メモに残る感謝の念
増田友也(1914~81年)には、生涯で2人の師がいた。1人は京大建築学科の恩師、森田慶一(1895~1983年)。もう1人は、鳴門市長を59年から7期28年務めた谷光次(1907~2002年)である。
増田が2人を師と仰いでいたことは、晩年に書かれた1枚のメモから裏付けられる。「増田友也生誕100周年記念建築作品展」が京都工芸繊維大で開かれた15年、同大教授の松隈洋(60)らが遺族から借りた増田の所蔵資料の中に、そのメモはあった。
書かれたのは1979年9月7日。増田が京大教授を定年退官して1年5カ月余りが過ぎた頃である。増田はこれまでの来し方に思いを巡らせたのだろう。
「人にとってもっとも偉大な師匠というのは その人に何ごとかを教え知らしめられたというような人物の存在ではない そのような師匠が居るというただそれだけのことで偉大なのだ 森田先生、谷市長のような存在なのだ」
増田らしい哲学的な言い回しだが、増田にとって森田と谷は、何かを教わったという関係を超えた存在だったことが分かる。戦後、大陸から引き揚げてきた増田を京大講師として拾い、建築論の世界に導いた森田が学問上の師であるなら、谷は、増田が建築家として活躍する場を継続的に与えた絶対的支援者だった。
森田は、東京帝大建築学科を卒業した20年に、日本で最初の近代建築運動とされる「分離派建築会」を堀口捨己ら同級生5人と結成したことで知られる。その20年に創設された京都帝大建築学科に、森田が助教授として赴任するのが22年。34年から24年間は教授の地位にあり、日本に建築論という学問を根付かせた。
森田の退官と同じ58年春に京大建築学科を卒業した満野久(82)=京都市=は、その翌年の正月、当時助教授だった増田に誘われて森田の家を訪ねている。丹下健三や清家清ら東京で活躍する同世代の建築家の話がひとしきり出たあと、森田は「増田君、西風至るです。やがて西から風が吹いて、日本の建築も変わるでしょう」と語ったという。
満野は「それは森田さんの励ましであり、期待だった。森田さんも自分の建築論が増田に受け継がれ、日本の建築界に一つの流れを起こすだろうという自負があった。僕にはその2人の間柄がうらやましい限りだった」と振り返る。
増田は京大を定年退官した直後の78年4月、建築を志す新入生を対象にした講演で「京都大学の建築論研究というのは、いま世界をリードしている」と語っている。増田は森田の期待に応え、師の建築論をさらに深化させたのだった。
一方の師である鳴門市長の谷。増田の鳴門デビュー作となる市民会館(61年)の設計チーフを務めた満野は、最初の打ち合わせで増田と鳴門市役所を訪ねた時のことをよく覚えている。
「谷市長と増田先生は、初対面に近いあいさつの仕方だった。その時が実質的に始まりだったんじゃないか。そこで2人は意気投合し、随分話が弾んだ」
市長就任後、初めて手掛ける公共建築を大学の同窓である増田に託した谷。谷はこの仕事を通じて増田を信頼したのだろう。
鳴門市職員として増田建築の監理に長年携わった元建設部長の古林庸策(77)=大麻町大谷=によると、谷は法学部出身でありながら建築にめっぽう明るかった。建築が人に与える力を信じていたのか、「専門外とは思えないぐらい、よく考えていた」と言う。
競艇事業の増収にも助けられ、谷は70年代に入ると増田に次々と学校建築などを依頼する。増田が72年に設立した「生活環境研究所」も、鳴門の仕事を請け負うためにつくられたと言っていい。増田門下の人長信昭(74)=京都市=は、増田から「谷さんと約束したんだ」と言われ、増田が受けた仕事の契約や建築確認申請などを行うこの組織をつくったと明かす。
増田は、森田と谷によって自分は生かされてきたと感じていたのだろう。2人の師への思いは、増田最後の作品、鳴門市文化会館に結実していく。