくと、王はこの者に冠を与え、隊の大将にする。

 税というものがなく、事あるときに一般的に税を課す。刑を用いるもまた、よるべき律がなく、皆その時々に科を決める。

罪を犯すものは皆鳥丁師(うらしい)なる村の長が決め、これに伏さないものは王に上請する。

すると王は臣下をして議定せしめる。

 獄に枷や鎖がなく、ただ縄で縛るだけである。死刑をするには鉄槌をもってする。長さ一尺余り、頭の頂から刺して殺す。

軽罪は杖を用いる。 その国に文字がなく、月の満ち欠けを見て時節をしるし、草の栄枯をみて年をはかる。

 人は深目長鼻で胡(中国北方種族)によく似ている。君臣上下の節や、拝復の礼がない。

 父子床を同じくして寝る。男子は髭鬢を抜き去り、体毛のあるところは叉皆抜き去る。

 婦人は墨を以って手に刺青し、虫蛇の文(あや)をなす。嫁を貰う時は酒肴と珠貝をもって訪れる。あるいは男女が相悦べばすなわち結婚する。

 婦人はお産をすると必ず子衣(えな・体膜)を食べる。産後は火以って自らを炙り(あぶり)汗を出す。五日目で平腹する。

 木槽中に海水をさらして塩をつくり、木の汁で酢をつくる。米麹を醸して酒をつくる。その味大変薄い。

食事は手を用いる。たまたま珍しい食物があると先ず長上にすすめる。 凡そ宴会があると酒を摂るものが、名を呼ぶのを待ってから飲む 王に酒を奉る者も亦王の名を杯で一緒に飲むこと。突厥(西方の種族)と全く同様である。

 歌は一人が唄うと、皆が之に和し、声はすこぶる哀婉(もの哀しく美しい)である。女は腕を挙げて手を揺るがして舞う。

 死者は気が絶えようとすると庭に運ぶ、親戚や客が哭泣して相弔う。

その屍を浴せしめ布帛でこれをまとい、葦草で包んで土に葬る。上に盛り土はしない。子は父のために数ヶ月の間肉を食べない。

 南方の風俗は少し違う。人が死ぬと村の者が集まってこれを食う。
熊や羆(ひぐま)、豹狼もいる。猪や鶏は沢山いて、牛、羊、ロバ馬はい
ない。

 その田はよく肥えていて、先ず、火を以って焼き、それから水を引いてこれに濯ぐ。石をきざんで刃をつくり、長さ一尺余り、広さは数寸、これで耕す。

 土は稲、あわ、きび、麻豆、胡豆等によろしく、木には楓、?、くすのき、松、うるち、梓、竹、藤等があり果薬は江表(揚子江の左岸)に同じで、風土気候は嶺南と似ている。

 その俗、山海の神につかえ、祭るに酒肴を供える。争い戦って人を殺せば、すなわち殺した人を神に祭る。或いは茂った樹の側に小屋を作り、或いはドクロを樹の上にかけて、矢でこれを射る。

或いは石を累ね幡を繋いで神主とする。王のいる所の壁下には沢山のドクロを集めて自慢する。人の門戸の上には必ず獣頭や角が置いてある。

以上で終っている。


隋書琉求国伝を読むにあたり、人までも食っていたとするのは衝撃的だが著実に風俗を著していると思える。

王のいるところは縄文時代の環濠のある竪穴式住居のと思われる。

国四十五師というのは、国四十五の派閥があり山々を治めている。

山に小王がいて村々を治め、村には鳥丁師(うらすい)なる酋長がいて自ら戦って一村を治めるということだろう。

さらに鎖をつないで腕飾りとしとあるのは鉄を加工するだけの技術はすでにもっているということであろうか?

甲(よろい)熊や豹の皮を用いるとあるが沖縄には熊も豹もいないのである。ただ皮を見て判断したのか?それとも海を渡ってきた先住民が元々持っていたものなのか?

