「建築の生い立ちや込められた思想を市民にも語り継いでいくことが大切だ」と語るドコモモ・ジャパンの松隈洋代表=京都工芸繊維大

 建築の価値を市民に理解してもらうためには何が必要か。モダニズム建築の記録・保存を行う国際学術組織DOCOMOMO日本支部(ドコモモ・ジャパン)代表の松隈洋京都工芸繊維大教授(近代建築史)に、方策を聞いた。

 ―建築の価値がどこにあるのか、一般市民が理解するのはなかなか難しいように思います。

 ある建築ができた時に、なぜこの建築がこんな形をして生まれてきたのかを知る手掛かりは、たぶん建築界の外の人にはない。だから、誰が造ったか知らない建築が突然目の前に誕生するという状況になっている。

 近代建築がどんどん壊されている現状を見ていると、建築界の中の人が社会に対して「この建築はこういうことで生まれた」ということをきちんと伝えてこなかった問題が、全部出てきている気がする。大学で建築を学ばない限り建築が見えてこないという環境は、この国の文化にとって相当まずい。

 小学校の家庭科で、住まいや街、都市、建築の話をなぜ教えてもらってないんだろう。例えば鳴門の小学生なら、鳴門に残る増田友也の建築を必ず見て知っていて、こんな人がこういう考え方で造った、ということを学んでいくとか・・・。それを知っているか知らないかで、あとあと随分違ってくる。そうした環境をつくっていくことが建築界全体の目標だと思う。

 ―ドコモモ・ジャパンの代表をされながら、「建築に愛着を持つ市民をどれぐらい育んでこられたのか」という複雑な思いも持っておられるようですね。

 世界文化遺産に登録されたり、ドコモモ選定建築に指定されたり、あるいはそれが重要文化財になることは、ある種のシンボルではある。しかし、あくまでそれは一つのシンボルにすぎず、むしろ、自分たちの身近にある建築の由来をみんなが知る回路ができ、理解の裾野が広がることの方がよほど大事だ。

 例えば増田友也でいえば、当時の谷光次鳴門市長との関係や、なぜ増田の建築が鳴門に集中してできたのか、増田がどんな思いを持って造ってきたのか、ということの共有が出発点にあれば、建物の見え方が変わってくる。

 ―ある種の物語が必要だと。

 以前、同志社大から「学生に建築の話をしてくれ」と声を掛けられ、こんな話をしたことがある。「広島平和記念資料館などの広島ピースセンターを丹下健三が設計したことは知ってると思うけど、丹下がどんな思いであれを造ったか、みんな知ってるか?」と。

 丹下は旧制広島高校の出身で、本人は被爆しなかったものの、級友たちをたくさん失った。広島の戦後復興が始まったとき、彼は志願して広島入りする。そこで原爆ドームを見て「あれを残さないといけない」と思い、コンペでは、敷地外にあった原爆ドームを軸線の焦点に据えた計画案を出して1等を取る。丹下があれを造らなかったら、原爆ドームは今ごろ残っていない可能性がある、と。

 学生はそんな話を聞いたことがないから、関心を持って現地に見に行く。そして「ピースセンターの意味が初めて分かった」となる。そんなことを少しずつやっていかないと、建築は共有の文化にならない。建築を社会共有のものとして、文化として根付かせるために、何かそういう仕掛けがいるんだと思う。

 ―丹下さんが設計した香川県庁舎東館の「保存・耐震化検討会議」の委員にもなられていましたね。

 1958年に建てられた香川県庁舎東館の内部は今でもピカピカだ。それは当時の金子正則知事が、戦争で夫を亡くした女性に就業支援として清掃組織をつくらせ、庁舎の清掃に当たらせたから。掃く、拭く、磨くといった作業を休むことなく50年間。それを職員たちもよく覚えている。そうすると庁舎を壊そうという発想にはなりにくい。

 ―香川県庁舎東館は「幸せな建築」ですね。

 「リビング・ヘリテージ=生きている文化遺産」と「シビックプライド」という言葉が、20世紀の建築をつかまえる大きなキーワードだと思っている。普段使いしている建築が実は遺産であり、それが地域に根付いているとすれば次の時代の「シビックプライド」、市民が誇りにすることのできる共有財産になる。

 全国を見渡しても、残っていればこれからの時代の「わがまち自慢」になるポテンシャルを持った建物は山のようにある。鳴門市における増田友也の建築も、そういうものではないか。

(おわり)