糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの

08月31日の「今日のダーリン」

・このごろ、よく言ってることなのだけれど、
 だいぶん前から大好きな料理店などを予約しておくと、
 その日が近づくまで、たのしみがじんわりと続く。
 前日とか前々日とかに苦しいことがあっても、
 「ここを乗り越えたら、鮨が待ってる」という具合に、
 じぶんを励ますこともできる。

 先に、たのしみがある人は、そこまで泳ぎ着こうとする。
 過去の思い出も、うれしく噛みしめることができるけど、
 未来のたのしみも、想像して唾液をためることができる。

 あれを買おうとか、あそこに行こうとか、
 あの人に会おうとか、あれを読もうとか、
 あの映画を見ようとか、あれを食べようとかね、
 先の時間、未来の景色のなかに、
 うれしいじぶんがいるというのは、すばらしいことだ。

 しかし、おたのしみが待ってる場合だけじゃなくて、
 きびしい難題が予定されていることだってある。
 その先に、逃げ出したいくらいつらいことがあって、
 そこまでは大きな荷物を背負って山登りする…ような。
 来るのか、来るのか、そんな怖い未来がくるのかと
 その日を怖れながら待っていることだってある。
 これは、おたのしみが待ってるのと、ちょとちがう。
 でもね、こういうときにもおたのしみを混ぜておくんだ。
 小さくても、必ず実現できるようなおたのしみをね。
 好きなラーメンでも、連ドラの翌週の回でもいいんだ。
 それをおたのしみとして混ぜておくと、
 うれしい時間も味わえるから、悲愴になりにくい。

 それでも、いざ勝負みたいな厳しい日は必ず来るけどね。
 そういう未来も、来れば過ぎるものでさ、
 「あんなこと、よくやったな」とか「失敗だった」とか、
 思い出に変化してしまうものなのだ。
 そのときを待っていて、そこまで向かっている時間が、
 実はいちばん苦しいものなのだと思う。
 いざ、その時になってしまえば、必ず直面して、
 すぐに過去になってしまうのだから。
 ま、ただ、逃げちゃうとまたやってくるんだけどね。
 8月の最後の日に、ぼんやり考えたことを書きました。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
食べものの約束が、わかりやすくたのしみをつくりやすい。