戦って首を王にもっていくというのは江戸時代にもみかけられるが戦って死んだ者は、皆集まって食うというのは信じがたいがパプアニューギニアなどでは百年前まではあったようだから信じ得ないことかも知れない。

しかし、ほんとうに人を食うのであれば周辺島々や本土にも奇習として語り継がれようし、後の時代王の時代まで奇習として何らかの形を残すだろう。

米麹を醸して酒(泡盛)をつくるだけの米がある人々があり得るだろうか?ではなぜ真実を捻じ伏せたのかということになるが朱寛が中国から倭国の交流の途に琉球へ来たのは侵略のためであったが従わず失敗に終り捕虜と戦利品を持ち帰ったとある。

しかし、この流求國伝には彼らが戦った記録はなく見聞して歩く旅行者振る舞いであり、信憑性に欠けているのではないだろうか、また、琉球人の気質は礼儀を重んじ迎える客をもてなしてましてや土産までもたせるという配慮が古くから浸透した儀礼社会なのである。

 朱寛としては、軍臣も軍船をも多く所有し軍力を誇示していた皇帝に手柄の報告を上げる事が出来ず自らの徳の無さと真実を報告し嘲られて厳罰か失脚か自決する訳も行かずに琉球人は人肉を食い貢物もない原始的な野蛮な国にて侵略する価値なしとしたかったのであろう。

隋が流求国から持参した戦利品を見た倭国人は此夷邪久(琉球)國人所用也る物だと言ったのを記録しているのである。

このあと倭国は隋国との国交が絶えてしまう。 

「君臣上下の節や、拝復の礼がない」というのは宗教的儀礼がこの地「鳥丁師(うらすい)」にはまだ伝わっていないということではない

だろうか?「うらすい=浦添の語源とおもわれる(方言でうらすいと言う)

「婦人は墨を以って手に刺青し」虫蛇の文(あや)をなすというのは沖縄で古くからの独特の風習で針突(ハジチ)といって明治生まれの一部の女性までは地方により刺青をしていたようです。

南方の・・・山海の神につかえ、祭るに酒肴を供える。というのはまさに300年にこの地に統治思想をもって移住してきた神々アマミキヨ(アマミコ)一族の子孫たちではないだろうか?

稲作儀礼など太陽崇拝(てぃらぬかん)信仰を島の南にもたらし山の神を鎮めるために御嶽を造り海を神を鎮めるために御嶽造り、五穀豊穣をなど祭祀儀礼を司り農と暦をもたらした。

彼らは徳・仁・礼・信・義・智の指導者であり自然の神に祭祀儀礼し祖先崇拝し招魂儀礼(清明祭)を沖縄に深く広めた人達である。

・・からにして人や自然の神の怒りを(怨霊)を恐れる彼らが村の者が集まって死肉を喰い、生け贄を捧げるような儀式と奇習というのは疑わしいのである。

だから隋書というものは、全部ではないが一部は作者のデタラメのでっち上げの報告書であるとしか言いようがない。

また役に立つ動物はなく熊や羆、豹狼がいるとしたのも意図的に一部分が塞がれたとしか思えないのである。

人の門戸の上には必ず獣頭や角が置いてあるというのは現在のシーサーという獅子を門戸の上に飾る(魔除け)習慣の原点だろうか?

また南方に王ありとするのは貴重な史実と一致するわけで600年代には、まだアマミコの子孫の天孫子王代は南方だけの統一されていない王であったということである。

この書をもっと南の台湾とする人もいるが隋書の記述法をみると水行何日で南方に到着する。となるはずだ。

天孫降臨伝説の一族は数々の琉球の伝説を残していくのである。

この後、琉球は元軍の度々の襲来を跳ね返すが不可思議なことは、どうして、薩摩などが1609年以前に領地権獲得のために進入してこなかったか?ということである。

それは何故かアマミキヨの一族が統治した時点では、沖縄には、まだ進入するだけの魅力はなかったのか?

沖縄の開闢神は古日本の開闢神と同じ系統だったのか?それとも大陸から来た開闢神だったの
か?薩摩に関する古い文献でもあれば探って見当するのもよいだろう。つづく


   隋書琉球國伝(2)つづく