夏向こう / 夏祭りの話
はらりと潮の袖から何かが落ちた。
手のひら程の大きさの紙片に、ああ、スタンプカードだとすぐに気づく。小学生が夏休みに行うラジオ体操のそれを連想させるカードは、夏の始まりに部屋を掃除していた際、出てきたものである。
作った覚えも貰った覚えもないそれを見つけたときは、首をかしげたものの、無意味に捨てるのも忍びない。しかし、毎朝元気に体操を行って、出席の証としてスタンプを捺してもらう年齢はとうに過ぎているので、折りに触れ、一緒に見つけた判子を自分で捺して、短い文を書きつけては、気まぐれな日記代わりとして使っていた。今日は持ってきたつもりもなかったが、ほとんど癖で連れてきていたのだろうか。
しゃがみこんで拾おうとしたものの、慣れない浴衣と下駄姿であちこち歩き回ったせいか、潮は少しよろけた。
あっ、と声を上げるがもう遅い。躓きかけた拍子に、財布や道中でもらった鈴をしまっていた巾着までもが地面に転がる。
口をしっかり閉じていたので、中身が散らばることこそなかったのが唯一の幸いか。潮は、足元に気をつけないと、と胸中でつぶやいて、今度こそカードと巾着を拾い上げようとした。
ーー視界に白いものがよぎったのは、そのときである。
潮は瞠目した。
駆けていく幼い子どもの姿が、スローモーションじみて瞳に焼きつく。
白いワンピース姿。自分と同じ色の髪と目。年は十も超えていないに違いない。
……見えざる手で、心臓を鷲掴みにされたような心地がした。
潮は、その子どもの姿を知っている。
棚にしまわれたアルバムの中、昔馴染みが描いたスケッチブックの中。あるいは陽炎の如き幻、内容が掻き消された夢の中でも、何度も目にした。
カードも巾着も、もはや思考の外にあった。先ほど転びかけたのも忘れ、浴衣が着崩れるのも構わず、ワンピースの裾を追って駆け出した。
面に狭まれた視界がもどかしいが、紐をほどく暇さえ惜しい。とにかく彼女に追いつかなければならない、という気持ちだけが、今や潮の心を占めている。
子どもは人混みをすり抜け、屋台の影を通り過ぎる。こんなに走っているのに、一向に差は縮まらない。それが、潮の胸を更にざわめかせる。
待って、と息を乱しながら、小さな背中へ必死に呼びかけた。それでも子どもは立ち止まらない。
駆けて、駆けて、いつしか潮は祭りの舞台を外れていた。吊るされた提灯の光も、看板の下から漏れる明かりもどこにも見えない。しかし、それさえ気づけずに、闇に白く浮き上がった子どもを追いかける。
辺りが宵闇に落ちてから、僅かずつであるが、相手が走る速度を落としていったように思われた。
あと少しで、追いつく。ほとんど転がるようになりながら、潮は懸命に走り切ろうとした。
だが、その眼前で、ふっと子どもの姿が搔き消える。
あまりに突然のことに、立ち止まることもできず、踏み出した体が傾いていく。
前のめりになった潮の前に、再び白いものが現れた。
……音はなかった。気配もなかった。
瞬きにも満たない刹那でーー無数の白い手が、視界を覆い尽くす。
あるものは引きちぎらんと、あるものは引きずり込まんと、指先を伸ばしてくる。
一瞬遅れて、潮の背筋を悪寒が這いずるが、そのときにはもう、数えきれないほどの指が、ほんの目と鼻の先を裂いていた。
なす術もない彼女の脳裏を、走馬灯のようによぎる風景がある。
病院の一室だった。ベッドに下半身を横たえて、身を起こしている子どもを、母が抱きしめた。付き添った父も痛ましげに、娘の額に巻かれた包帯を見つめていた。
もう、独りで遊んじゃダメよ。
怒りより悲痛な色が滲む声色に、子どもは、うん、とだけうなずいた。
うなずくしかなかった。両親が自分を心配してくれたのも、今回の出来事がどれだけ彼らの胸に傷を残したのも、幼いながらに分かってしまっていた。
二人が病室から出て行って、そこでようやく、子どもの頰を涙がこぼれ落ちる。
痛かったからではない。確かに額は鈍く痛んでいて、胸は引き絞られるような心地がしたけれど。
……ごめん。ごめんね。ごめんなさい。
しゃっくりを上げながら、独り、謝罪を繰り返す。
きっともっと言わなければいけないことがたくさんあるのに、続く言葉がわからない。
なぜそう思うのか、誰にそう伝えたいのか、それがちっとも思い出せない。記憶に空いた穴の向こう側から、言葉に表せない何かが溢れてくる。
どうしていいのかも分からず、子どもは宛先のない台詞を重ねた。
ーーひどいことを、してしまったと、思った。
それが何なのか、誰に対してなのか、分からないけれどーーとてもとても、大切なことから、自分は手を離してしまったのだと、それだけは、覚えていた。
