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しんずるもの

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2018-08-12 19:11:38

夏向こう / 夏祭りの翌々日の話

 夏祭りで手提げ代わりに使った巾着袋を開くと、財布その他に混じって、じゃらじゃらと複数の鈴が出てきた。
 祭りの最中で出会った知り合いが落としていったと思しきものであったり、知り合いに話のついでとばかりに、なぜだか手渡されたものであったり、迷い込んだ先で偶然出会った相手に渡されたものであったり、とにかく入手経路は様々だ。それを表すように、色や形も異なっていて、実に賑やかである。
 そういえば、結局何の理由で渡されたのだろう。分からないなりに受け取ってしまったものの、相手が分かるものはお返しにいくか、別のものをお礼にもっていった方がいいのだろうか。貰ってしまった、という事実には変わりないのだし、と、潮は鈴たちを並べて、そこで、一つだけ、音が鳴らないものが混ざっているのに気づく。
 並べたものの中で、一番シンプルなデザインの、黄色と緑で組まれた紐がついた鈴だった。
 これは誰からもらったんだったかと思い出そうとしたが、その記憶はどこにも繋がらなかった。
 ……落とした巾着袋を拾ったときには、もう持っていたはずだ。握りしめていた覚えがあるから、巾着を落としている間に手に入れたのだろう。
 ならば、その間は、と探ろうとして、蘇るのはーー無数の白い手が襲いかかってくるおぞましい風景。
 思い出しただけでも背筋が震える。結局、といえばあれの正体も分からない。見間違えでないことは確かだが、幽霊なんてものが見えるほどの瞳は持ち合わせていないはずだというのに。
 よほど怖かったのか、どうやって逃げてきたかも思い出せない。
 ……いや、そもそも自分は逃げおおせたのか? 襲われたとき、立ちすくんで……そう、体が言うことを聞かなくて、音もなく伸びてくる手になすすべすらもたず、終いには走馬灯のようなものさえ見たというのに?
ーー思い出せない。
 その状況に、既視感を覚える。件の夏祭りの夜、スタンプカードに残された見覚えのない自身の筆跡を見たときも、同じ感覚に陥った。
 自分の過去の記憶が決定的に欠落していることを、潮はもう随分と前から知っている。
 ただ、それは、十年近く昔に関することにのみのはずで、あのひまわりスタンプが捺されたのは今夏に入ってから、夏祭りに至っては一昨日の話だ。
 何か怖いことに遭ったからだとしても、こんなにもすっぽり記憶は抜け落ちるものなのだろうか。
 ……潮は、自ら伸ばした前髪の奥に手を伸ばす。
 汗ばんだ右の額を指で辿ると、そこだけ皮膚の感触が違う場所がある。この傷跡を負ったのも、もうずっと前の話だ。

 足を滑らせて、どこかに頭を強く打ちつけたーーとされている。
 他人事のような説明しかできないのは、当人であるというのに、潮もそのことを覚えていないからだ。
 両親曰く、当時の潮は独りで外へ遊びに出かけることが多かったという。
 名前の読みで、同級生からからかいを受けた結果、同世代の子たちを遠巻きにするようになっていたのだと聞いた。言われてみれば、確かにそこの覚えはある。今では、男の名前のようだとか変な名前だとか冷やかされたとしても、よく言われると笑って受け流せるが、幼い自分にそれはひどく難しい話だった。
 対処できないのであれば、背を向けて逃げるしかない。その『逃げ』が、潮にとっては独り遊びだった。
 元々から、幼い子ども一人で遊んでいたわけではなく、同居していた祖母に相手になってもらっていた。ただ、潮がこの傷を負う少し前ーーその年の夏を迎えるより先に、彼女は急逝している。
 だが、代わりに遊び相手になるような人間がいれば、そもそもこのような問題になっていない。
 そういうわけで、幼い潮は独りで遊ぶようになったのだろう。
 両親の話だと、日中どこかしらに出かけていったとしても、日が暮れる頃にはきちんと家に戻ってきていて、どちらかが仕事を終えて帰ってきたときには、必ず潮は家にいたそうだ。
 だから、遊ぶと言ってもきっと家のすぐ近所で、もしかすると誰か新しい遊び相手でも見つけたのではないかと、深く問題視もしていなかった。
 ……そう語る彼らの顔に、一抹の後悔が滲んでいたのを、潮は覚えている。

