東京で設計事務所を開いていた当時47歳の渡部英彦(84)=横浜市=の元に、師匠の増田友也(1914~81年)から電話が入ったのは81年3月10日のことである。「渡部君、もうお別れだ」。電話口の向こうの増田は、検査で食道がんが見つかったと告げた。
東京生まれの渡部は、京大建築学科を経て京大大学院修士課程を60年に修了し、東京で職に就いていた。67年には東京女子医大心臓血圧研究所の研究部棟を増田の指導の下で設計しており、増田が上京した際にもちょくちょく会う間柄だった。
増田はがんの発覚を京都の仲間にすぐ話せず、その不安を東京の渡部に受け止めてもらいたかったのだろう。渡部は自宅近くの新横浜から新幹線に飛び乗り、その日のう
ちに京都に向かう。増田の家に着いたのは夜の11時を回っていた。
「6カ月持つ、って言われたけど、手術しないと言ったんだ」。増田は渡部にそう話した。手術をすればどんな格好になるかを医師から聞かされたという増田は「手術後の崩れた姿に増田友也の精神は宿れない」とも言った。渡部はそんな師の美学を一蹴し、「いちかばちか、手術をやるべきだ」と迫る。
渡部は京都を訪ねるに当たり、「病気の話ばかりしても気が滅入るだろう」と考え、自身が設計した作品を増田に見てもらおうと、学習院創立百周年記念会館(78年)などの写真を40枚ほど携えていった。
増田はその写真を一枚一枚時間をかけて丁寧に見てくれたという。病気のことを忘れ、弟子の建築と真摯(しんし)に向き合う静謐(せいひつ)な時間が流れた。全ての写真を見終わったあと、増田は言った。「上品な建物をつくってくれたね」。渡部にはその夜のことが今も忘れられないという。
手術はしないと言っていた増田は渡部の説得で翻意し、自らが設計に携わった縁で東京女子医大病院に入院する。増田は病院に向かう際、「手術が駄目だったらこれに骨を納めてくれ」と言って、白い壺(つぼ)を持って行った。入院手続きには鳴門市文化会館の設計スタッフだった東京生まれの坂田泉(63)=東京都=も同行したが、坂田によれば、この壺は作家の川端康成からもらったものだという。
3月22日に入院した増田は、その2、3日後には手術を済ませたとみられる。入院生活に入ってからも、増田は建設中の文化会館を気に掛けていた。見舞いに行った渡部に「鳴門に行ってやってくれ」と頼み、渡部は何回も文化会館の建設現場に足を運んだ。
帰京した渡部が病室に報告に行くと、増田は「写真を見せろ」と言う。現像には2、3日かかっていた時代だ。「また持ってくる」と返しても、「どんなか、どんなか」と食い下がってくる。そこで渡部が描いたスケッチを渡すと、増田は喜んで病室の壁に貼り、しばらく眺めていた。
しかし、そのスケッチは数日後に病室を訪ねると、外されていた。「思いが残るから、しまったんだ」。渡部には、増田のその言葉が胸に染みた。
文化会館の工事監理の責任者だった河井恭一(71)=大阪府富田林市=が7月に見舞いに訪れた際、増田はもう寝たきりに近い状態だった。そこで最後の指示があった。「ホールの壁の色も、やっと決めたよ」。増田が命じたのは金色だった。その色は今もホール後方の内壁を彩っている。
増田友也、8月14日没。
門下生の建築家、瀧光夫(1936~2016年)が増田の没後、雑誌「新建築」(81年10月号)に追悼文を寄せている。
「四六時中建築の思索と創作に没頭されていて、権威、名声、儀礼、家庭、およそ世俗のことには無頓着で、その奔放、自由闊達(かったつ)の生きざまは、世捨人(よすてびと)というか、常人ばなれもしてみえた」「が、学生と一緒に創り、学び、遊ぶ先生は、弟子にとってこれほどありがたい存在はない。私たちは先生との全人的触れ合いの中で、よくもあんなことができた、と思うような大学院生活をすごした」
建築と真摯(しんし)に向き合い、多くの門下生から深く敬慕された増田。亡くなってなお、弟子の中で生き続ける大きな存在だった。