だから、思い出したくて。
……ああ、それなのに、何も言えないまま。
「 」
白い群れが、大波のごとく押し寄せた。
手が、潮のそれを捕まえる。
あわや波に呑み込まれかけた体は、しかしその手のひらによって、確かに引き戻された。
潮の前と白い群れの間に、浴衣の袖が滑り込む。
誰かーー背の高い男が、異形の前に立ちふさがった。
大きな背にはばまれた直後、白い群れは勢いを失くし、汐が引くように掻き消えていった。
……何が、起こったのだろうか。
状況に追いつけず、呆然とすることしかできない潮の前で、男が振り返った。
仰いだ先には赤い面。祭りの屋台で子ども向けに売られているような、特撮番組のヒーローを模したらしいその面の上に、短く切り上げられた髪が見えたが、肝心の顔の輪郭は、暗闇で目が霞んだのだろうか、もやにぼやけて、よく見えない。
彼を仰ぐ潮の視線と、面の奥にあるだろう彼の視線が、ひととき、合ったように思われた。
それが一瞬だったのか、数秒だったのかは、分からない。
すっと男の手が潮の手のひらへ伸ばされた。どこか慣れたような仕草で、指先が小指を掠め、しかし指同士で絡み合うことはなく、そのまま手を握られる。
男はそのまま潮の手を引いて、白い群れが消えたのとは逆方向へ駆け出した。
つられて、潮もその後を追うことになる。
足の長さを鑑みても、間違いなく歩幅には大きな差があるのに、行き道ほど息を切らさずに済んだのは、きっと男のおかげなのだろう。お互い浴衣姿であることを差し引いても、彼はどこかペースを加減しているように見えた。
男のもう片手に握られた向日葵の輪郭に、チカチカとほの赤い光が伸び始めて、ああそういえば、随分走ってきたような気がする、と、潮はどこか他人事のように考えた。
たどり着いたのは人気のない場所だった。
といっても、先ほどまでのように、祭りの会場から大きく離れているわけではなく、少し離れたところからは人々のざわめきやお囃子の音が聞こえてくる。
男は立ち止まると、一度潮の方に顔を向け、それから静かに空を指差した。
夜空に光が弾け、大輪の花火がいくつも折り重なって打ち上がる。
ついさっき身の毛もよだつような体験をしたことさえ忘れて、潮は大輪の華を見入った。
屋台や木々など視界に邪魔がない分、はっきりと咲いてから散るまでの様子が分かる。
役目を終えた火の粉までも、流れ星じみて美しい。
華が咲くたびに遠い歓声が聞こえるものの、この場所は穴場であるのか、周囲に他の観客は見当たらない。
一面の花火を見ているのは、まるで自分たちふたりだけのような気さえしてくる。
ここで潮は、被っていた半面をずらして、そっと男の方を覗き見たが、彼は何も喋らない。表情も分からない顔の代わりに、明るい夜に照らされた面が色とりどりの光を跳ね返している。
……いよいよ終わりに近づいてきたのか、花火が打ち上げられる数が増していく。
もうもうと浮き上がっては、次の花火の色に塗り替えられていく煙の下で、男は繋いだままだった潮の手を静かに引いた。
人々の賑わいは轟音に巻き込まれてどこかへ消えて、潮の耳にだけ聞こえる二人分の下駄の音が、夜に名残を引いていく。
終りに片足をかけた祭り囃しの音色が耳朶を叩く。
屋台の影が完全に見えてくると、男は立ち止まって、潮の手を離した。
突然知らない誰かに手を引かれ走ってきたというのに、どうしてかそれが心細く、無意識に潮は彼へともう一度手を伸ばす。
だが、再びふたりが手を繋ぐことはなく、代わりに男は、空いた手で静かに潮の手をひっくり返して、開かれた手のひらにそっと何かを落とした。
「す、ず…?」
音もなく手の内に転がったそれを見て、ここでようやく潮の唇が本来の役目を取り戻した。
黄と緑が組まれた紐、その先で小さな鈴が鈍く光を吸い込んでいる。
どうしていいか分からず、男の顔を見上げたが、彼は依然黙ったままだ。
ただ、骨ばって冷たい手が、潮に鈴を握らせて。
そうして彼の手が、今度こそ、離れていく。
「ーーあ」
人混みに消えていく背中に、確かに何か言葉をかけようとした。
けれど、それが何なのか、潮自身もわからない。喉を越えきれなかったものが、ずるずると滑り落ちて、心臓の辺りにあぶくを上げて沈んでいく。
形になり損ねた声を押し潰すように、頭上で轟音が響いた。最後の花火が打ち上がり、人混みは光と影にまだらに砕かれて、個々の輪郭が曖昧になる。
男の影は、もう見えない。
なぜか、それがひどく哀しかった。
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