 異変が起きたのは、潮の初めての夏休みが佳境に入った頃の、ある日のことだ。

 その日の両親はちょうど同じくらいの時間に家に帰ってきた。だから、扉を開けて、自宅に入ったとき、二人揃って、娘がそこにいないことに気づいた。
 近所に声をかけ、大人たちで手分けして捜索した結果、海辺の近くで、額から血を流して気を失っている幼い子どもを見つけたそうだ。
 子どもはそのまま病院に運び込まれ、翌日に目を覚ました。何があったのかと問う声に、そのときにはもう、答えを失ってしまっていた。

 そこからは、潮もところどころ覚えている。
 目を覚ましてすぐ、何かを忘れている、という強い自覚があった。
 理知的に状況を判断したのではない。
 ただ、『誰かにひどいことをしてしまった』と、胸の奥から冷や水が溢れてくるような絶望を感じた。
 謝らなければならないと思うのに、それが誰に対してなのか、何をしてしまったのかが、思い出せなかった。
 だから慌てて、周囲の人間に聞き回ったのだが、そんなことは何もなかったという。そんな人はいなかった、とすら言われた瞬間の、谷底に突き落とされた気分を、まだ覚えている。

 ……頭を強く打ちつけたことにより、記憶に混濁が見られる、というのが医師の診断だった。
 幸い、傷自体は命に別状はなかったものの、忙しさにかまけた結果、娘の命を危険に晒したと、両親は生活のスタンスを変えるために、転職とそれに連なる転居を決め、潮もまた彼らと共に海祈の地から去った。

 額の傷は残っているが、とうの昔に塞がって、痛みもしない。
 だが、失くした記憶は未だ思い出せないままである。薄ぼんやりと、思い返せる何かの尾を掴めたとしても、もっと根本的な、潮が最も取り戻したい場所には辿り着けていない。
 頭を打ってしまったのだし、と周りが取りなすのを、ひどく悲しい気持ちで聞いた。『頭を打った』というただそれだけの理由で失くしてしまったのだとしたら、そうしてしまった自分がどうしても許せなかった。
 傷を見るたびそれを思い出してしまうので、いつしか右の額は前髪の下に隠すようになったのだった。高校二年生になった今もそれは変わらず、今日だって額は髪を掻き揚げでもしなければ見えない。
 ああ、でも、と振り返って思うのだ。
 頭を打ったので、記憶に混濁が残った。だから、欠落もある。ーーでもそれは、本当に?
 潮は鳴らない鈴を握ったままの手を、もう片方の手で包んで、祈るように額に押し当てた。

ーー十年前の夏に置き去りにしたもの。何もかもを忘れてしまっても、それでもひどいことをしてしまったと、不幸にしてしまったと、それだけは覚えている誰かのこと。
ーーひまわりのスタンプが捺された日、一緒に虫捕りをしたという相手。
ーーそして、夏祭りで、白い群れに襲われてから巾着を拾いに戻るまで、何が起こったのか。この鈴をどこで手に入れたのか。

 どうして思い出せないのか、と胸を掻き毟りたい気持ちになる。
 大事なことを忘れている。とても大切な、決してどこかにおいていってはいけなかったもの。それをずっと先までつれていこうと思っていただろう、そんなことを。
 その自覚だけはあるのに、その自覚しかないから、こんなにも胸が苦しい。水中に沈められたように、息ができなくなる。
 思い出せば、この気持ちは消えるのだろうか。ひどいことをしてしまったそのひとに、ごめんなさいと、そう伝えられたのならば、少しは楽になれるのだろうか。
 そう考えたのは一度や二度ではない。だが、謝って楽になるとしたら、きっと潮だけだろう。
 他を忘れても実感だけは覚えている『ひどいこと』が、事情を思い出した上だとしても、たかが謝罪の言葉を並べたところで済まされるものだとは思っていない。
 たとえば罵声を浴びせられたとしても、その『ひどいこと』をし返されたとしても、潮は仕方のないことだと受け入れられる。受け入れたいと、思う。
 ……だから、許しは要らない、許してくれなくてもいいと、その覚悟は決めていた。
 ただ、思い出したい。自分のこの漠然とした自覚だけにいる、そのひとのことを。
 不幸にした、という言葉を使えるのなら、きっと潮は、そのひとと過ごして幸せだと感じたことがある。そう思うだけのよすががどこかにある。あったのだと、信じていたい。

 組んだ手には、いつの間にか力が篭っていた。
 こんなに強く握ってしまっても、鈴は泣き声一つ上げない。それが少し悲しかった。


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